昨日で日本語関係の授業は夏休みに。長かった。国際交流協会の仕事を始めたというのもあったけど、結構苦戦した。この間、日本で生活している外国人のことをいろいろ知ったわけで、もちろん、そのことについて以前より詳しくなったけど。
ふと気が付くと、留学生・就学生に対する視線も変わってきたのに気が付いた。留学生・就学生って自分の意志で日本に来たということで語学面をどう伸ばすかってことは注目されてるけど、彼/彼女らがおかれている状況や立場なんかについては「もっとしんどい人がいるから後回し」って感じで扱われることが多いなぁと。でも、「もっとしんどい人がいる」なんて誰が決めるんやろうね。反対に地域日本語なんかでは、「とにかく生活できるように、交流できるように」って視点でサポートが行われることが多いけど、でも、子供にばかにされないようにだとか、少しでも仕事がスムーズにできるようにってことで「正しい日本語」を求めている人もいるわけで。もちろん、「正しい日本語」がいったいどんなもので、さらにそれを必要と感じさせられるのはどうしてかってことは考えないといけないと思うけど。でも、少なくともそういった声を聞くことなしに実践が行われることも多いような気がする。
本人のしんどさ、大変さや希望や期待なんかとは別のところで、カテゴリー化されて、それに見合った対応を与えられる。マジョリティはそういうふうに都合のいいように分断して、対応するための尺度を持っているんだろうな。
でも、ふと考えたら、在日コリアンもニューカマーも、留学生・就学生も帰国子女も「ダブル」や「日本人」児童・生徒も似たような課題を抱えていることもあるだろうし、いろんな分野で頑張ってる人がうまくつながることで消える問題や取り組みやすくなる問題もないのかなということを感じた。具体的にどうなるということまでは分からないけど、細かく切り刻まれた枠組みではなく、もっと大きな枠組みになった時に...何か変わらんかな。
ふと気が付くと、留学生・就学生に対する視線も変わってきたのに気が付いた。留学生・就学生って自分の意志で日本に来たということで語学面をどう伸ばすかってことは注目されてるけど、彼/彼女らがおかれている状況や立場なんかについては「もっとしんどい人がいるから後回し」って感じで扱われることが多いなぁと。でも、「もっとしんどい人がいる」なんて誰が決めるんやろうね。反対に地域日本語なんかでは、「とにかく生活できるように、交流できるように」って視点でサポートが行われることが多いけど、でも、子供にばかにされないようにだとか、少しでも仕事がスムーズにできるようにってことで「正しい日本語」を求めている人もいるわけで。もちろん、「正しい日本語」がいったいどんなもので、さらにそれを必要と感じさせられるのはどうしてかってことは考えないといけないと思うけど。でも、少なくともそういった声を聞くことなしに実践が行われることも多いような気がする。
本人のしんどさ、大変さや希望や期待なんかとは別のところで、カテゴリー化されて、それに見合った対応を与えられる。マジョリティはそういうふうに都合のいいように分断して、対応するための尺度を持っているんだろうな。
でも、ふと考えたら、在日コリアンもニューカマーも、留学生・就学生も帰国子女も「ダブル」や「日本人」児童・生徒も似たような課題を抱えていることもあるだろうし、いろんな分野で頑張ってる人がうまくつながることで消える問題や取り組みやすくなる問題もないのかなということを感じた。具体的にどうなるということまでは分からないけど、細かく切り刻まれた枠組みではなく、もっと大きな枠組みになった時に...何か変わらんかな。