それがどうしてつきあうようになったか憶えていない。
私は高校を卒業して手工品ギターを製作する工房に弟子入りしたが、
3ヶ月で逃げるように辞めてしまった。
田舎に帰り、兄の紹介で駅前の金物屋(兄の会社の社長の奥さんの店、「の」が多すぎる)の従業員になった。
金物屋の仕事はつまらないものだった。
私は希望のない金物屋の店員を辞めて、大学に行こうと考えた。
大学に入って教師になろうと決心したのです。
そして翌年、予備校に入るために上京し、
新聞で見つけた試薬会社に就職して、夜間の予備校に入った。
ところが予備校では受験勉強についていけず、夏休みが終わってから行けなくなった。
受験勉強が厭で、仕事が終わると3畳のアパートに帰って小説を読んでいた。
そして小説を書きたいと思うようになった。
同じ会社にいた龍彦はボクシングジムに通っていて、その冬にプロテストに合格した。
ところが龍彦は、ボクシングが怖くなったといって、
プロデビュー戦の1週間前にボクシングを辞めてしまった。
それから、夢に見放された龍彦と私は、毎日のように酒を飲んでいた。
そのあたりだっただろうか、えいちゃんとつきあうようになったのは。
しかし、どうして離れていたえいちゃんと私が近づいたか記憶にない。
彼は早稲田大学の学生になっていた。
昼間大学に行ってるのか行ってないのか、夜になるとしょっちゅう私のアパートに来た。
そのとき私は駒込にいた。
彼は、会社勤めの姉さんと千葉の市川に住んでいた。
酒が飲めないのに、私と龍彦につきあってくれた。
四つ玉のビリヤードをよくやっていた。
私と龍彦がリコーダーを吹いていたせいか、彼も買って吹くようになった。
会っているときはいつも小説・映画の話をし、リコーダーを吹き、ギターを弾いた。
彼と私とで旅もした。
龍彦は、ふらっと東京を離れ、関西に行ったりしていた。
休日前の夜中、2人でいて「どっか行こうか」となる。
そしてそのまま夜行電車に乗って旅に出た。
金沢・長野などに行った。
えいちゃんといると私は彼の“下”にいた。
彼は私の名前を呼びつけにし、私は「えいちゃん」と呼んでいた。
彼は私に上から目線で話し、私は“幼なじみ”という感じでつきあった。
私と彼の会話は、だいたい激しい議論に発展した。
彼がよく私にいっていた。
「おれのいうことは論理的だが、おめぇのは情緒的なんだよな。これじゃ議論にならねぇよ」
私は太宰治・坂口安吾が好きで、彼は三島由紀夫のファンだった。
私も三島由紀夫の小説も読んだが、あまり好きになれなかった。
いつしか私はいろんな作家の小説を読むようになった。
あのころ一番読んだのが安部公房かな?
渋谷のパルコに劇団「安部公房スタジオ」の芝居も何度か観に行った。
芝居も好きになり、井上ひさしの芝居、寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テント、
東由多加の東京キッドブラザーズも観た。
そのころ私は演劇をやりたいと思うようになっていた。
21歳の冬に私は試薬会社を退職した。
演劇の養成所に入って役者になりたいと思ったのです。
つづく