ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

2008年12月07日 00時00分35秒 | いろいろ
今日は多文化フェスティバル。新宿、大久保小学校の義元先生の特別授業。子どもたちも本当に集中してて、一生懸命聞いてた。やっぱり分かるんやね。目の前の相手が外国人の子どものことをいっぱい知ってるし、本当に一生懸命の人が自分たちのために話をしてるって。先生も「すごい集中値からでびっくりした」って。

午後からはいろんな発表。ニューカマーの子どもたちを対象とした母語活動・学習支援・市の通訳派遣システム、帰国児童生徒を対象とした取り組み、在日コリアンの子どもを対象とした取り組み、地域の子らを対象にした国際理解のプログラム、市内の全小学校に地域に暮らす外国人を派遣し、国際理解・サポーターのエンパワメント、サポーターと同じルーツを持つ子どものエンパワメントなどに関わっている子どもや大人が大集合していろいろ発表。発表といってもそんなかたいものではなく、そこはフェスティバル。今回は在日コリアンの子らのサムルノリがどかんと発表で。そんなん初めて。こうやってちゃんと社会的に位置づけられて、で、元気になってく。ええよなって思った。保護者も一緒にうれしそうにチャンゴたたいてたもんな。

でも、何より、子どもらの表情がええのが良かった。外国にルーツを持つ子どもらは、ふだんはなかなか主役になれなかったりする。午前の授業でもふつうに「いじめられたことある?」って質問に手をあげてた子が何人もいた。子どもらも別に"外人"が悪いわけじゃないって分かってるし、何が違うの?何も違わないでしょ?って思ってるんだけれども、でも、いじめの対象になることもあるって知ってる。というよりも、知らされるんやろうな


でも、ここには友だちがたくさんいるし、自分たちが主役になれる。何をどんなふうに表現しても決して否定されない。そんな場にいることで自信を取り戻して元気になっていく子どもらがいる。そんな子どもの姿を見てにこにこしてる親や大人がたくさんいて。年に1回(できても2回)しかこういう場は作れないけど、でも、それでも、本当に大事にしたい。そういや、義元先生の去年の授業を覚えてる子もいたくらいやもんな。回数の問題ではなく、何が残るかが大事なんやろうな。

いっぱいいろんな人が集まって、みんなええ顔してて。ほんまに良かった。ほんま、良かった。
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改正

2008年12月05日 23時57分28秒 | いろいろ
国籍法、改正。母親が外国人の場合、父親の認知だけで子どもは国籍が取得できることに。これまでは出生前認知しか国籍取得の要件にならなかったことを考えると大きな変化。で、在留特別許可が日本人の子どもを養育している親に出される傾向にあることを考えると、女性が日本で生きていく選択肢が広がったことになったんちゃうかな。

安易に日本人の枠を拡大することを懸念する(=日本人という枠が純粋でなくなることを懸念?)むきもあるけど。

ええ加減に扱われて生きにくくなっている人がたくさんいることを考えると、ええことやと思う。ただ、実際にどんなことが起きるのかということまでは、ぼくには分からないけど。
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覚えとかなきゃ。

2008年12月03日 23時40分07秒 | 
「高下在心(こうげざいしん:すべての物事が成るか否かは心がけ次第できまるという意味)」
野村監督が中村ノリに贈った言葉。

「人の能力は態度によって規定される」
うちの職員がビール片手に、こんな言葉を言ったかどうかも覚えているかあやしい状況で言った言葉。

「高下在心」の時の心がけってすごく高尚なもののような気がするけど(四字熟語だから?)。同僚が常日頃から言ってるのは人の評価を「(今)できるできない」ではなく、「たとえ今、何かができなくても、人の話を聞こうとするか、学ぼうとするか、必要であれば変わろうとするか」ってことでしないといけない、と。能力をはかるって結局は本質主義的なところに戻っていく傾向があるけど(もちろん、それを回避しようとして状況論だとかいろんな能力観、人間観があるのだと思うけど)、こんな感じでそもそも評価の軸をたてるテーマをずらしてみるのもいいのかもしんない。

やっぱりどういう見方であれ、能力を見ようとすると(=評価しようとすると)可能性が見えなくなってしまう気がするし。

...というのも、ぼくは気が付くと人の可能性が見れなくなってしまってることがあります。良くないところです。忘れちゃいけないので、いつもとテイストが違うけど、アップしときます。

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