ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

魑魅魍魎の世界。

2007年12月20日 01時34分55秒 | リサーチ
「ちみもうりょう」って漢字にすると、本当におどろおどろしさが出てくるなぁ(笑)

最近、現場にどっぷりとつかっているので。研究の役割って何なんだろうなぁということを、たまに考えます。ものの見方を広げる、無我夢中でやってきたものに理路整然とした説明を加える、筋を通す。いろいろあるけど、現場は現場でとても複雑だなぁと。個人個人の思い、時には怨念のようなものも出てくるし(苦笑)、政治的な思惑が働いて筋をとおすことが無理な場合もある。筋は通っているんだけど、捻り潰されることも本当にたくさんあるわけで。

研究はあくまで設計図や青写真を作るときのイメージのようなもので、それをもとに実際に何を創るかが大事になるし、それこそが現場を豊かにし、社会を作っていくんだろうなって思う。

いやはや、本当に怨念、政治的な思惑ってそのへんうようよしてるし、理不尽なことだらけやけど、それでもそこから手を替え品を替え、何を作っていくかってことが大事なんだろうなぁ。
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語り口

2007年12月19日 18時18分43秒 | リサーチ
今日はせっかくの休み。膨大にたまった資料を片付けようと思っていたのに、思わず昼寝。15分のつもりが3時間って...。いやいや、疲れがたまってるとか言ってられへん。今晩はとことんまでやるぞ。

今日、本を読んでて。在日コリアンへの取り組みの語り口を研究したものがあって、語っている内容は多様であっても、語り方・その語りの構造が国レベルの大きなマスターストーリーに集約されるものになっているという指摘をしているものがあって。それ自体はおもしろかったんだけど。

それを読んでて、研究者と実践者の両方にいいことを言ってる人はたくさんいるんだけど、語り方というか視点とういか立ち位置が違うなぁということを改めて感じた。現場や当事者への距離感なのかな。何か分からないけど、おもしろいなと。ぼくはどうなんやろな。



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構造構成主義

2007年07月01日 17時36分33秒 | リサーチ
現代のエスプリで構造構成主義を特集している号を読んだ。

構造主義と構築主義など折り合いが付かない議論の折り合いを付け、位置づけるための理論なのかなと思ったけど。何となくすっきりとしなかった。

というのも、そういった折り合いの付け方はある程度、研究している人は分かってる話だと思うし、取り立てて大発明として扱わないといけないようなものなのかと。確かにそれぞれの領域において不毛な対立に陥っている議論を救うことはできるかもしれないけど。

何より違和感を感じたのは、不毛に陥っている議論を裁判官のように全てきれいに解決してみせましょうって感じの部分。研究にはただ単に何かを明らかにするという側面だけでなく、そういった研究が何かを明らかにすることが持つ社会的な力を持つし、政治的な位置づけなど社会と切り離すことができない側面を持つ。そういった側面を全く考慮せずに仲裁しましょう、みんなきれいにすみわけしましょうって、そんでええんかって思った。



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研究。

2007年06月03日 22時42分31秒 | リサーチ
友達というか仲間というか、仕事でいろいろと一緒にやってる人と飲んでた。

土日、学会に行っていたらしく、その話を聞いたんだけど。やっぱり研究って大変やなぁと。

研究ってそもそもそれまでの研究の課題や問題点から出発することが多いんだけど。そこと社会との擦り合わせってなかなか難しい。社会って言ったら、大げさかもしれないけど、それで結果、誰が元気になるのかなって思う。外国人を対象にする研究で現場でがんばっている人が励まされたり、元気が出たり。元気が出なくっても刺激を受けるような研究だったら、それはそれで意味があるけど。どうやらそういう研究って少ないみたい。人が存在していること、そしてその人とどう向き合うのかってことがすっぽ抜けてたり、むしろそういう態度を取りにくくなってしまうような「人が存在しない研究」。人が存在してても、出会う相手ではなくって、対象としてしか存在しない研究。なんだかなぁって思う。

本当に大事にしたいもの、大事にせなあかんものって研究で見えるんやろか。もちろん、それが見えないものだとしても、研究の目的にはなり得ないものだとしても、研究には研究でちゃんと意味があるし、研究の存在自体を否定するつもりはないんやけど。ただ、何を前提として、何を目的として研究するのかってことは、ちゃんと考えてもええんちゃうかなと思う。

外国人や外国人の子どもは食い物ちゃうで。




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脱アイデンティティ

2006年02月15日 15時14分36秒 | リサーチ
NHLもオリンピックということでしばらくお休み。Rangersは1位のまんま。ええ気分やね

頭を切り替えてオリンピックの応援でもしようと思っていたが、問題発覚

テレビで全然やらへんやん!

今日から男子の予選が始まるんだけど、放送は衛星放送ばっかり。えらいこっちゃで。予選といってもあなどれない。出場するチーム数が少ないので、予選から結構好カードがいっぱい。今日のロシアスロバキア(ロシアはKovalchuk、Ovechkinの攻撃っておもろそうやし、スロバキアもPeter Bondra、Pavol Demitra、Marian Hossaとかタレントそろってるよなぁ)、明日のスウェーデンロシア(スウェーデンはForsberg、Daniel Alfredsson、Naslundがセットで出たらおもろいなぁと思ってたのに、Naslundはけがで不参加。Forsbergも出れるんやろか。ゴーリーはLundqvistやったらうれしいな)なんて結構ええゲームになるんちゃうかな。(なんかミーハーやなぁ)

ま、確かに日本が出てないし、日本でアイスホッケーってそんなに盛んなスポーツじゃないってのも分かるけど、悲しいな。だから、ニュースでもわざわざ放送することはないやろうな。でも、逆にたくさん放送されたら、それはそれで仕事が手につかなくなるから、よしとするか...。というわけで研究へ。

全然話変わるけど最近、上野千鶴子の「脱アイデンティティ」という本を読んでいます。ジュディス・バトラーの「エージェンシー」という概念も分かりやすく扱っていていいです。語学教育でも社会学的なアプローチの研究が増えてきて、アイデンティティを取り上げる研究が増えてきてはいるけど、これを読むともう一歩先へいかないといけないなと考えさせられます。ジュディス・バトラーは前から読もうとは思っていたけど、難しいという話を誰かから聞いていたので、何となく避けてました。でも、読んでみようかなという気になってます。
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たまにはまじめに。

2006年01月17日 23時34分21秒 | リサーチ
最近、気になるもの。

会話分析、エスノメソドロジー。それから、バフチン。

日本語の授業でコミュニケーションがどのように成立しているかということを明らかにするためにはどうしても欠かせない。日本語の授業で学習者と教師がやっているのはコミュニケーションでしかない。もちろん、そこで現れる「言葉」は、母語話者同士とのそれとは少し形を変えて現れるので、分析は一筋縄ではいかないけど。

教師は学生とのコミュニケーションをとおして何かを伝え、状態を把握し、次の展開を考える。学生もコミュニケーションをとおして自分がこの場面でやるべきこと、学ぶべきことを知り、自分のパフォーマンスを少しずつ変化させていく。というわけで、教室で指導や教授、学習が行われるといっても、結局実際に行われていることはコミュニケーションでしかない。もちろん、ここでいうコミュニケーションというのは、単に「情報の交換」を超えてもっと広い意味でとらえないといけないし、実際に広く捉えようとすればするほど分析は大変なんだけど。

日本語教師と大学院生と両立させることは大変だけど、お互いにええ風に関連させていきたいな。

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自分の立ち位置

2005年12月29日 05時52分42秒 | リサーチ
『教育研究のメソドロジー』(秋田喜代美・恒吉僚子・佐藤学)という本を読み出した。わりと入門書という感じなので、ぱらぱら読めばええかって感じで読み出したんだけど。最初に佐藤学(1章)と秋田喜代美(2章)が研究と自分の関わりについて書いてて感じるものがあった。

研究って客観的で実証的であることが理想とされるけど、その研究を行うのは人間だからそこまでドライに徹しきれないこともある。教育系の研究で現場に入って研究する人であれば、それはなおさら。今、第一人者と呼ばれる人たちも、そういった研究と現場の間で揺れていたことがあったのかと思うと勇気づけられる。

ぼくは今、日本語教師として授業をするだけでなく、大学院生(研究者の卵...受精卵でありますように)として実際の授業の様子をデータにして研究をし、養成講座ではこれから日本語教師になろうとする人に教えている。それから地域日本語活動にも参加している。それぞれ目的が違う活動だし、自分が関わろうと思った目的も様々だけど、関係がないわけじゃないから最初は単純に相互にいい影響を与えると思ってた。

でも実際は、どれも相互に関係していることは確かだけど、それぞれに関わっている時の間で微妙に自分のスタンスや視点が違ってくるのが分かった。それが時として葛藤を生み出すし、その葛藤が激しくなって、それぞれの活動における自分のポリシーを相互に揺るがすようなところまでくると、どうしていいか分からなくなって何も手につかなくなることもあった。もちろん、そういうことに目をつむってしまうことも可能だけど。

で、「だからどうしたらええの?」って聞かれても、今もって分からないけど、この本の最初の部分を読んで、「葛藤もまた良し」という気になれた。

「現場と研究の両方に関わっている方」や「現場の研究」をしている方にお勧め。
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頭の中か、人と人のあいだか。

2005年12月26日 10時19分47秒 | リサーチ
最近読んでいる本の紹介。

特に新しいものではないけど、ジェフ・クルター(1998)『心の社会的構成』新曜社を読んでます。昔、一度読んだ本だけど、再読。ぼくは授業の談話を分析しているのですが、かなり役に立ちます。

L2の学習過程や教室談話を分析する時には、もう一ひねりいるような気がするのですが、それでも「社会的現実」がどのように構成されているのか、その過程を記述するためには何に注目する必要があるのかということを丹念に説明しています。心的概念も個人の精神などに還元して説明するのではなく、相互行為という社会的な次元に注目することが必要だと述べているのですが、L2学習なども一緒なんじゃないかなぁと思います。学習って個人個人の頭の中で起こっているようだけど、学習の達成って人と人のあいだで起こるもんですよね。

ここで、さらさらっとまとめるほどは読み込めてないので、これで終わっておきますが。

何回か読んでも毎回「なるほど」って思える本はすごいよなぁ。俗に言う「するめ本」ってやつですね(...言うのか?)。

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教室談話の研究

2005年12月24日 02時59分43秒 | リサーチ
そういや、まだ研究に関して一度も書いたことがなかったなぁ~。

自分がやっている研究は日本語の授業の分析です。何をどう分析しているかというと、教室内でコミュニケーションがどのように行われているかということを細かく見ています。実際にビデオで授業の様子を記録に撮り、どんなことを言ってるか、それに対してどのように返してるかってことを見ているんですけど、これが結構おもしろい。「こんなことしてるのか」とか「学生ってこういうふうにふるまってるんやな」などなど、授業の見方が結構変わります。で、見方が変わると、実際に自分がする授業も変わるのでいい感じで影響しあってるのかなと自分では満足...まではいかないけど(苦笑)。

ま、役には立ってるんだろうな。...ちゅうか役に立ってなかったら授業料もったいなさすぎやな。

日本語教育の分野においては授業の詳細な分析、しかも、どんなことをしているかということを単にカテゴリーに分類するのではなく、コミュニケーションがどのように達成されているのかということを見ている研究は結構少ないんですよね。個人的には結構得られるものが多いって思うんやけどなぁ。
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