「30日、衆議院で暫定税率が再可決されます」
「4月からの暫定税率の混乱が続くことになります」
国民はマスメディアによって、政府批判をする考えを思考停止させ、ガソリン暫定税率を再可決するのが正しいことで、5月から上がるのだから安いうちに満タンにしようと詰め掛ける庶民の姿を映し、暫定税率を再可決してほしいとデモ行進する地方自治体の姿を映し、原油値上りも含め160円/リットルになる、と報道し、暫定税率を一時廃止に持っていった民主党が混乱をもたらしたかのように言っている。
また断っておくが、私は民主党支持者ではない。投票にも行かなかったような無党派層である。続けます。
山口補選で野党が勝利したとき、政府・マスメディアは政府の説明不足の「後期高齢者医療制度が逆風になった」としか報道せず、出口調査で約7割の有権者が暫定税率復活に反対していることを、殆ど前面に出さなかった。
気をつけてテレビを見ていればスグに気付く。何故数日後に政権政党が再議決しようとしている、庶民を苦しめる「暫定税率」が前面に出てこないのか!
■補選の敗因は「後期高齢者医療制度しか考えられない」(参院自民党幹部)との見方が強まっている。(朝日新聞4月28日朝刊)
更に、ひどいことに、ある民放では山口補選で勝利した民主党鳩山氏が勝因について「後期高齢者医療制度への大きな批判、暫定税率を復活させるべきではないという国民の審判だ」と指摘した部分をカットし、その後の「政権奪取に民主党は頑張る」といった日本人が好まない(好印象を与えない)政権争いの部分だけを写していた。
「長寿(後期高齢者)医療制度の説明が不十分」だったことだけが敗因とする政府の後押し報道である。
暫定税率については、2日前位からようやく一番最初に書いたコメントが出され、庶民・ガソリンスタンド業者の“混乱”振りを写しだす。政府が悪いことをしようとしている、といったニュアンスの報道は皆無だった。
正に、朝日の社説(下記)、
国民(民意)なんて、(後期高齢者医療制度といった)目先の利害のことしか考えていない“度し難いしろもの(愚民)”だ。
我々が英知を集めて議論して出した「論説」が正しいに決まっているのだ。
その「論説」に評価される福田政治は政策的には間違っていないのだ。
といった考え方に基づいている。
前置きが長くなったが、今日のタイトルに入る。
国民みんなが、下記の様な教科書で教育を受けるべきだ。今の日本の政治状況と比較して読んでほしい。
「民主主義」1948年、文部省作成の教科書より抜粋
はじめに
民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をすすめる人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現われであるには相違ない。しかし、民王主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。
すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。
第1章 民主主義の本質
(略)専制政治には国王がある。権門政治には門閥がある。金権政治には財閥がある。そういう人々にとっては、一般の者は、ただ服従させておきさえすればよい動物にすぎない。あるいは上に立っている連中の生活を、はなやかな、愉快なものにするための、道具にすぎない。かれらは、こういう考え方を露骨に示すこともある。その気持ちを隠して、体裁だけは四民平等のような顔をしていることもある。しかし結局は同じことである。
そこには本当に人間を尊重するという観念がない。
支配者は自分たちだけは尊重するが、一般人は一段下がった人間としてしか取り扱わない。一般人の方でもまた、自分たちは一段低い人間であると考え、上からの権威に盲従して怪しまない。
人間社会の文化の程度が低い時代には、支配者たちはその動機を少しも隠そうとしなかった。の酋長や専制時代の国王は、もっと強大な権力を得、もっと大規模な略奪をしたいという簡単明白な理由から、露骨にかれらの人民たちを酷使したり、戦争にかり立てたりした。
ところが、文明が向上し、人知が発達して来るにつれて、専制主義や独裁主義のやり方もだんだんとじょうずになってくる。
独裁者たちは、かれらの貪欲な、傲慢な動機を露骨に示さないで、それを道徳(愛国心)だの、国家の名誉(国家の品格)だの、民族の繁栄(伝統と文化の継承)だのというよそ行きの着物で飾るほうが、いっそう都合がよいし、効果も上げるということを発見した。
帝国の光栄を守るというような美名の下に、人々は服従し、馬車うまのように働き、一命を投げ出して闘った。しかし、それはいったいなんのためだったろう。かれらは、独裁者たちの野望にあやつられているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んでいったのである。
(ここからは前に引用した箇所なので読んだことのある人はハショッてください)
現にそういうふうにして日本も戦争を始め、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。
これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。
しかし、そう言って安心していることはできない。
独裁主義は民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。
独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。
今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。
弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗じてじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変え、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。
そういう野望をうち破るにはどうしたらいいであろうか。
それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは国民のみんなが政治的に賢明になることである。
人に言われてその通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。(前述はここまで)
第5章 多数決
(略)立法権(国会)にせよ、行政権(政府)にせよ、ある決まった人たちだけが長くそれをひとり占めしていると、いろいろな弊害が生ずる。
ちょうど、水が長いこと一箇所にたまっていると、ぼうふらがわいたり、腐ったりするように。
だから、民主政治では、国会議員の任期を限って、たびたび総選挙を行い、それとともに政府の顔ぶれも変わるようにして、常に政治の中心に新しい水が流れこむような工夫がしてある。
つまり、民主政治は「多数決主義」と「選良主義」との長所を取って、それを組み合わせたような具合になっているということができよう。
<民主政治の落し穴>
しかし、それにしても、民主政治を運用して行く根本のしかたが多数決であることには変わりはない。
国民の間から国会議員を選ぶにしても、最も多くの投票を得た人が当選する。
国会で法律を作る場合にも、多数でその可否を決する。
内閣総理大臣を指名するのも、国会での多数の意向によるのである。
したがって、民主政治は「多数の支配」である。
多数で決めたことが、国民全体の意志として通用するのである。
しかるに、前に言ったように多数の意見だからその方が常に少数の意見よりも正しいということは、決して言い得ない。
中世の時代には、すべての人々は、太陽や星が人間の住む世界を中心にしてまわっているのだと信じていた。
近世の初めになって、コペルニクスやガリレオが現われて、天動説の誤りを正した。
その当時には、天動説は絶対の多数意見であった。
地動説を正しいと信じたのは、ほんの少数の人々にすぎなかった。
それと同じように、政治上の判断の場合にも、少数の人々の進んだ意見の方が、大勢が信じて疑わないことよりも正しい場合が少なくない。
それなのに、なんでも多数の力で押し通し、正しい少数の意見には耳もかさないというふうになれば、それはまさに「多数党の横暴」である。
民主主義は、この弊害を、なんとかして防いで行かなければならない。
多数決という方法は、用い方によっては多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。
何故ならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにたてまつり上げ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。
(ドイツの例)
第一次世界大戦に負けたドイツは、ワイマールという町で憲法を作って高度の民主主義の制度を採用した。
ワイマール憲法によると、国の権力の根源は国民にある。
その国民の意志に基づいて国政の中心をなすものは、国会である。
国会議員は男女平等の普通選挙によって選ばれ、法律は国会の多数決で定め、国会の多数党が中心となって内閣を組織し、法律によって政治を行う。
そういうしくみだけから言えば、ワイマール憲法のもとでのドイツは、どこの国にもひけを取らない立派な民主国家であった。
ところが、国会の中にたくさんの政党ができ、それが互に勢力を争っているうちに、ドイツ国民はだんだんと議会政治に飽きて来た。
どっちつかずのふらふらした政党政治の代わりに、一つの方向にまっしぐらに国民を引っ張って行く、強い政治力が現われることを望むようになった。
そこへ出現したのがナチス党である。
初めはわずか7名しか仲間がいなかったといわれるナチス党は、たちまちのうちに国民の中に人気を博し、一九三三年一月の総選挙の結果、とうとうドイツ国会の第一党となった。
かくて内閣を組織したヒトラーは、国会の多数決を利用して、政府に行政権のみならず立法権をも与える法律を制定させた。
政府が立法権を握ってしまえば、どんな政治でも思うがままに行うことができる。
議会は無用の長物と化する。
ドイツは完全な独裁主義の国となって、国民はヒトラーの宣伝とナチス党(ゲシュタポ)の弾圧との下に、まっしぐらに戦争へ、そうしてまっしぐらに破滅へとかり立てられて行ったのである。
(ウグイスの例)
動物の世界にも、それによく似た現象がある。
すなわち、ほととぎすという鳥は、自分で巣を作らないでうぐいすの巣に卵を生みつける。
うぐいすの母親は、それと自分の生んだ卵とを差別しないで暖める。
ところが、ほととぎすの卵はうぐいすの卵よりも孵化日数が短い。
だから、ほととぎすの卵の方が先にひなになり、だんだんと大きくなってその巣を独占し、うぐいすの卵を巣の外に押し出して、地面に落してみんなこわしてしまう。
多数を占めた政党に、無分別に権力を与える民主主義は、愚かなうぐいすの母親と同じことである。
そこを利用して、独裁主義のほととぎすが、民主政治の巣ともいうべき国会の中に卵を生みつける。
そうして、初めのうちはおとなしくしているが、一たび多数を制すると、たちまち正体を現わし、すべての反対党を追い払って、国会を独占してしまう。
民主主義はいっぺんにこわれて、独裁主義だけがのさばることになる。
ドイツの場合は、まさにそうであった。
こういうことが再び繰り返されないとは限らない。
民主国家の国民は、民主政治にもそういう落し穴があることを、十分に注意してかかる必要がある。
<多数決と言論の自由>
多数決の方法に伴なうかような弊害を防ぐためには、何よりもまず言論の自由を重んじなければならない。
言論の自由こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守るたてであり、安全弁である。
したがって、ある一つの政党がどんなに国会の多数を占めることになっても、反対の少数意見の発言を封ずるということは許されない。
幾つかの政党が並び存して、互に批判し合い、議論をたたかわせ合うというところに、民主主義の進歩がある。
それを「挙国一致」とか「一国一党」とかいうようなことを言って、反対党の言論を禁じてしまえば、政治の進歩もまた止まってしようのである。
だから、民主主義は多数決を重んずるが、いかなる多数の力をもってしても言論の自由を奪うということは絶対に許さるべきでない。
何事も多数決によるのが民主主義ではあるが、どんな多数といえども、民主主義そのものを否定するような決定をする資格はない。
言論の自由ということは、個人意志の尊重であり、したがって少数意見を尊重しなければならないのは、そのためである。
もちろん、国民さえ賢明であるならば、多数意見の方が少数意見よりも真理に近いのが常であろう。
しかし、多数意見の方が正しい場合にも、少数の反対説のいうところをよく聞き、それによって多数の支持する意見をもう一度考え直してみるということは、真理をいっそう確かな基礎の上におくゆえんである。
これに反して、少数説の方がほんとうは正しいにもかかわらず、多数の意見を無理に通してしまい、少数の人々の言うことに耳を傾けないならば、政治の中にさしこむ真理の光はむなしくさえぎられてしまう。
そういう態度は、社会の陥っている誤りを正す機会を、自ら求めて永久に失うものであるといわなければならない。
だから、多数決によるのは、多数の意見ならば正しいと決めてかかることを意味するものではないのである。
ただ、対立する幾つかの意見の中でどれが正しいかは、あらかじめ判断しえないことが多い。
神ならば、その中でどれが真理であるかを即座に決定しうるであろう。しかし、神ならぬ人間が、神のような権威をもって断定を下すことは、思い上がった独断の態度にほかならないのである。
さればといって、どれが進むべさほんとうの道であるかわからないというだけでは、問題はいつまてたっても解決しない。
だから、多数決によって一応の解決をつけるのである。
■教科書だから当たり前と言えばそれまでだが、もうコメントする必要がない程、まとまっている。
ここからが、重要なところですが、文字制限に引っかかるので次回にまわします。続けて読んでください。
「4月からの暫定税率の混乱が続くことになります」
国民はマスメディアによって、政府批判をする考えを思考停止させ、ガソリン暫定税率を再可決するのが正しいことで、5月から上がるのだから安いうちに満タンにしようと詰め掛ける庶民の姿を映し、暫定税率を再可決してほしいとデモ行進する地方自治体の姿を映し、原油値上りも含め160円/リットルになる、と報道し、暫定税率を一時廃止に持っていった民主党が混乱をもたらしたかのように言っている。
また断っておくが、私は民主党支持者ではない。投票にも行かなかったような無党派層である。続けます。
山口補選で野党が勝利したとき、政府・マスメディアは政府の説明不足の「後期高齢者医療制度が逆風になった」としか報道せず、出口調査で約7割の有権者が暫定税率復活に反対していることを、殆ど前面に出さなかった。
気をつけてテレビを見ていればスグに気付く。何故数日後に政権政党が再議決しようとしている、庶民を苦しめる「暫定税率」が前面に出てこないのか!
■補選の敗因は「後期高齢者医療制度しか考えられない」(参院自民党幹部)との見方が強まっている。(朝日新聞4月28日朝刊)
更に、ひどいことに、ある民放では山口補選で勝利した民主党鳩山氏が勝因について「後期高齢者医療制度への大きな批判、暫定税率を復活させるべきではないという国民の審判だ」と指摘した部分をカットし、その後の「政権奪取に民主党は頑張る」といった日本人が好まない(好印象を与えない)政権争いの部分だけを写していた。
「長寿(後期高齢者)医療制度の説明が不十分」だったことだけが敗因とする政府の後押し報道である。
暫定税率については、2日前位からようやく一番最初に書いたコメントが出され、庶民・ガソリンスタンド業者の“混乱”振りを写しだす。政府が悪いことをしようとしている、といったニュアンスの報道は皆無だった。
正に、朝日の社説(下記)、
国民(民意)なんて、(後期高齢者医療制度といった)目先の利害のことしか考えていない“度し難いしろもの(愚民)”だ。
我々が英知を集めて議論して出した「論説」が正しいに決まっているのだ。
その「論説」に評価される福田政治は政策的には間違っていないのだ。
といった考え方に基づいている。
前置きが長くなったが、今日のタイトルに入る。
国民みんなが、下記の様な教科書で教育を受けるべきだ。今の日本の政治状況と比較して読んでほしい。
「民主主義」1948年、文部省作成の教科書より抜粋
はじめに
民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をすすめる人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現われであるには相違ない。しかし、民王主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。
すべての人間を個人として尊厳な価値を持つものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。
第1章 民主主義の本質
(略)専制政治には国王がある。権門政治には門閥がある。金権政治には財閥がある。そういう人々にとっては、一般の者は、ただ服従させておきさえすればよい動物にすぎない。あるいは上に立っている連中の生活を、はなやかな、愉快なものにするための、道具にすぎない。かれらは、こういう考え方を露骨に示すこともある。その気持ちを隠して、体裁だけは四民平等のような顔をしていることもある。しかし結局は同じことである。
そこには本当に人間を尊重するという観念がない。
支配者は自分たちだけは尊重するが、一般人は一段下がった人間としてしか取り扱わない。一般人の方でもまた、自分たちは一段低い人間であると考え、上からの権威に盲従して怪しまない。
人間社会の文化の程度が低い時代には、支配者たちはその動機を少しも隠そうとしなかった。の酋長や専制時代の国王は、もっと強大な権力を得、もっと大規模な略奪をしたいという簡単明白な理由から、露骨にかれらの人民たちを酷使したり、戦争にかり立てたりした。
ところが、文明が向上し、人知が発達して来るにつれて、専制主義や独裁主義のやり方もだんだんとじょうずになってくる。
独裁者たちは、かれらの貪欲な、傲慢な動機を露骨に示さないで、それを道徳(愛国心)だの、国家の名誉(国家の品格)だの、民族の繁栄(伝統と文化の継承)だのというよそ行きの着物で飾るほうが、いっそう都合がよいし、効果も上げるということを発見した。
帝国の光栄を守るというような美名の下に、人々は服従し、馬車うまのように働き、一命を投げ出して闘った。しかし、それはいったいなんのためだったろう。かれらは、独裁者たちの野望にあやつられているとは知らないで、そうすることが義務だと考え、そうして死んでいったのである。
(ここからは前に引用した箇所なので読んだことのある人はハショッてください)
現にそういうふうにして日本も戦争を始め、国民のすべてが独裁政治によってもたらされた塗炭の苦しみを骨身にしみて味わった。
これからの日本では、そういうことは二度と再び起こらないと思うかもしれない。
しかし、そう言って安心していることはできない。
独裁主義は民主化されたはずの今後の日本にも、いつ、どこから忍びこんで来るかわからないのである。
独裁政治を利用しようとする者は、今度はまたやり方を変えて、もっとじょうずになるだろう。
今度は、だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて、こうするのがみんなのためだと言って、人々をあやつろうとするだろう。
弁舌でおだてたり、金力で誘惑したり、世の中をわざと混乱におとしいれ、その混乱に乗じてじょうずに宣伝したり、手を変え、品を変え、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。
そういう野望をうち破るにはどうしたらいいであろうか。
それを打ち破る方法は、ただ一つある。それは国民のみんなが政治的に賢明になることである。
人に言われてその通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。
民主主義は「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。(前述はここまで)
第5章 多数決
(略)立法権(国会)にせよ、行政権(政府)にせよ、ある決まった人たちだけが長くそれをひとり占めしていると、いろいろな弊害が生ずる。
ちょうど、水が長いこと一箇所にたまっていると、ぼうふらがわいたり、腐ったりするように。
だから、民主政治では、国会議員の任期を限って、たびたび総選挙を行い、それとともに政府の顔ぶれも変わるようにして、常に政治の中心に新しい水が流れこむような工夫がしてある。
つまり、民主政治は「多数決主義」と「選良主義」との長所を取って、それを組み合わせたような具合になっているということができよう。
<民主政治の落し穴>
しかし、それにしても、民主政治を運用して行く根本のしかたが多数決であることには変わりはない。
国民の間から国会議員を選ぶにしても、最も多くの投票を得た人が当選する。
国会で法律を作る場合にも、多数でその可否を決する。
内閣総理大臣を指名するのも、国会での多数の意向によるのである。
したがって、民主政治は「多数の支配」である。
多数で決めたことが、国民全体の意志として通用するのである。
しかるに、前に言ったように多数の意見だからその方が常に少数の意見よりも正しいということは、決して言い得ない。
中世の時代には、すべての人々は、太陽や星が人間の住む世界を中心にしてまわっているのだと信じていた。
近世の初めになって、コペルニクスやガリレオが現われて、天動説の誤りを正した。
その当時には、天動説は絶対の多数意見であった。
地動説を正しいと信じたのは、ほんの少数の人々にすぎなかった。
それと同じように、政治上の判断の場合にも、少数の人々の進んだ意見の方が、大勢が信じて疑わないことよりも正しい場合が少なくない。
それなのに、なんでも多数の力で押し通し、正しい少数の意見には耳もかさないというふうになれば、それはまさに「多数党の横暴」である。
民主主義は、この弊害を、なんとかして防いで行かなければならない。
多数決という方法は、用い方によっては多数党の横暴という弊を招くばかりでなく、民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。
何故ならば、多数の力さえ獲得すればどんなことでもできるということになると、多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにたてまつり上げ、いっさいの反対や批判を封じ去って、一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。
(ドイツの例)
第一次世界大戦に負けたドイツは、ワイマールという町で憲法を作って高度の民主主義の制度を採用した。
ワイマール憲法によると、国の権力の根源は国民にある。
その国民の意志に基づいて国政の中心をなすものは、国会である。
国会議員は男女平等の普通選挙によって選ばれ、法律は国会の多数決で定め、国会の多数党が中心となって内閣を組織し、法律によって政治を行う。
そういうしくみだけから言えば、ワイマール憲法のもとでのドイツは、どこの国にもひけを取らない立派な民主国家であった。
ところが、国会の中にたくさんの政党ができ、それが互に勢力を争っているうちに、ドイツ国民はだんだんと議会政治に飽きて来た。
どっちつかずのふらふらした政党政治の代わりに、一つの方向にまっしぐらに国民を引っ張って行く、強い政治力が現われることを望むようになった。
そこへ出現したのがナチス党である。
初めはわずか7名しか仲間がいなかったといわれるナチス党は、たちまちのうちに国民の中に人気を博し、一九三三年一月の総選挙の結果、とうとうドイツ国会の第一党となった。
かくて内閣を組織したヒトラーは、国会の多数決を利用して、政府に行政権のみならず立法権をも与える法律を制定させた。
政府が立法権を握ってしまえば、どんな政治でも思うがままに行うことができる。
議会は無用の長物と化する。
ドイツは完全な独裁主義の国となって、国民はヒトラーの宣伝とナチス党(ゲシュタポ)の弾圧との下に、まっしぐらに戦争へ、そうしてまっしぐらに破滅へとかり立てられて行ったのである。
(ウグイスの例)
動物の世界にも、それによく似た現象がある。
すなわち、ほととぎすという鳥は、自分で巣を作らないでうぐいすの巣に卵を生みつける。
うぐいすの母親は、それと自分の生んだ卵とを差別しないで暖める。
ところが、ほととぎすの卵はうぐいすの卵よりも孵化日数が短い。
だから、ほととぎすの卵の方が先にひなになり、だんだんと大きくなってその巣を独占し、うぐいすの卵を巣の外に押し出して、地面に落してみんなこわしてしまう。
多数を占めた政党に、無分別に権力を与える民主主義は、愚かなうぐいすの母親と同じことである。
そこを利用して、独裁主義のほととぎすが、民主政治の巣ともいうべき国会の中に卵を生みつける。
そうして、初めのうちはおとなしくしているが、一たび多数を制すると、たちまち正体を現わし、すべての反対党を追い払って、国会を独占してしまう。
民主主義はいっぺんにこわれて、独裁主義だけがのさばることになる。
ドイツの場合は、まさにそうであった。
こういうことが再び繰り返されないとは限らない。
民主国家の国民は、民主政治にもそういう落し穴があることを、十分に注意してかかる必要がある。
<多数決と言論の自由>
多数決の方法に伴なうかような弊害を防ぐためには、何よりもまず言論の自由を重んじなければならない。
言論の自由こそは、民主主義をあらゆる独裁主義の野望から守るたてであり、安全弁である。
したがって、ある一つの政党がどんなに国会の多数を占めることになっても、反対の少数意見の発言を封ずるということは許されない。
幾つかの政党が並び存して、互に批判し合い、議論をたたかわせ合うというところに、民主主義の進歩がある。
それを「挙国一致」とか「一国一党」とかいうようなことを言って、反対党の言論を禁じてしまえば、政治の進歩もまた止まってしようのである。
だから、民主主義は多数決を重んずるが、いかなる多数の力をもってしても言論の自由を奪うということは絶対に許さるべきでない。
何事も多数決によるのが民主主義ではあるが、どんな多数といえども、民主主義そのものを否定するような決定をする資格はない。
言論の自由ということは、個人意志の尊重であり、したがって少数意見を尊重しなければならないのは、そのためである。
もちろん、国民さえ賢明であるならば、多数意見の方が少数意見よりも真理に近いのが常であろう。
しかし、多数意見の方が正しい場合にも、少数の反対説のいうところをよく聞き、それによって多数の支持する意見をもう一度考え直してみるということは、真理をいっそう確かな基礎の上におくゆえんである。
これに反して、少数説の方がほんとうは正しいにもかかわらず、多数の意見を無理に通してしまい、少数の人々の言うことに耳を傾けないならば、政治の中にさしこむ真理の光はむなしくさえぎられてしまう。
そういう態度は、社会の陥っている誤りを正す機会を、自ら求めて永久に失うものであるといわなければならない。
だから、多数決によるのは、多数の意見ならば正しいと決めてかかることを意味するものではないのである。
ただ、対立する幾つかの意見の中でどれが正しいかは、あらかじめ判断しえないことが多い。
神ならば、その中でどれが真理であるかを即座に決定しうるであろう。しかし、神ならぬ人間が、神のような権威をもって断定を下すことは、思い上がった独断の態度にほかならないのである。
さればといって、どれが進むべさほんとうの道であるかわからないというだけでは、問題はいつまてたっても解決しない。
だから、多数決によって一応の解決をつけるのである。
■教科書だから当たり前と言えばそれまでだが、もうコメントする必要がない程、まとまっている。
ここからが、重要なところですが、文字制限に引っかかるので次回にまわします。続けて読んでください。