ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

ぼちぼちとね。

2008年09月30日 19時37分28秒 | もろもろのこと
岩波の新・哲学講義の6巻、共に生きるを読んでて、いろいろ勉強になったけど(まだ途中だけど)。

いいなぁと思った言葉。詩全部を取り上げると長いので、本当にワンフレーズだけ。



生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい


生命は その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ


そういうことなんやろな。最近、ちょっと元気がないというか、自分がどこに向かっているのか、いまいちはっきりしないこともあって。明日,仕事、嫌やなぁなんて思ってたんやけど。

ぼちぼちやろか。


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酒井隆史

2008年09月27日 22時45分35秒 | いろいろ
今日はボランティアの研修会。講師は酒井隆史さん。最初は「名前が漢字も一緒や!」なんてどうでもいいところに反応してたんやけど。

マイノリティの活動に関わっていると、楽しいことばっかりじゃなくって、闘う...あるいは抵抗するような場面があったり、よく見かけたり。もちろん、昔の学生運動とは形も方法も違うんだけど、でも、譲れないライン、これ以上譲ると人が消されるってラインがあって。闘ったり、抵抗したりって言葉が全然大げさでもなんでもないような状況っていっぱいあって。で、今日の講師のテーマは「暴力・非暴力・反暴力」。どう対峙するか、勇気づけられました。非暴力って無抵抗、我慢みたいなイメージがあるけど、キング牧師やマルコムX、そしてその源流ともいえるガンジーやソローが無抵抗ではなく、対話すら行われない状況を打開するために緊張を生み出す積極的な行動を行うこと、でも、それは決して暴力ではないこと、非暴力って抵抗しないことでもなんでもないこと、抵抗したり、対話を行おうとする力さえそがれている場合なんかは、そこをどう回復するかから始めたりすること。うちの職場で取り組んでいることと、つながる・共通する部分がたくさんあるなぁと感じて、すごく励まされた気になった。

もう一つ、気になったこと。酒井さんが暴力をテーマに講演をするのが初めてらしいけど、それってまずいんちゃうかなぁと。もっと、いろんな領域で呼ばれてしかるべき人やし、内容やと思った。多文化共生、国際化、いろんな言葉が飛び交ってて、「きれいに調和できるようにがんばろう」ってありえもしない(...マジョリティにとってはありえるというのが恐いけど)スローガンがこれだけ叫ばれてる中で、「そりゃ、ないんちゃう」って思った。ま、面と向かって「暴力」をテーマに取り上げると首が絞まる人がたくさんいるからかもしれないけど。

また、落ち着いて気になること、面白いことが出てきたら続編を書きたいと思うほど、充実した時間でした。


終わってからは例によって飲み。会計係やのに?会計係にも関わらず?会計係なんて関係なく?...ぐだぐだです。焼酎って、結構なもんやね。
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サワディクラップ

2008年09月25日 20時59分38秒 | 社会
今日、タイに詳しい人がいて。ちょろっと話をしたというか、いろいろ教えてもらったんやけど。

今はタイからの研修生もたくさん増えていること。超過滞在も昔に比べたらずいぶんと減ったこと。'90~'92年のころは、在留資格を持って日本に滞在している人以上に、超過滞在の人が多かったこと、それと同じ時期にフィリピンだったかどこかの超過滞在の人がぐっと減ったこと。で、超過滞在の人が減ったのは、もちろん、帰国した人もいれば、在留特別許可や日本人の配偶者等などの在留資格で滞在している人もいるということ。あと、超過滞在をしている(していた)人の数は男女で全然違うということ。

こういう現象を国民性なんかでは片付けてしまうのは大問題やろうな。経済格差やジェンダー、他の地域出身の人の動きや日本の在留資格の出し方(とその意図、ねらっていたもの)などいろんな要因が複雑に絡まり合って数字として現れるってことを意識せんと恐いなって思った。もちろん、上に書いた文章ももしかしたら、ある種の偏りを持った切り取り方かもしれないけど。それに数字で出してしまうと、大きな社会構造の問題になって、個人個人の息づかいや喜び、悲しみを含めた生々しさが消えること。

両方きちんと見れないとあかんのやろうな。
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ネットワーク。

2008年09月24日 20時52分15秒 | 人づくり・場づくり
今日は朝からipodのイヤホンがぱっかと割れて。何となく嫌な感じだなぁと思ってたら。

午後からの会議はひどいもんでした。地域の識字、日本語のネットワークの会議だったんだけど、目指すところが共有されておらず、何となくばらばらなままで。ネットワークって何か具体的に解決したい課題があればうまく機能するけど、それがない場合は情報交換だけで終わってしまう。もちろん、情報交換は大事だと思うけど。現状に満足しているか、現状をなんとか少しでも変えたいと思うかでネットワークに対する期待も変わってくるもんなぁ。

と、まぁ、温度差が非常に激しい会議でした。外国人が集まらない、とりあえず教科書で対応、地域にどれくらいの外国人がいて、どんな課題があって、どんなアプローチが必要かなんて考えない。お金が減ったら、とりあえず教室の回数を減らす...といった状況に対して何の問題も感じていないことが問題なんだろうな、でも、それをどうやって伝えるか、共有するかって本当に難しいと思った。

でも、まぁ、いろいろしゃべっても伝わらないし、動かないってことは、ぼくの伝え方、内容、プレゼンの仕方が悪いところもあるんやろうな...っていうか、かなり自覚(苦笑)。ま、頭使って足使って頑張るしかないわな。で、さっきまで高野雅夫(...昔の「高」が出てこない)の『父の遺言、僕たちの新書』という本を読んでたんやけど、ほんまにごっつい人やなぁ。ちょっと元気出てきました。
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全然、本のクオリティに追い付いていませんが。

2008年09月24日 01時10分08秒 | 
『文化、ことば、教育』(明石書店)という本をぱらぱらっと読んでます。日本語/日本の教育の「標準・基準・規範」とそれをめぐる議論についていろいろ論じてる本で、なかなかおもしろいです。外国人受け入れと日本語って密接に関係するし、在留資格と絡める動きもあるくらいやから。オススメです。

...って、知り合いが書いてて、一冊もらったので、お礼をかねて宣伝です(笑)。いやいや、でも、ほんとにおもろいですよ。

で、せっかくもらったので、読んで思ったこと。これは最初の方だけど。

「多文化教育にはいろいろなアプローチがあるが、Neito(1995)はアメリカにおける保守、リベラル、そしてラディカルアプローチについて論じている。まず、保守的な立場では、多元主義や多文化教育は国民国家を分断する危険なものとして存在意義そのものが否定されるのに対して、リベラルな立場では、差異が肯定的なものとして高く評価される一方、異文化がお祭り的にしか取り上げられない傾向が強く、文化間の差異が表面的に取り扱われてしまう。それに対して、ラディカルな立場である批判多文化教育は、差異を深く掘り下げ、その差異がどのようにして生まれ固定化していくのかを、不平等な権力関係の視点から批判的に検証しながら、差別や抑圧をなくすために行動を起こす実践的立場である(Kubota, 2004参照)。差異を祭り上げるリベラルなアプローチは、文化間や人間間の共通性を強調し人種差別に目をつぶるのに対して、批判的アプローチは、差別や不正に真正面から取り組み、不平等を助長するような平等主義や能力主義に異議を唱える。(p.25)」

そうそう、こういうことを意識している日本語教育の人ってどれだけいるのかなということを感じた。

それから「標準」についてもちょっと考えたこと。この本で「標準(化)」と言われていることは、必ずしも明示的だったり、制度化されたものとは限らないと思うんだけど。日本語教育の業界で「スタンダード」とか「テスト」がはやりになってきていることがやっぱり頭に浮かんだ。日本語教育でそういった動き(標準化)によって何が生まれるのかということは議論されてないように思う。基準や物差しの便利な側面だけが強調されているし、そもそも基準を設定すること(=人を評価する軸を作ること)、結果がどのように扱われうるか、それがどう利用されるのかということについては議論されてないように思う。教える内容や項目、基準をきちんと設定し、整備することが教える人のためにも、学ぶ人のためにもなるって言うんだろうけど、公的にハードルを設定すること以外の何物でもないもんな(また、こういったハードルも "できる人" と "できない人" にとって意味が違いそうだし、格差の再生産なんてこともありえるんだろうな)。

それから、もう一つ自分の中で深めたいと思ったのは「何で、あるいはどういった形で言語(の能力)が焦点化されるのか」「言語が標準化が進むこと(裏)で何が起こるのか」ってこと。言語の評価って数字で出てくると、すごく分かりやすいし、義務教育なんかですでに英語の試験なんかをみんな経験してるから疑問を感じにくい部分なのかもしれないけど。言語への焦点化が進めば進むほど、言語ができなければ何もできない、コミュニケーションも取れないというようなイメージを生み出さないだろうかって思うし、今、治安の問題と外国人が結び付けられやすい現状を考えると、決していいことではないと思う(グローバリゼーションの拡大に伴い、ナショナリズムが台頭しているということと、つながる話なのかな)。エスニシティやジェンダーによって人を選別することはすぐに問題視されそうだけど、言語の能力により人を選別することは、割と通ってしまいそうな気がする。でも、実際のところは言語がどれくらいできるかってのはエスニシティやジェンダー、年齢なんかとも関連するだろうし。言語に焦点化することで、実は違う問題(エスニシティ等)を解決しようと企んでるなんてことも十分考えられると思う。

語学で人を評価することは、もっともらしく、価値中立的な感じで、誰もが努力すれば身に付けられるというようなイメージがあるけど、着々と日本語の試験を整えることが実際には何を引き起こすのかということを考えないといけないし、言語学が科学とされることが言語を取り巻く言説との関係性を考える必要性を感じさせなくなってしまい、社会との接点や言語学に対する批判的な思考や態度を奪ってしまうことを常に意識しないといけないなぁと改めて感じました。

...とにかく、もらった以上、何か書かなきゃという思いで書いたので、あっちゃこっちゃで意味不明かもしれませんが。てっきと~に読み流してください。これから、じっくり読んで、ちゃんと勉強するということで(苦笑)。

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紙一重

2008年09月23日 23時24分31秒 | 人づくり・場づくり
明日は会議が一つ。地域の日本語、識字に関係する会議なんやけど。いつも停滞感がただよう会議なので、何となくテンションがあがらない。いろいろ意見や案を出しても、なかなか対話にならないし。たぶん、ある程度の形ができてしまっているというのも大きいやろうな。形あるものを変えるのってめっちゃ労力が必要やし。だから、今の形がいいか悪いかはともかく、「このままでいきましょう」ってことになるんやろうな。これって役所に限らず、市民活動でも出てきたりする。落ち着く、安定し出すって停滞すると紙一重やもんね。

というわけで、明日はぼちぼち。真っ向勝負はそこそこに、外堀を埋める作業に力を入れることにします。
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日本語教育

2008年09月23日 17時18分27秒 | 日本語教師のお仕事
昨日はひさびさにがっつりと飲み。留学生の就職支援事業をやってるんだけど、もっと幅広く日本語教育や移民について考えられる人。話が盛り上がり、ついつい飲んでしまった。ひさびさに朝起きて、ちょっと気分悪かったもんなぁ。

日本語教育が日本にいる外国人のことをいろいろ考えて動いているようで、でも、実は大きな流れの中では全然相手にされておらず、他領域とは全然接点を持てていないこと、このままでは取り残されてしまうなんて話でした。ぼくは今、微妙な立場にいるんだけど、正直、外国人に関わっている研究者や実践家で日本語教育のことについて触れる人って少ないです。もちろん、言葉が大事なのはみんな知ってるし、日本語教育が大事だってのは知ってるけど、「言葉も大事です」って触れるくらいで。積極的に連携を求めたり、今の日本語教育について触れる人はあんまりいないです。日本語教育が単に言葉を教えるだけになってしまっていること、ちょっと突っ込んでアイデンティティや文化なんかについて触れる人はいるけれども、基本的に社会に向き合って仕事を進めている業界ではないこと...なんかが他の領域や大きな社会的な流れから相手にされない一番の理由じゃないかなぁ。日本語教育の人でUS-visitや在留資格の要件に日本語が課されるかもしれないことなんかについて公的に誰もろくすっぽ語ってないのって、やっぱり危険だと思う。

日本語教育も昔に比べて研究のレベルもあがって、うれしいって声をお偉いさん方からも聞いたこともあるけど。研究発表や論文なんかを発表する場は増えたけど、逆に総論なんかを論じる場所がなくなってしまってることが今の状況を招いているんじゃないかな。

決して今のままでは「移民が増えること=日本語教育拡大のチャンス」ではないんだけど、そうとしか見えない人がたくさんいるのが、心配です。
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仕事

2008年09月22日 15時04分30秒 | 人づくり・場づくり
今日は休み...のはずやけど、仕事で確認が必要になって、朝から市の南の方へ。こってこての町なんやけど、見事なまでに化粧の濃さが変わります、今日は虎柄のシャツの人とか見んかったけど(笑)。確認は1時間ほどで終了。

大きくは空港跡地をうまく利用し、産業振興をはかる中で雇用を創出するという事業。その時に、就職困難層への就労支援と事業者への介入がセットになっていて、いっちょかみしてるんやけど。事業者への介入の仕方がポイントらしいです。これまでに障がい者のOJTなどを企画したりする中で、実際に就職までいたったケースも何件かあるらしいんやけど。これまで、例えば障がい者や外国人と接点のない事業者は何ができないのかということばかりがクローズアップされて、一緒に仕事ができるなんて、思いもしないらしい。障がい者の場合は法定雇用があるけど、潜在能力の発揮というところにはなかなかたどり着かないらしい。外国人の場合もいっしょで、本当に能力が高い人も多いんだけど、どうしていいか分からないみたい。実際に動き出すのは10月半ばくらいになりそうなんやけど、就労へ結び付けるようなプログラム、受け入れ方について考えてもらう事業者向けの資料やプログラムをちょっとずつ準備しないとね。

でも、本当のねらいたい部分は外国人を雇用している事業者とのつながり、地域で働く外国人とのつながりで。元気にやってる人はそれでええんやけど、しんどい状況に置かれている人、短期ではなく定住を志向している人とうまくつながることができたらええなぁと思ってます。

『顔の見えない外国人』じゃないけど、地域と接点が作れていないことも多いもんね。

夕方からは飲みながら別の人と打ち合わせ。それまでに資料を作っておかないとあかんのやけど、ちょっと面倒やなぁ。どうせ、飲み出したら、資料なんて見~へんやろし。ま、ぼちぼちやろか。

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レジリエンス

2008年09月19日 21時57分47秒 | いろいろ
このあいだのワークショップのときに出たコトバ。

エンパワメントってどうしても力づけ、力のない人に何か能力や力をつけるってイメージがある。もともとは奪われた力を回復するという意味で使われるらしいんだけど。力を奪われた人,奪われている人ももともとは力を持っているということを忘れさせやすい。

で、レジリエンスという言葉。これはごむまりが力を加えられるといったんへこむけど、もとの形に戻るようなイメージのことば。人にはもともと回復しようとする力がある、元気がない状態、何かできない状態を力がない状態として捉えるのではなく、へこんでいる状態として捉える。全然、イメージが変わってくる。

なるほどなぁ。
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ごちゃっとした良さ

2008年09月18日 22時49分53秒 | いろいろ
今日、日本語のボランティアと活動が終わってからじっくりと話。地域のにほんごは補償教育なのか、それとも生涯学習なのか。交流活動なのか学習活動なのか。最初に活動の目的があるべきか、学習者のニーズをしっかりと聞くべきなのか...などなど。で、結局、最後に出た結論は地域のにほんごでは多様な要素が混在していて、一つの切り口では整理しきれないということ。

ただ、それが一つの現実なんだけど、予算や研究、業界としての位置づけなどが入ってくると、どこかにすみ分けさせられてしまう。で、最初は便宜的に位置づけていたものが、いつの間にか本当に一つの機能しか果たさなくなる。その過程って発展しているようで、実はいろんな可能性をなくすんやろうなって思った。

酔っぱらいなので、話の書き方が乱暴だけど、そんなことを感じました。
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武器になる文字とコトバを

2008年09月18日 01時42分05秒 | いろいろ
高野さんと会いました。突然、センターを訪れはって。

40年近く、夜間中学のために運動を続けてきている人。読み書きを奪われるということは知識の問題ではなく、空気を奪われるということ。家族もおらず、戦争孤児だった高野さんが20歳を過ぎて初めて、自分の名前をどうやって書くかを知り、夜間中学に入り、文字を習ったときに1週間寝ずに何度も何度も文字を書いた。感動で体が震えたし、興奮して寝ることができなかった...と。

夜間中学で奪い返したものが、今、夜間中学の学校化がどんどん進み、奪い返されている状況に危機を感じ、全国回っているとのこと。夜間中学で60歳や70歳や80歳の人が読み書きを覚えるのは、何かを得たのではなく、それまでずっと奪われてきた人間の尊厳を奪い返すこと以外の何ものでもないとのこと。

プラスの共有からマイナスの共有へ。タネの思想からコヤシの思想へ。韓国の文解(ムネ)教育の熱い想い。「無学」と「無学歴」の違い。夜間中学の生命線とは。

今、大阪では橋下知事のもと、夜間中学の就学援助がカットされているが、それに対して。夜間中学の生徒が立ち上がるかどうか、それによってこれまでどういった学びが行なわれてきたのか全て証明されるという言葉。

21世紀、ぼくらは武器になる文字とコトバを持ってるんだろうか。

...すっごく断片的にしかメモできていないけど、本当に筋が一本ずどんと通った生き方をしている人です。興味を持った方、ぜひ「高野雅夫」で検索してみてください。すごい人です。
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感想。

2008年09月17日 21時22分24秒 | いろいろ
今日、職場で回覧する用に韓国の資料を整理していて。で、いろいろ見たし、食べたし、飲んだけど(笑)。強く残ったのは一緒にツアーに参加した仲間(って言ったら失礼なくらいにぼくらは若輩者でしたが)と過ごした時間が濃かったなぁということ。ジェンダー、同和、人権、家族社会学、多文化共生と関わっている領域は少しずつ違うものの、じっくりと韓国の現状を学び、そこから自分たちのフィールドについて語り、学び合った時間は本当に濃かった。バスでの移動もマイクロバスで4時間も5時間もってこともあったけど、へっちゃらやったもんね。

それから現地のNGOの人たちとの出会いも強烈やった。言葉は通じないし、ほんと共有した時間はたったの3時間とかそんなもんになってしまうんだけど(クンサンとヨングァンはもうちょっと長かったかな?)。同じような想いで活動しているということはひしひしと伝わったし、言葉を越えるものもたくさんあったなぁと。

遠く離れた地に同じような想いで活動している仲間が増えたと思うと、それだけで力になります。自分の仕事に対して、やる気が湧いてきたことは確かだし。継続して、このあとも交流という意味で何かできるのかと言われると、それは今は分からないけど。

何かくさいこと書いてるなぁって自分でも思うけど。でも、出会いをもとに、今日も明日もがんばるぞって感じです。とにかく、この業界、うまくいかなかったり衝突することも多いんだけど(別にこの業界に限らないか...笑)、同じような想いでがんばっている人がいるって思えるだけでうれしいです。
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リアリティ

2008年09月13日 21時17分06秒 | いろいろ
韓国日記。半分、意地になってきてます。何に対する意地なのかは分からないけど(笑)。

翌日、その翌日(最終日)もソウルで。インサドン(ふらふら&おみやげ購入&カフェに)、宗廟、景福宮、韓国の昔の家屋が残っているところ(で、伝統的な楽器を聞いて)、ロッテマートでおみやげ購入と。インサドンおカフェはめっちゃ雰囲気良くておいしいんだけど、高い。日本よりも高いんちゃうかな。宗廟、景福宮は広くて、両方とも良かった。景福宮はこれから歴史の本を読んだりする時に実感湧くんやろうな。日韓併合の舞台として登場するもんな。

そうそう、インパクトがすごく強かったのは西大門刑務所跡の歴史記念館。日本が占領していた時に作られた刑務所で、政治犯、独立運動家に対して理不尽な拷問や処刑が行われていたところ。当時の建物が一部そのまま残っており、中に入ることもできます。刑務所だけど、れんが造りの建物で一見、すごくきれいです。芝生も整備されてて。でも、展示もそうやけど、実際に使用されていた建物の中に入ると空気が一変。すごく重くのしかかってきます。理不尽に命が奪われた痕跡がそのまま残されています。周りがきれいに整備されているし、住宅街の中にあるので、そのコントラストにいろいろなことを考えさせられます。

ここでも、子ども向けのツアーなどがくまれてました。小学生くらいの子が何人かでグループになり、指導員のような人が付き、一緒に回ってました。

「反日教育」、「偏った歴史教育」、「いつまで謝罪が求められるのか」、「もう既に謝ったのに」、そんな意見もあるかもしれませんが、加害と被害とでは歴史の意味が全然違うこと、歴史を二国間の昔の過ちとして終わりにできるか、それとも人が犯す過ちとしてこれからの子どもたちにきちんと伝えないといけないとするかで全然違うなぁと。日韓に限らず、二国間の昔の過ちとして処理できることが加害側の特徴なんだろうなって思う。そうやって処理できるのはリアリティがないから。立場の違いによる実感するリアリティの違いは、いわゆる(社会)科学で事実として扱われることとは違う次元で扱わないといけないんだろうな。

文才がないので、これ以上は伝えられないのが本当に残念です(苦笑)。でも、これが対話を構成する根本なんやろうね。体験してないものへのリアリティをどこまで想像するか、で、どれだけがんばって想像したとしても、それはリアリティには到底およばないということを前提に(受け止めて)話を始めること...というよりも、むしろ耳を傾けることか。これって他者の尊重にもつながる部分なんだろうな。



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対話。

2008年09月13日 20時17分02秒 | いろいろ
今日もワークショップ。うちの事業全体を市民と一緒に考えるワークショップ。テーマは「居場所って何?」、「自分たちの活動しやすいグループとは?」、「エンパワメントって何?」の3つ。参加者が自分の興味にあわせてグループに分かれて、よく使われている言葉で大事だって分かるけど、中身あやふやでへたすりゃ危険って言葉をじっくり自分たちの言葉で消化するワーク。みんなで考えて、意見出し合ってってというきわめてシンプルなワーク。

キャッチーな言葉ってすぐ伝わりそうで、意外に何も伝わらないことも多いし。今年の初めに里見実さんが来てワークショップをした時も「"unlearn"という言葉を定義してみる」ってお題だけやって。でも、信じられんくらい刺激的な話し合いの場になったもんなぁ。

で、ぼくはグループ・組織論やったんやけど、めっちゃ勉強になりました。なかなかタフなテーマやったけど、おもしろかったし、刺激受けました。透明性、ボトムアップ、権力を排除する仕組み、参加の原理、公共性、対話などなど、出てきた表現はもっと平易な言葉やったんやけど、出てきた内容はそういうことで。で、こういうワークをすると不思議と刺激を受けるだけでなく、場を共有し一緒に考えたということから人間関係も深まるもんね。実際、これまで対立していたような人がワーク後には普通にみんなと話をして帰っていったもんなぁ。立場や意見の相違がどうであれ、鎧を着ずに、とにかく平場で話をすること。ほんま大事やなぁ。

ぼくもそれなりに勉強してるつもりやけど、でも、現場で活動している人が集まったワークショップはすごいなぁと改めて感じました。ファシリテーターの一人やったんやけど、途中で「こりゃ、ほっといても大丈夫や」って感じやったんで身乗り出して参加してました(笑)。
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戦う理由。

2008年09月13日 06時42分28秒 | いろいろ
何で、戦争はなくならないのか。憲法であれだけ戦争放棄をうたっておきながら、軍備に力を入れるのか。平気で海外へ「派兵」するのか。そうしたい理由というのがよく理解できなかったけど、わりと納得。


シンシア・エンローは「軍事化とジェンダーー女性の分断を超えて」(思想2003年3月号)において、ヴァージニア・ウルフが1938年に公刊した反戦エッセイ『三ギニー』に論及しながら、「軍事化というのは、何かが徐々に、制度としての軍隊や軍事主義的基準にコントロールされたり、依存したり、そこからその価値を引き出したりするようになっていくプロセス」であり、そこでは「男らしさ」が特権化され、それゆえ一部の男性と女性が周縁化されることを明らかにしている。

~『抗う思想/平和を創る力』阿部浩己著


実際には経済的な側面(成長しないと市場を支えられないという事実)も考慮に入れないとだめなんだろうし、他にどういったことが関係するか、までは分からないけど、妙に説得力を感じた。

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