代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

西洋学問の受容と西周と赤松小三郎

2015年05月29日 | 赤松小三郎
 以前の記事で(この記事)、「文科省官僚と安倍官邸の必読書」として紹介した松尾義之著『日本語の科学が世界を変える』(筑摩書房)の一節を紹介したい。松尾氏は、西周を高く評価し、「西周なくして、日本語の近代学問はありえなかったと思う」とまで言い切っている。



 「科学」という言葉そのものも西周の造語と言われている(松尾氏によれば、まだ確証は得られていないそうだ)。松尾氏は、西周一個人の卓越した造語能力が、日本のみならず東アジア漢字文化圏全体を救ったとまで述べるのである。

 「西周などによって、近代西欧の学術用語が、日本語漢語に翻訳されたことは、東アジア文化圏にとって、僥倖であったとしか言いようがないであろう。それはどういうことかというと、現代の私たちは、母国語で科学ができるということ、母国語で心理学や哲学の議論ができるということなのだ」(松尾、前掲書、55頁)

 ちなみに philosophy を「哲学」と訳したのも、 mental philosophy を「心理学」と訳したのも西周である。

 江戸公儀の番所調所教授であった西周は文久2年に、榎本武揚、津田真道らとともにオランダに官費留学した。そして、オランダの地で、津田真道とともにフリーメイソンに入会している。日本で最初にフリーメイソンに入会したのは、西周と津田真道の二名であった。

 「フリーメイソン」というと、明治維新を裏で操ろうと画策していたという「陰謀論」が語られることも多い。その根拠としてよく取り上げられるのが、薩長に武器を売却し、徳川政権の転覆に「死の商人」として貢献していた長崎の武器商人のトーマス・グラバーがフリーメイソンの会員だったという史実である。

 幕末当時、日本人にもフリーメイソンの会員はいた。西周と津田真道である。彼らが何かの陰謀に関与したのだろうか?
 西周の卓越した造語能力が東アジア文化圏全体にとって僥倖であったという松尾氏の評価の通り、西周はその能力によって日本語による学問体系を守った日本の恩人でもある。そのことは日本人として感謝せねばならないことは間違いのないことであろう。

 西周は、オランダからの帰国後に徳川慶喜の側近となり、会津藩公用人の山本覚馬や軍学者・赤松小三郎とも友人であった。西周と赤松はともに、山本覚馬に依頼されて会津藩洋学所の顧問を務めていたという間柄である。

 西周も赤松小三郎も日本語・漢語の概念にはない英語の学術用語を、何とかして日本語の語彙に取り込もうと苦闘していた。いまの時代の翻訳とはわけが違う。parliament も prime minister も、science も philosophy もそれに相当する日本語も漢語もないのである。言葉そのものを造語しなければならないのだ。赤松小三郎は parliament を「議政局」、prime minister を「大閣老」と訳した。残念ながら、それらの訳語は日本語に定着しなかったが・・・。

 私は、当時の日本における英学の草分けであり、日本最高峰の知識人であった西周と赤松小三郎は、お互いの苦労を分かち合える親友だったのだろうと思っていた・・・・・。

 ここで赤松小三郎と西周の政体構想を比較してみよう。両者の政体構想は大きく異なる。
 このブログで紹介してきたように、赤松小三郎は全人民による普通選挙で選出された「議政局(上・下両院)」を国の最高機関とし、天皇や「大閣老」の上に位置づけるという、日本最初の、人民平等の原則に基づく民主主義的な政体構想を唱えていた。

 それに対し、西周の政体改革構想は、徳川慶喜が大君(大統領)として、司法・行政・立法の三権の頂点に立つというものだった。二院制の議会は提案されているが、議員は藩主と藩士しかなれない。しかも、大君が上院(藩主で構成)の長も兼ね、下院(藩士で構成)の解散権をも持つという内容であった。これは大君独裁政治といっても過言ではない。慶喜を絶対君主とする「上からの近代化構想」といってよいだろう。
 
 フリーメイソン会員の西周が、徳川慶喜を絶対君主とする上からの近代化構想を唱えていたのだ。この政治的スタンスは、薩長に最新式武器を供与し武力討幕を陰で支えたトーマス・グラバーとは180度反対方向にある。これを見ると「フリーメイソンの組織的陰謀説」は否定されるようにも思える。グラバーが「死の商人」となって薩長を助けたのは事実であるが、別に武器商人なら儲けるためには当然にやることであろう・・・・と。

 しかし昨年、品川弥二郎の日記の中に、どうしても気になって仕方ない記述を発見してしまった。

 赤松小三郎が中村半次郎らによって暗殺された翌々日の品川弥二郎日記(慶応3年9月5日)に以下のように書かれているのだ。

 「五日晴 朝黒氏を問フ 西氏帰京 赤松一昨日斬首セラレシヨシ。」

 「黒氏」というのは、薩摩藩士の黒田清綱のことだと思われる。品川は、黒田清綱を問うて、赤松が暗殺されたか否かを確認したのだろうと思われる。おそらく長州藩も、赤松小三郎を薩長同盟にとって共通の脅威として取り除くよう西郷・大久保に要請しており、それゆえ品川は暗殺が履行されたかどうかを黒田清綱から確認しようとしたのであろう。(根拠は<補記>参照)

 ここで、どうしても気になるのが「西氏帰京」という品川の記述である。この西氏とは西周のことなのだろうか? 徳川慶喜の側近で、会津藩洋学校の顧問も務めていた西が、同時に長州藩の品川弥二郎とも付き合っていたのだろうか? ちなみに赤松小三郎に上田への帰郷を強く勧めたのは西周とされている(この記事参照)。


 明治になってからの西周は、品川弥二郎や山縣有朋の長州閥とは親密な関係にあった。山縣は西周に「軍人勅諭」を起草させた。品川は自らが設立した独協大学の初代校長を西周に委ねた。

 慶応3年の時点で、徳川慶喜の側近であったはずの西周が薩長側のスパイとして、赤松小三郎を売り渡していたのか・・・? それゆえに、明治になってからも長州閥から厚遇されたのではないか・・・と。となるとフリーメイソンの組織的な工作というのも本当にあったのかも知れない・・・・と。
 西周の仕事を評価してきた私としてはあまり考えたくないのだが、この品川の日記を見て、その疑念がどうしても頭から離れない。以上、あくまで仮説として書き留めておく。


<補記>

 鏡川伊一郎氏は、ブログ「小説の孵化場」において赤松小三郎の暗殺には山縣有朋も関与していると推測している(以下のリンク先記事参照)
 
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/e80693883fc77758ad76d25ed3c02c90
http://blog.goo.ne.jp/kagamigawa/e/e80693883fc77758ad76d25ed3c02c90

 上の記事には、明治になってからの山縣有朋(陸軍大輔)と桐野利秋(陸軍少将)の「あんなに簡単に幕府が倒れるなら、赤松を殺すのではなかった」という会話のエピソードが紹介されている。いま赤松小三郎研究会でも、この会話のエピソードの出所を探しているのだが、特定できず、赤松小三郎暗殺への山縣関与は確証を得るには至っていない。

 
 
 
 

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11 コメント

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西周の人物 (renqing)
2015-06-01 02:59:55
西周に関しては留意すべき点が二つあります。
一つは出身が津和野藩であること。二つが津和野藩の医者の家系だったこと。この2点です。津和野藩は長州の隣藩で、幕末・維新期では主家亀井家は中立を維持してましたが、それに飽き足らない藩中の不満分子は脱藩して長州に流れ込みました。したがって長州には人脈的に好(よしみ)があるはずです。また、津和野藩は逸早く神仏分離・廃仏毀釈・仏寺破却をするなど維新政権につらなる国学・神道の盛んな土地柄です。また徳川期の医者は身分的には士分ではなく、要はその特殊専門知識で主家に仕える茶坊主、芸人でした。したがって、いつか一人前に人間(=さむらい)になりたい、と願うことは、幼い頃から頭脳優秀で周囲に期待されていた周介少年には当然あったでしょう。つまり、家のため、己のための立身出世願望は身を焦がすほどあったのはある意味当然です。ちなみに遠縁の森林太郎(鴎外)を陸軍長州閥に誘導したのは西です。
西にとって、幕臣になったことも、和蘭留学も、当り前のように栄達のチャンスを生かしたことになるでしょう。また、西が描いた新政権青写真が徳川が主権者となる権力国家像だとすれば、それは彼が慶喜に仕えていたからであって、主権者が天皇(あるいは薩長)に変更されても主権が集中する権力国家観に変更はなかったと思われます。してみると、赤松の新政権構想は、過激に過ぎ(あるいは時期尚早)と西が腹の底で考えていても不思議ではありません。赤松も西の当代一流のインテリでしたが、その志向するところは真逆だった可能性があります。
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西が薩長に接近した理由 ()
2015-06-05 09:41:10
 西周に関して、大変に示唆的なコメントまことにありがとうございました。

>したがって長州には人脈的に好(よしみ)があるはずです。

 たしかに。しかし、もともと長州に人脈があったとしても、慶喜のブレーンであるはずの西が、慶応3年の時点で、長州の品川らと堂々と付き合うのはさすがにまずかったとと思います。

 あえてそれをやったとすれば、慶喜を裏切ることになり、相当に勇気の必要な行為だったと思います。はたして西個人の判断だったのでしょうか。もしかしたら「組織」の指示だったのかという疑念が出てきてしまいました。

 昨今、さまざまな本でフリーメイソンの暗躍について語られています。必要以上にフリーメイソンを過大評価すると「陰謀史観」になってしまいますが、西が会員であったことは消し去れない歴史的事実であることも確かです。

 秘密結社なので、史料など何も出てこないと思います。しかし、フリーメイソンからの指示によって西が慶喜を裏切って薩長側に接近した可能性というのは、一つの仮説として検討すべきと、品川の日記を読んで 真剣に考えるようになりました。いかが思われまますか?
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Unknown (renqing)
2015-06-05 13:20:22
関 様

私の元来の「西周」像は、抜群に怜悧な立身出世主義者、です。直裁に言えば、西は「勝ち馬」に乗り換えただけではないでしょうか。西の二股膏薬は、保身からする保険なのでは?(ただ、品川日記の「西氏」が西周と断定できるのか気にはなります。)
西周の頭脳は時代に図抜けたものでした。しかし、その魂は、自身の立身出世による栄達への渇望と家の繁栄という、徳川期を覆っていた下層武士(西家は武士でさえもない)のエートスです。
東畑精一『日本資本主義の形成者』岩波新書(1964) 、pp.70-71、にこうあります。
「明治維新によって解放された最大のものは実に武士―ことにそれまでの封建制度の下で比較的に強く抑えられてきた下層武士―であった。彼らは四海同胞を謳歌した。武士は自らを喪うことによって新天地に活動しうる精神的自由と倫理的是認とを獲得した。しかも旧武士が活躍した経済開発の場面は、主として明治とともに新たに開けたもので、これには庶民が容易に立ち入り難いようなものであった。」
西周の自己規定は、生ける「道具」だったのではないでしょうか。「道具」である以上、最も効果的にその能力を使役してくれる主(あるじ)に仕える、は極めて合理的です。
また、徳川慶喜を間近に見たことで、頭脳明晰ではあるが、政治家としての「力」不足を実感していて、早々に見切りをつけていた可能性もあります。徳川家臣団から慶喜へのポジティブな評価をあまり聞きません。
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ありがとうございました ()
2015-06-06 11:22:01
renqingさま

>ただ、品川日記の「西氏」が西周と断定できるのか気にはなります

 たしかにそうですね。まだ調査不十分で、この「西」が西周助なのかどうか確証できません。いまの段階での安易な推測は危険なので、仮説として持ちつつ事実関係の調査をしたいと思います。(何か最近、自分の本来の研究課題と違うことばかりしていますが・・・・)

>徳川慶喜を間近に見たことで、頭脳明晰ではあるが、政治家としての「力」不足を実感していて

 慶喜本人も西が嫌いだったという話も聞きますね。慶喜は、渋沢栄一あたりの才能を見抜いたところを見ると人を見る目もあったように思えるのですが・・・・。評価の難しい人物です。

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薩摩下士武闘謀略派のテロリズムが赤松小三郎に向けられた理由の背景にあるものと西周。 (薩長公英陰謀論者)
2015-06-14 20:15:21

 renqing さまの認識の精緻さと的確さ、寸鉄にして卓抜な洞察をもたらす目の深さに心から敬意を表します。

 幕末の下士に連なる西周を動かした栄達願望というご指摘が、関曠野氏による維新の理念不在の認識とみごとに響きあうことが印象的です。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4041/seki/0307.html 2003年7月「 百姓一揆と出世主義革命」から抜粋引用:

明治維新は無思想なクーデターだったが、大久保や岩倉らの倒幕の動機をあえて思想とするならば、それは「学問のすすめ」における福沢諭吉の思想と同質な出世主義の思想だとするほかはない。明治維新をあえて革命としてこじつけるならば、王政復古の看板の下で実現したのは、出世主義革命なのである。・・・明治の国家と社会は、平等の理念を棚上げにしたまま、日本独特の出世主義のイデオロギーで身分制を清算することになった。

 <抜粋引用以上>

 この栄達出世主義という浅瀬の思想は、西周以来現在に至るまで支配的な心理支配メカニズムとして世の中のクォリティを決定づけています。爾来財官学にあまねく存在する官僚主義のバックボーンであると同時に、街の本屋にあふれる洋の東西を問わぬ「成功哲学」に化体して老若男女をひろく強くとらえています。さらには新興宗教までに?

 津和野西周流の薩長同盟のもとに動いた可能性がある薩摩下士武闘謀略派のテロリズムの動機として、赤松小三郎が薩摩藩の軍備の内情を知悉していたことに加えて、おそらくこちらが決定的な政治的動機であったであろう、薩摩藩内の平和的改革勢力、 武力倒幕反対勢力の強力な思想的バックボーンであったこと、の二つであったとされるのはきわめて納得できることです。

 この二番目の動機を掘り下げますと、赤松小三郎の政体構想が政局主義による政治権力のデザインではなく、人民を視座の中核に置いた、民衆に対する信頼と愛情の溢れる社会思想であったことに鍬があたるように思います。これは当時において、いえ今なお、稀有のことです。

 民衆への視線に拘泥したやに思われる宮地正人氏にしてその鋳型から脱することができない、上から目線の倒幕維新史観による、葵印の絶対主義 vs.菊印の絶対主義、二元論。この構図では掬うことができない第三の道を赤松小三郎が示していたと思います。決定的な代替案を。その後にかき消されたといえ、薩摩の要人を含む非常に多数の自覚的な人びとが赤松小三郎に傾倒しており、彼の人民史観が強い影響力を持っていたであろうと推察します。

 不幸にして天才であった彼は、時代と自分との距離が彼の自覚よりはるかに大きいこと、そしてその危険さに気がつきませんでした。現実に明治維新は赤松小三郎のはるかうしろで起きたわけです。

 しかし、群を抜く俊才であり、それゆえに自己のための計算に長けた西周は、当初からそれを痛いほど認識していたであろうと想像します。焼けるような功名心と一体となった嫉妬心は自然のことかと、そしてまさか「赤松なかりせば自分が・・・」と?

 慶喜は徳川将軍としては非常に特異な存在であり、おそらく西周の提案した構想にリンクするかたちでの幕藩体制の徳川絶対主義体制への切り換えを目指したということは近年の政治史研究で否定されているとのことです(久住真也『幕末の将軍』講談社選書メチエ、2009年;p228)。慶喜は、薩長のクーデター計画を知りながら放置し(前同書;254)、これに先立ち、徳川宗家相続に際して、将軍職継承を拒んで、松平春嶽に対して「徳川家の幕府は最早滅亡と思へども、家系は継かさるを得さる故、・・・」と語ったとのこと(前同書;p231)。

 慶喜は前を向かず背を向け時代の幕引きを図ろうとしていたわけで、過激観念論者ばかりの水戸の出自をぬぐえず、自己の才に溺れがちな慶喜の革新性の限界と半端さとを知悉していた敏い機会主義者の西周が、英国勢力に使嗾された長薩を勝ち組と読んで横滑りをたくらんだのは自然なことに思えます。

 維新後に日本の近代哲学の道を開き、自由主義的な市民政治を唱導した西周は、赤松小三郎を薩摩から切り離そうとしただけで、薩摩のテロリストに彼を殺させようと仕組んだのではないことを信じたいと思います・・・せめて未必の故意だったと。
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密室の故意 (renqing)
2015-06-16 03:14:28
薩長公英陰謀論者 様

関曠野氏の引用、まことにドンピシャです。私も実は過去読んでいたことを思い出しました。

久住真也『幕末の将軍』のご紹介もありがとうございます。近いうちに読ませて頂きます。

「成功哲学」。この言葉に最もしっくりくる国民は日本人以外では誰でしょうか。無論、米国人です。故国イギリスの宗教的迫害を逃れ、身分制を含む旧世界文明を清算し、「新世界」に「新しいローマ帝国」を建設しようとした清教徒たち。彼等は旧世界の身分制を一掃した瞬間、自らの予定されている神の祝福を現世で確信するために、不安な魂を慰めるfictionをでっち上げる必要が出てきます。それが彼等の現世での「成功」です。米国人の言う Democacy が meritocracy(一種の立身出世主義)の一変種に過ぎないと喝破したのは Max Weber でした。 そして立身を渇望する元Young Samuraiの私費留学生の行く先はほぼ米国であり、東洋の「新世界」Japanに布教のチャンスを求めたmissionariesは皆、北米系でした。その好例が、内村の札幌バンドであり、熊本バンド、横浜バンド、いわゆる三大バンドです。明治のYoung Japan は、19世紀中葉のYoung America を西洋文明の範例として自己同一化に狂奔したことになります。それは期せずして両者のメンタリティが共鳴した帰結です。「白人」や「ガイジン」を見ると、「米国人」だと疑わないのは、戦後日本人だけの専売特許ではなさそうです。
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明治の立身出世主義の起源について (renqing)
2015-06-18 13:17:01
薩長公英陰謀論者 様、ブログ主 様

またしても、私めのコメント、弊ブログ記事として流用させていただきます。重ねて恐縮です。m(_ _)m
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メリトクラシーにはまだ手が届かないままに、御コメントと重要なご提起のお礼を申し上げます。 (薩長公英陰謀論者)
2015-06-18 14:05:20

 renqing さま:

 ご多忙のなか、超・深更のコメントをいただき誠に恐縮に存じます。狭い経験のなかではあれ、自ら実感したことにそのまま響く、まことに印象深い御指摘を拝見して強い刺激を受けました。ありがとうございます。じつは昨日は朝からいささか遠方に出かけなければなりませんで、お礼が今になりましたことをお詫びします。

 さて、そのぶっきらぼうな文章に蒙を啓かれたこと数え切れない関曠野氏には勝手に私淑いたしております。renqing さまが氏のものに目を通しておられるとのこと、大変うれしく、意を強くいたしました。

 久住真也氏の2009年刊の著書にある略歴では、1970年生まれで客員研究員および非常勤講師とありましたのでいささかやきもきしておりました。いま見ますと、博士取得後幾つもの大学で非常勤講師をなさったあと、この4月から私立大学の准教授に就かれているとのこと。ひとりがてんで安堵いたしますとともに、関さんが最新記事(2015年05月31日付)で取り上げておられる『明治維新の国際舞台』の著者、鵜飼政志氏が、2014年刊の同書奥付きによれば、1966年生まれで非常勤講師をなさっているとのこと、いささか粛然たる思いでおります。日本の「知的世界(アカデミズム)」というのは、自立した精神で独自性に富む研究をしている学究には不安定な場しか与えないというわけでしょうか。

 じつは、この機会に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を、と意気込んで、出先の駅ビルの書店の棚でさがしましたら、ウェーバー本の中でこの本だけが売れたところらしく、思い立って近くにあったトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』第2巻を求めてみました。
 帰途の電車での一読では、随所に抱腹絶倒寸前になりながらメリトクラシーに関しては空振りで、帰りましてからあわててネット書店でウェーバーを注文いたしました。

 ということでございまして、ウェーバーのアメリカン・メリトクラシー論には手が届かぬまま、御コメントの刺激によって抱きました問題意識について底の浅い報告をさせていただき、あらためて二考、三考して後日を期したいと存じます。

     ☆☆☆

 出世主義原理、または出世原理主義というものをメリトクラシーという言葉に置き換えていただき、身分制に対する平等主義としてのデモクラシーと並置していただいたおかげで、一気に「世界史的な」視野が広がる感がいたします。

 Wikipedia ソースで恐縮ですが、以下のような叙述を見て、驚愕いたしました:

Although meritocracy as a term is a relatively recently coined word ( 1958 ), the concept of a government based on standardized examinations originates from the works of Confucius, along with other Legalist and Confucian philosophers. The first meritocracy was implemented in the second century BC, by the Han Dynasty, which introduced the world's first civil service exams evaluating the "merit" of officials. Meritocracy as a concept spread from China to British India during the seventeenth century, and then into continental Europe and the United States.

With the translation of Confucian texts during the Enlightenment, the concept of a meritocracy reached intellectuals in the West, who saw it as an alternative to the traditional ancient regime of Europe.

 ここ ↑ では、隋の文帝が始めたという科挙を漢代の官吏選抜と混同しているかと思われます。が、17世紀の啓蒙時代に儒教とともにメリトクラシーが英領インドを経て大陸欧州に伝わって旧来のレジームの代替と目され、また米国に伝播したという記述に唖然といたしました。

 日本には科挙は導入されず役職世襲身分制が維持されたとは言え、儒教ベースの人的評価またはモチベーションと云えば、江戸期の朱子学とひょっとして水戸学を想起します。
 水戸学ベースでなされた倒幕維新によって、そのアメリカン・メリトクラシーが古代中国発で西回りに地球を一周、太平洋を渡って日本で双方が「合流」したと!

 倒幕維新の政治的「主体」であった下士を鼓舞したのが武士階層内の身分秩序を破壊するメリトクラシーの平等主義(水戸学)であったであろうと想像します。
 彼等はご指摘のようにアメリカン・メリトクラシーを出世原理主義とし、欧米化(近代化)をすすめる社会思想として利用する一方で、政治軍事面では土地貴族をベースとしたプロシアの絶対主義官僚制を導入したということになりますでしょうか。
 まさにご指摘の「日米メンタリティの共鳴協奏がささえたヤング・サムライの自己同一化」が燃え上がった結果がそれであったと。

 そうして、非世襲身分制平等主義のカンバンのもとにやがて科挙よろしく文官官僚を高等文官試験で登用するようになり、官吏養成校として東大文1の地位が確立、それが戦後引き続いて維持されたままであると。
 そうして今や、自己の栄達と地位保全をすべての上に置く官僚文化が、アカデミア・メディア・企業・地方自治・教育を問わず、世の中の隅々までを蔽うに至ったのでしょうか。

 突然に話しが卑近になるのをお詫びします。メリトクラシー・・・そういえば、米国におりましたとき、企業内のいわゆる人事評価査定が「メリット・レヴュー」と呼ばれていたことを苦い記憶として思い出しました。
 またアメリカ人のあいだにおりますと、トックヴィルが驚いてみせていたように「すべてがビジネス」であるということがあたりまえでした。

 ビジネスの成功によってリッチになることが人生の価値である(芸術家や学者を含めて)というアメリカン・メリトクラシーは、バブルに向かう1980年代後半くらいから日本にひろく浸透したやに思います。千葉浦安のディズニーランド開園が1983年ですから、これに呼応しているのではないでしょうか。

 アメリカで企業のなかにおりますと周囲から「なぜ会社を辞めて自分のビジネスを始めないんだ」と何かあれば当たり前のようにして云われていたことを覚えています。

 ここのところのアメリカン・メリトクラシーは高度成長後の80年代以降において日本では依然としてしっかりブロックされており、「江戸時代の藩中心主義・忠誠主義の藩が企業に置き換わったのではないか」という自分なりの実感的観察となっておりました。

 しかし、グローバル化と株主価値経営(国際金融主導経済)のもとで企業は、被雇用者にとって、また経営層にとってすら、すでに無条件のよりどころではなくなりました。

 かっての内発性の忠誠は外からの強迫支配に代置されつつあり、アメリカン・メリトクラシーは一気に同時代のアメリカン・戦争ファシズムの導入席巻に変容しつつあります。すみません、筆を焦ってついサイド・トラックに。
返信する
水戸メリトクラシー (renqing)
2015-06-20 11:32:00
薩長公英陰謀論者 様

「ウェーバーのアメリカン・メリトクラシー論」に類するものは、「プロ倫」ではなく、「職業としての学問」(岩波文庫版 p.58)にございます。ご参照ください。

また、明清期にカトリック宣教師たち次々が近世中国の儒家思想や国制を西欧に紹介し、百科全書派に強いインスピレーションを与えた件は、下記の名著に詳らかです。なにしろかなり近時まで西欧においては官職は身分statusと一体の私有財産propertyだったわけですから。知識人たちが自分たちの社会が中国より「遅れている」と思うもの当然です。
後藤末雄著「中国思想のフランス西漸」平凡社東洋文庫

儒家、なんかずく朱子学に、能力原理(=「する」価値)とそれを実現する制度(科挙)があることは、徳川期の身分原理(=「である」価値)と真っ向からぶつかります。したがって、徳川公儀が朱子学を正学にすることは原理的にあってはならないことです。冷静に考えれば誰でも了解可能な合理的事実で、丸山真男の「日本政治思想史研究」に早くから有力な反論(尾藤正英)が出たのは当然です。

水戸徳川家が公儀滅亡まで凄惨な内紛が絶えなかったのは、彰考館を根城とする水戸メリトクラシーと水戸徳川家の公的な原理(身分原理)に妥協などあり得なかったからです。

水戸メリトクラシー。このご指摘で私も、水戸学の持つ社会学的意味(思想史的なではなく)が明確になりました。薩長公英陰謀論者様、感謝です。徳川御三家が徳川公儀を滅亡に追い込む、という日本近代史最大のなぞの一つはこの線で整合的に記述できそうです。この件、恐縮ですが弊ブログに続きを書かせていただきます。
返信する
早とちりのメリトクラシー理解の仕立て直しをと思いまして。維新後70年に比することができるかと思える「ポツダム」後70年において。 (薩長公英陰謀論者)
2015-06-21 00:52:47
 renqing さま:

 早とちりがすぎました先の弊投稿におけるメリトクラシーの認識をウェーバーの到着を待つ間に急ぎ仕立て直したく、愚論をかさねますことをご容赦ください。

 この2015年はポツダム宣言受諾後70年にあたります。見ますと、明治維新後70年の1938年は国家総動員法が成立した年でした。
 議会で法案の説明を行った佐藤賢了陸軍中佐が立憲政友会の議員による説明者軍人の独演長広舌への抗議に対して、「黙れ!」と恫喝、これを新聞が大きく書き立てたために陸軍大臣が遺憾の意を表明したものの、そも2年前の「二・二六」事件の軍人によるテロリズムを想起して震え上がった議員たちが、それまで審議が難航していた同法案をすんなり通してしまったそうです。

 明治維新後60年にして行われた初めての普通選挙(ただし参政権は男性のみ、治安維持法とセットで)による普選議会成立後わずか10年、維新後70年目に「軍部独裁」戦争ファシズム体制への移行の法的基礎が成立したわけです。

 この国家総動員体制の敗戦・破滅後64年で、先般の選挙による民主党への政権交代、そのわずか6年後、戦争ファシズム体制を否定したポツダム宣言の受諾後奇しくも同じく70年目の目の前で対外戦争のための法的基礎を確立する法案のセットが審議難航していることを歴史の偶然と言うべきかどうか・・・・。

     ☆☆☆

 マックス・ウェーバーのアメリカン・メリトクラシー論の到着を待つ間に、日本におけるメリトクラシーについて、最近身のまわりでその受けとめ方の変容を感じますことから、第二次アベ政権成立以来の日本の社会の急激な変質(「ポツダム」後70年)と短兵急に関連づけて考えてみます。

 読みかじりで少し見てみましたら、米国においてメリトクラシーは、第一義的に能力主義、実績主義による社会エリートの選抜システムとして認識されていたように思えます。
 すなわちアメリカン・メリトクラシーは平等を旨とするデモクラシーの実現であり、そのデモクラシーを担保するものであると考えられていながら、現在はこれがある種の二律背反を生み出して「非世襲の特権者支配」「社会の階層化、階梯構造化」となることが認識されているようです。

 また、ウィキペディアに 「 Extreme careerism 」(「出世至上主義」)が取り上げられ、1990年代、2000年代になってメリトクラシーが異形のものと化し、社会心理的病理現象となってあらわれているとの注意喚起がなされています。

 米国においては、90年代の「冷戦勝利」後に出現したニュー・エコノミーの高揚がITバブルによるごく一部が突出した奇形的な繁栄に化し、そのITバブル崩壊後の2000年代、9.11からアフガン・イラク戦争、サブプライム&リーマン・ショックによる社会の急激な劣化崩壊が出現したように思います。

 その結果、個々人の成功と社会的利益のリンケージの喪失にともなう優勝劣敗原理(市場原理)への絶望、つまりデモクラシーとメリトクラシーを破壊する「1%対99%原理」の認識発見が定着したのではないでしょうか。
 ひょっとして、アメリカン・ドリームの消失、成功者・富裕者への敬意羨望の厳然たる変質が発生し、かっては想像できなかったメリトクラシーへの人々の視線の変化が現実となっているかに思えます。

 米国の動きに呼応するところが必ずあるであろう日本において、メリトクラシーの変容は感じられますでしょうか。
 現在の日本の言論空間は非常にゆがめられており、喧しいメディアにおける言説によってものごとの見当をつけることは不可能となっておりますので、ごく狭い範囲の周囲での感覚的なものをあらためて振り返りますと、
 おそらく明治文明開化以来のかってのメリトクラシー構造が、とりわけ変質した民主党政権のもとに直面した3.11フクシマ以降、そして現在の第二次アベ政権下において大きく変容しているやに思えます。

 思いつくままに列挙しますと、東京大学の権威・そのネームポジションの失墜、かって存在した大蔵省と通産省(財務省・金融庁・経産省)経済企画庁のエリート官僚への敬意・信頼の消失、おなじく日銀、・・・と言いますか、政界はともかくとして、官界は言うまでもなく、財界、学界、文芸・音楽などのアート、そしてメディア一般にわたり、知的・文化的メリトクラシーは、この間に急激に崩壊消失しているのではないでしょうか。
 かっては文化人、知識人という存在が社会的インパクトを持っていたことがうそのように。

 これらのことはむしろ嘆くべきこととは思えません。いま深刻で大きな歴史的変化、転換に直面しているゆえんであろうと思えます。
 しかし、それが今のメリトクラシー・エリートたちの錯覚による箱船など無いノアの大洪水である可能性は否めません。
 その中で私たちノン・エリートが「生きる意味@たんさいぼう影の会長」をどのように紡ぎ出すのかに直面する、そういう時代ではないでしょうか。 

      ☆☆☆

 江戸期のメリトクラシー、江戸公儀の官僚制度と薩長独自の官僚制度の存在と、その維新以降への連続性について、『江戸時代と近代』(著者代表、大石慎三郎・中根千枝、筑摩書房、1986年)を興味深く見て考え始めました。しかし、どうやら手に負えそうではありません。

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