無風老人の日記

価値観が多様化し、自分の価値判断を見失った人たちへ
正しい判断や行動をするための「ものの見方・考え方」を身につけよう。

ファシズムへの道…その2

2008年04月01日 | Weblog
前回はタイトルの話に入れなかった感があるので、今日は本題に入る。

その前に、私の日記は転載等大歓迎です。そういって下さる人がいると思うと嬉しくなります。但し私の日記は他のブログの盗用・無断借用で成り立っていますので、“引用”の部分は「取扱い注意」部分です。宜しくお願いします。

本題に入ります。

ファシズム…ウィキペディアより要約

語源はともかく一般名詞としては、資本主義が脆弱な乃至危機的な状況にある中にあって、共産主義を排除するのみならず、一切の自由主義、民主主義、平和主義を排撃し、内にあっては暴力的独裁、外にあっては公然たる排外主義・侵略主義をとる体制を言う。

日本などで見られた全体主義体制・権威主義体制、およびそれらの一党独裁政治や翼賛体制、政治的自由活動の抑圧行為等もまたファシズム的要素が濃厚である。
ファシズム(超国家主義)は議会制民主主義の否定・国民の自由(権利)の否定・一党独裁体制をとり、民族の神話として「既成勢力」を擁護するための思想である。

■最後のクダリの通り、ファシズムは(1)一党独裁体制、(2)議会制民主主義の否定、(3)国民の自由(権利)の否定、により成立します。

まず、この3つを頭に入れておいて下さい。

次に、ファシズムを作り上げたナチスドイツのヒットラーの側近ゲーリングの証言を今の日本に当てはめて要約すると…。

「ファシズム国家をつくるのは簡単です。一般の国民に対してはわが国はテロの脅威・ミサイル攻撃の脅威・侵略の脅威に晒されているといい、国家に逆らう者(戦争に反対する平和主義者)には愛国心が足りない、と言えばいいのです。」

この証言も頭に入れておいて下さい。

■さて、話を進める前に、「愛国心を教えるのが何故いけないの?」と国が教える愛国心を愛郷心・祖国愛と同じに考えている人達や、「今の若者は戦争など行かない」と法律で強制されていく(行かないと言えば法律に違反し牢獄へ入れられることになる)現実を考えていない人達に、以前に何回か書いたナチスドイツ時代の牧師さんのコメントをもう一度参考までに載せておきます。


  ナチスが共産主義者を弾圧した時 私は不安に駆られたが
  自分は共産主義者でなかったので 何の行動も起こさなかった

  その次 ナチスは社会主義者を弾圧した 私はさらに不安を感じたが
  自分は社会主義者ではないので 何の抗議もしなかった

  それからナチスは学生 新聞 ユダヤ人と 順次弾圧の輪を広げていき
  そのたびに私の不安は増大した が それでも私は行動に出なかった

  ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった
  だから行動に立ち上がった

  が その時はすべてが あまりにも遅かった



■ニュースで騒がない「学習指導要領」の政府が変えた項目を見て、日本も「もう遅い」段階に入ったのではないか、と思えてしまう。

この政府の指示は改正された教育基本法に則った合法的な措置である。(現行憲法には違反するのだろうが…。)

ここでその教育基本法の改正(ニュースでは全く騒がれなかった・マスメディアが国民に問題提起しなかった国民にとって大問題の改正)について復習しておく必要がある。

改正前の教育基本法は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないように…」(憲法前文)と現行憲法が制定されたことを受けて制定されたもので、戦前の国家による皇国史観・軍国主義教育を排除するために次の様に前文で謳ってあった。

教育は政府(国)による「不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」

このように、教育への政府(国)の支配を排除していた教育基本法が、改正により、この前文を削除し「国は教育に関する施策を総合的に策定し実施」する、と国が国民を教育することとなった。
国による「愛国心」教育は北朝鮮のように「将軍様のためなら死も厭わず」と言った国民を作り上げることが出来る。
国が教育する愛国心は「国家への忠誠心」であり、「滅私奉公」「国の為に死ねる国民」を作り出す。

政府(権力者)を縛る法「憲法」と「教育基本法」の2つのうちの一つが国民に騒がれることも無く、いとも簡単に消えてしまった。
国を縛っていた「教育基本法」が地方や国民を縛る法律に変身したのだ。

と、ここまで復習したところで、現在に戻る。

■文部科学省が告示した学習指導要領(このように教育しなさいという国家の命令)
 …国がやること全て「教育基本法」に則った行為であり、国がやるどのような教育もこの法律で正当化されている。

(産経新聞)
文部科学省は3月28日付で小中学校の新しい学習指導要領と幼稚園教育要領を官報に告示した。
国歌の君が代を「歌えるよう」指導することを指導要領で明記したほか、道徳教育の目標に「愛国心」を加えるなど、今年2月に公表された指導要領案を修正、指導内容をより具体的に示した。

主な修正は、小学校の音楽で「国歌『君が代』は、いずれの学年においても指導すること」としていたのを「-歌えるよう指導する-」と明確化した。
一部の教員が卒業、入学式などで国旗・国歌の指導をないがしろにするケースが依然としてあり是正が期待される。
また国語の読み聞かせの例示で「昔話や伝説」が「昔話や神話・伝承」と神話などが加わった。

中学では宗教に関する寛容の態度や教養について規定した改正教育基本法を踏まえ、社会で「政治および宗教に関する教育を行うものとする」と明示した。

小中学校とも、道徳教育の目標について「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできたわが国と郷土を愛し」と愛国心について加えた。道徳教材として例示された「先人の生き方」を「先人の伝記」に改めた。

また小中学校いずれも総則で教育課程の編成の方針に「これらに掲げる目標を達成するよう教育を行うものとする」と付け加えた。

教科書がない道徳、総合学習、特別活動も21年度から先行実施される。…産経引用終り

(毎日新聞)

<学習指導要領>総則に「国と郷土を愛する」異例の修正

文部科学省は28日、2月に公表した小中学校の新学習指導要領改定案の総則に「国と郷土を愛する日本人を育成する」という文言を新たに盛り込み告示する。改定案公表後に総則という基本的な考え方を修正するのは極めて異例。文科省は「公募意見などを踏まえ修正した。改正教育基本法の趣旨をより明確にする意見を取り入れた」と説明している。

文科省によると、改定案公表翌日の2月16日から1カ月間、電子メールや郵便で意見を受け付け、5679件が寄せられた。「国を愛する心について総則に明記すべきだ」などの声があり、国会での議論、与党部会とのやり取りなども加味して修正したという。

音楽で「君が代を指導する」が「君が代を歌えるよう指導する」になるなど軽微なケースも含めると、修正は181カ所(同様修正の重複除く)あった。

◇「基本法改正の趣旨生きる」…渡海文科相

渡海紀三朗文部科学相は27日、「総則に(愛国心を)書いた方が教育基本法改正の趣旨が生きるとの意見があったので(修正を)判断した」と説明。
バランスを欠く意見は排除したつもり」と述べた。公募意見の過半数が50代以上だったことには「子を持つ世代から意見をいただくのが理想だが、たまたまそうだった」と話した。…毎日引用終り

■何故、マスコミは渡海文科相のコメントを深く追求しないのか。

公募意見を募ったことを国民は皆知っていたのか、一般に公募したのであれば5679件という少数ではなかったのではないか、公募意見の「愛国心を総則に明記しろ」という意見は何%あり、「バランスを欠く意見」とはどういった意見なのか。それを公表すべきだ。
どこかに公表されているのなら誰か教えて下さい。

そして、マスメディアの「法」に対する不勉強さを一番表わしているのが、私が赤く書いた箇所「軽微なケース」と言う表現である。

「学習指導要領」は、名前からのニュアンスと違い、国が「このように教育しなさい」という学校・教育関係者への法律・命令書である。(教育基本法改正で国が国民を教育することになった為)

法律の変更箇所は、何故そうしたのか?、何故そうする必要があったのか?を良く吟味する必要がある。特に権力者側が法律を変えようとしたときには…。

よく見比べてほしい。

案「国歌『君が代』は、いずれの学年においても指導すること」

告示「国歌『君が代』は、いずれの学年においても歌えるように指導すること」

「軽微な」ではなく、最も国民が問題にすべき「重要な」変更なのである。

告示は、先生に対しては「生徒に声を出して歌わせること」を命令するものであり、生徒に対しては「声を出して歌うこと」である。

「歌えるように」と入れたのは、そうした意図を含んだものであり、この指導要領発効後、声を出して歌っていない生徒を見かけたら、「生徒が歌えてないではないか、歌えるように指導していない」とその先生を「指導不足」として、国は改正教育基本法の元に改正・成立した教育三法に規定されているように「不適格教員を教壇から確実に排除」することが出来る。

有識ブロガーの人達に顰蹙を買い、失望されるとは思うのだが、実は、私は「君が代」を国家として歌うことに抵抗を感じない「ノンポリ」である。

しかし、国家権力が君が代を強要し、国旗に畏敬の念を抱かせようと国民を締め付ける所業は断じて許し難い。

ファシズムへの道・戦争への道である。

時代の曲がり角・歴史の転換点は、こういった「軽微な変更」から始まる。

一例として、天木直人のブログに出ていた「ゴーストップ事件」を挙げておく。

(天木氏のブログ~2008.02.07 引用開始)

2月5日の朝日新聞に67歳の無職の男性からの投書が掲載されていた。
この投書は、日教組主催の研修会をホテルが拒否した事件に言及し、この一件は日本が戦争になだれこむ契機の一つになった「ゴーストップ事件」を思い起こすものであったと日本の現状を危惧していた。

「ゴーストップ事件」とは何か。不詳にも私はまったく知らなかった。調べてみた。事件の概要はこうだ。

時は1933年、場所は大阪市北区の天満橋筋6丁目交差点。
信号機(ゴーストップ)の赤を無視して渡ろうとした陸軍一等兵を、大阪市曽根崎警察署の巡査が見咎めて、両者の間の喧嘩騒動となる。
一旦はおさまったかに見えたこの騒動は、その後憲兵隊が「公衆の面前で軍服姿の帝国軍人を侮辱した事は許せない」と抗議したことから、問題が「天皇の軍隊」と「天皇の警察」の対立に発展した。   

最後は天皇陛下の「あれはどうなったか」という一言で、慌てた陸軍と内務省が急遽和解したという事件であるらしい。

この事件以降、現役軍人に対する行政措置は警察ではなく憲兵が行う事となり軍部が国家の帰趨の主導権を持つきっかけになったとされている。

軍国主義の30年代と平和な今の日本とは、まるで結びつかないと大方の日本人は考えるに違いない。
あらゆる言論が封鎖され個人の基本的人権が奪われていた非民主的時代は、もはや過去のものだと考える日本人は多いだろう。
しかし、当時も今も目の前で起きている事の意味を正しく把握する事は難しいものだ。後で振り返って気づくのだ。
この国で起きている出来事の数々を、我々は後にどのように思い出すのであろうか。国民が選んだはずの政治家は果たして本当に国民のために機能しているか。公僕のはずの官僚が国民抑圧政策のシナリオを書いている。
年金問題の最大の問題は受けとる権利のある国民が申請しなければならないという矛盾である。ずさんな仕事や流用で年金を払えなくしてしまった公僕が、今でもふんぞり返って国民に仕事を押しつけている矛盾である。国民は文句を言えずに年金特別便を書かせられている。

少し前に書かれたブログであるが、それを引用して次回に続きます。

(引用開始)
国が教育に介入するのは時代錯誤だ。
児童生徒の学力を国が把握し管理し競争を煽るだって?
私の住むイギリスではブレア政権下で進められた競争原理の教育改革が大失敗に終わり、今必死で軌道修正中。
義務教育に競争主義を取り入れて成功している国はどこにもない。
エリートは作り出しても格差が広がり結果として国家全体がうまくいかなくなるという例は幾らでもあるのに何故学ばない?

保坂展人はブログに、この法では「日本を愛し戦争をやめさせたいという愛国心は認められない」と書いていた。
国家の規定した愛の形じゃないと駄目なのだ。なんてこったい。
日本はどこに向かいたいのか?
日本人の多くは北朝鮮は可笑しいとか変だとか言って笑うけど、このまま行けばファシズム(無風注:元は“天皇万歳”)の時代がまた来る。
私はそれは嫌だ。…引用終り

続きます…。