岩*中学校昭和43年3月卒業の同窓会に行ってきました。
1月2日は快晴で、暖かい日だった。
私は、幼なじみで高校まで同じ吹奏楽部にいたKと彼の奥さんの車で一緒に行った。
彼は、幹事の1人だったので10時半までに行かなければならなかった。
同窓会が始まるのは正午からだった。
会場の受付には懐かしい顔があったが、“見知らぬ”顔もいた。
といっても“見知らぬ”人がいるはずもない、同窓会なのだから。
しかし、“見知らぬ”同窓生がたくさんいたことは事実です。
私は中学生のころあまり目立つほうではなかった。
どっちかというとまったくのその他大勢の1人だった。
学校の成績が良いわけでもなく、スポーツはまったくだめで、
吹奏楽部でトロンボーンを吹いていた静かな中学生だった。
ただ、私たちが中学3年のときに始まった深夜放送は毎日聴いていて、ヒット曲やDJには詳しかった。
中学では私より頭の良い人はたくさんいて、私が行った高校より優秀なところに彼らは行った。
私がつきあっていた人はそんな人が多く、ランクの低い高校に行った私は彼らと縁遠くなってしまった。
最初私が進学したいと思った高校は、彼らと同じ高校だった。
ところが家の経済では交通費(電車代)が払えない、ということで自転車通学ができる岩*高校になった。
私はあのとき人生で初めての挫折のようなものを味わいました。
11時過ぎ、担任のH先生がいらっしゃった。
多くの同窓生が挨拶し終わってから私は先生に挨拶をした。
私の名前をいうと先生はわかってくれた。
「おまえ中学のときは痩せてたよな、今みたいに丸い顔してなかった」
私は、今年は絶対痩せようと心に誓った。
私は会場のどこに坐ろうかと迷っていた。
やはり話したい人のところに行きたかった。
だが、この人と話したいと強く思う人もいなかった。
すると中学生のときはパッとしなかったやつが声をかけてきた。
「キュー、こっちに来い」と、そこは2人の先生の隣だった。
中学のときは「キューさん、キューさん」と慕ってきた奴です。
父親の工務店の跡を継ぎそれなりの会社の社長としてこれまでやってきた。
彼から見ると現在の私は「キュー」なのだろう。
「あ…わかった」と彼のところに坐った。
私はこういうところに来ると進んで話をする人間ではない。
なんか気後れしてしまう。
先生といろいろ話した。
出席してくれた先生は2人だった。
どちらも同じ歳で77歳だった。
私の絵の能力を認めてくれていた美術の先生だった5組の担任のA先生は、
昨年81歳でなくなったそうだ。
私は中学のとき美術と音楽は「5」だった。
先生に描いた作品を持っていくといつも90~100点で、だから私は、美術の時間が大好きだった。
音楽の時間より好きだったかもしれない。
12時から同窓会は始まった。
幹事代表・先生の挨拶があり、それから写真撮影になった。
私たち同窓生は全部で244人で(クラスが6組あった)、その日来たのが64人だった。
会場に戻って乾杯をした。
それから1人ひとりの挨拶になった。
私は、高校を出てから15以上の会社を転々としてきたことを、
それでも所帯を持ち、双子の息子を育て孫が2人いることを話した。
九想話を14年書いていることをいおうと思ったがそれはやめた。
インターネットとかブログとか無関係の人ばかりのような気がした。
全員の挨拶が終わり、それから30分もたたないうちに同窓会が終わった。
といっても同じ会場で二次会だった。
最初に同窓会と二次会分として8千円と2千円の計1万円を払っていた。
帰る人もいたが半分以上は残っていた。
それから二次会も終了しほとんどの者が帰り、12・3人が三次会へと行った。
なぜか私は帰りたくなく、友人が経営している三次会のお好み焼き屋に行った。
それから最後は7・8人ほどがカラオケ本舗まねきねこに転がり込んだ。
だいたいこういうときに私は最後までいる人間なんです。
まねきねこには西軽井沢店(御代田)で年に何度かお世話になっている。
最後は、水戸の先のほうに住む女性に車で送ってもらった。
彼女はアルコールを飲んでない。
4人の男を家まで届けて水戸の先の家まで帰って行った。
考えれば女性は彼女1人だった。
最後までいたい何かがあったのだろう。
ざっと書いても長くなってしまったが、もっと書きたいことがある。
それは2人の同窓生のことです。
この2人とは高校を出てから東京で何年か付き合っていた。
そのうち連絡をとらなくなってしまった。
2人のことは明日以降に九想話に書きます。