ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

一安心。

2006年06月30日 21時17分07秒 | 人づくり・場づくり
ある東南アジア出身で18歳の女の子が今年の始めから日本語ボランティアの教室にずっと来ている。

彼女は母親に呼び寄せられて去年の年末に日本に来た。呼び寄せられた理由は子守り。母親は日本で子供ができたのだけど、日中は仕事で子供の世話ができない。ということで、赤ちゃんの世話のために日本にやってきた。突然のことだったみたいで、最初は日本語は全くできなかった。今も日本語は本当に簡単な会話ができるだけで、意思の疎通はあまりできない。来日当初だけでなく、それから何か月か周りに知り合いもおらず、家にこもっていたらしい。ずっと赤ちゃんと二人っきりで。

たまたま近所の人が見かねてセンターにつれてきた。だって、どう考えても18歳の子が赤ちゃんと二人っきりで家に閉じこもっているなんて心配でしょうがないでしょ。子育ての相談もできないし。

今も状況は変わらず、その子はずっと赤ちゃんの世話をしている。ただ、知り合いもでき、同じ言葉を話す人で心配してくれる人も増え、本当に大変な時は周りに連絡を取るようになり、彼女自身のこわばった表情も日に日に穏やかになっていった。

その子が先月の末から急に姿を見せなくなり、みんな心配してた。同郷の知り合いのところには夜中に電話がかかってきたりはしたんだけど、うまく電話に出ることができず、反対にこっちが日中に電話をしてもその子は電話に出ずという状況が1か月ちょっと続いて。心配してたけど、今日、ひさびさに顔を見せてくれた。...元気そうで良かった。

これからは彼女は自分自身の人生のことも考えていかないといけないけど。とりあえずは元気ということで一安心した。
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孤立無援。

2006年06月29日 21時24分55秒 | 人づくり・場づくり
今日、職場にある人が訪ねてきて。で、ほかの人が対応してたんだけど、それを聞いていると、どうやら、ある外国人の家族について話をしているみたい。

その家族は、全員日本語ができず、子供も学齢期にとうに達しているようなのに学校に行っていないらしい。近所でその子も何度か見かけられてるらしいんだけど、学校には来ておらず、教育委員会でも全く把握できず。一応、外国人登録をしている人に関しては、登録の段階で学齢期の子がいれば教育委員会も対応するようにしているらしいんだけど。外国人登録をしていなければ、そういった情報は全く届かず。

もちろん、家族の判断で学校に行かないってこともあるかもしれないけど、そういった時は家族の誰かがオーバーステイであるとか、親が仕事でいっぱいいっぱいで子供にまで手が回らないなど、あんまり状況は良くないことも多い。

家族全員どういった背景でどういったビザでどういった目的で日本にいるのか分からないけど。地域にもよるけど、こうやって取り残されていく子供は意外にいる。

なんとかつながれないかな。

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DV

2006年06月27日 23時57分56秒 | 人づくり・場づくり
最近、DV関係の本を読んでて思うこと。

DVってとんでもなく暴力的な人がすることだって思っていたけど。ささいなことから暴力的になっていくケースがたくさんだということ。家族観だったり、男女についてどう考えるかという部分が生み出すもので、「常識」が生み出してるとも言える。当たり前とされていることを、当たり前に受け取ることってのも恐いなということを感じた。身体的な暴力に限らず、精神的なことも入っていて、そこまで視野を広げるといろんなところで普通にありそうだなってこと。

実際にこれまでにもDVを受けてた人と仲が良かったことがある。でも、最近、DVについて勉強するまではDVだとはっきり気が付いていなかった。その人の話を聞いてたら、本当にひどいこともたくさんあったし、自分の問題として考える必要のない部分まで自分のせいにしていたこともたくさんあった。当時は本人の性格と相手が悪いのと半々くらいかなって思ってたけど、でも、そうじゃなかってんな。DVを受けてると、自分を肯定する力が奪われて、ますますDVを行う相手に依存するようになるし、そういった悪循環から抜け出すためには、周りの介入がどうしても必要になってくる。

読んでいた本にも書いてあったけど「問題はなかったんじゃなくて、見えてなかった/問題として見ていなかった」という言葉がすっと入ってきた。
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削ぎ落とす。

2006年06月26日 23時48分52秒 | 日本語教師のお仕事
4月からのクラスを振り返ってみると、どうも授業がしっくりこないことが多かった。もちろん、良かったこともたくさんあったんだけど、どこか違うという感触が拭えなくて。で、もう一つの国際交流協会の仕事にも慣れ出して少し余裕ができ、改めて授業をなんとかしようと、頭をひねってはみたけれど。

クラスって時間をかけて作るものだから簡単に一発逆転ができるものでもないし、それに、これさえやれば確実にいい授業ができるってものがないから困った。考えても考えてもええアイデアが出てこない。もちろん、授業のネタはいくつか用意したんだけど、それが盛り上がり、かつ学びにもつながるという確信が持てない。どれもそれなりって感じ。途中、ちょっと寝たけど、朝までずっと練り直し。

で、朝、6時頃。「こんだけ考えて、ええのが出てこないねんから、もうしゃあない。今の力をちゃんと知った上で、できることだけやればええやん。というより、そこからスタートするしかないもんな」と開き直って授業をしたら...。

学生に日本語を話させるのではなく、学生とどんどん話ができたのがうれしかった。まじめに話す学生もいれば、ふざけたことを言う学生もいる。いつも静かに授業にあまり関わろうとしない学生も雰囲気に巻き込まれて楽しんでる雰囲気やった。もちろん、みんなノートもたくさん取ってたし、質問も多かった。テキストを使った授業で今年一番の雰囲気やったな。その後の活動中心のコマも雰囲気良かったし。初級のクラスも、今後良くなるかなって手応えを感じた。

何やろ。今まで「ええ授業をしよう」と変な計算ばかりしてて、ちゃんと対話できてへんかったんやろな。学生のこと見れてなかったんやろな。開き直って、よけいなものが削ぎ落とされたような感じでした。
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3F

2006年06月25日 16時15分46秒 | 人づくり・場づくり
"Uno, dos, tres!"のかけ声で子供たちが踊り出す。なかなかの腰付き。

踊っているのはペルーにルーツを持つ小学生の子供たちで、市内に住んでいる子たちが中心。去年はこんな集まりなんてなかったんだけど、親たちが「自分達の文化などを継承できるようなことが何かできないか」というところから自発的に始められた(本当の経緯を詳しく説明すれば長くなり過ぎるので、とりあえずこのへんで...)。今では近所の国際交流協会や公民館のお祭り、小学校での出張講演などいろんな場で踊りを頼まれるようになったし、つい先日はスペイン語の情報誌にも写真付きで大々的に取り上げられてた。

多文化って話になると3F(fashion, food, festival)が真っ先に取り上げられるし、それはマジョリティ側が異文化を表面的に簡単に手軽に扱うものとして批判されるけど。マジョリティ側が用意した時間と場所にあわせて単発で雇われるのではなく、自分達がグループの運営から練習メニュー、練習場所を考え衣装も自前で用意して、運営しているのとは全然意味が違う。何よりみんなの表情が違うのがうれしい。みんな誇らしげやしね。

指導を担当しているお母さんたちが、たまに中学校や高校の部活の顧問も真っ青になるくらいに厳しく指導してたり、その横でプロのミュージシャンとして生計を立ててる男性がお母さんらの指示に従って黙ってCDデッキのボタンを押す係をやらされてるのが笑えるけど。
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出無精。

2006年06月24日 12時33分24秒 | 人づくり・場づくり
ぼくは基本的に出無精な性格。

休みの日は家で静かにしてることが結構多い。ま、普段、仕事でいっぱいいっぱいで、休みの日にくらいしか授業の準備や洗濯なんかができないってのもあるから、もう少し慣れるまでは仕方がないかなって思うけど。

ちなみに今日は休み。メールもたまっていたので、せっせと返事を出してたら一つに講演のお知らせがあった。「市民活動としての日本語支援」とか何とかいうタイトルだったように思う。久々に気晴らしもかねて行こうかなと思ったけど、やっぱりやめた。きっといい話が聞けるんだろうなと思ったけど、でも、自分が普段関わっている人のことを考えると、そのために電車で時間をかけてという気にどうしてもなれなかった。単に話が聞けるだけでなく、そこでいろいろな人に出会えるだろうなとも思ったけど。

最近、支援ってばらばらな形でやっても、いたちごっこにしかならないかなって感じる。昨日会ったお母さんは二人の子連れ。市の子育て関係の課の人も来て、英語が話せるうちのスタッフと一緒に子供の検診と簡単な子育て相談をして、それから日本語の活動に参加してた。子どもは一緒の時間帯に行われている多文化保育に参加して、楽しそうに遊んでた。

子どもは5歳だったかな?そのうち学校の問題が出てくるし、親と学校のコミュニケーションの問題も出てくる。また、親が日本の学校制度をあまり知らないということも問題として出てくるし、親が望む子どもへの教育と実際の日本の教育との乖離も出てくる。子どもが日本の学校に慣れ出し、日本語をメインで使うようになり出すと、今度は親と子のコミュニケーションの問題が出てくる。それから学校が子どもの背景的な部分にどう対応するのかということも出てくる。また学校の他の子どもが多文化をどう受け止めるかという問題を考えないといけなくなる。何年も先には進路の問題も出てくるし。

とにかくことは複雑で、支援する側としては整理をしないと対応ができない。周りはきれいに整理をした上で対応すればいいかもしれないけど、でも、本人はそれら全部と向かい合うことになる。最近はこのギャップは何とかならないのかなと思う。

支援活動があんまりきれいに整理されてしまうと、他で何をしているのかが見えなくなってしまって、実は思ったほどサポートになってないなんてこともある。単に情報を流したり、人の受け渡しをするためのネットワークよりは、横でのことを知った上で、それぞれの活動が少しずつ本当に必要とされる形へ変化したり、横と協力した上で何か新しいものを生み出したりということが必要なんだろ思う。もちろん、「自分たちができることをする」ということからスタートすることは大事だし、それがなければ何もスタートできないけど、「目の前にいる人はどういった現実を生きているのか」ってことを中心にいろんな活動を複雑に絡め合う必要があるんだろうなって気がする。複雑なものをそのまま受け止められるように。そういったことを考えた時に、日本語教育や地域日本語活動はどこに位置付けられるんだろうな(2つを一緒に論じることはできないけど)。

一気に全部するのは無理って分かるんだけど、でも、一つ一つの活動をきちんとする次にどんな形があるのかということを考えたいなと思ったから結局行かないことに。ちょっと遠いってのもあったし。

でも、本当の理由はやっぱり出無精だからだろうな(苦笑)
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もやもや。

2006年06月22日 20時45分53秒 | 日本語教師のお仕事
岡真理さんの文章を読んだ。『"ポスト"フェミニズム』という本の「ハーレムの少女とポストコロニアルのアイデンティティ」という文章。力を持っている人間はいかに自分の力に無自覚であり、特に複合的に権力関係が交差する場合に、反権力であるつもりが知らず知らずのうちに自分たちの解釈枠組みでものを見てしまい、当事者の生に迫り切れないことが多いかという話。

岡真理さんはアラブの小説などを例にあげているので、遠い話のような気もするけど。でも、自分の価値観だったりコミュニケーション観だったり、教育観もそうだけど、これまでとは全く異なった視点からえぐられるような感覚になる。たまにえぐられ過ぎてダウンするけど(苦笑)

まだ、うまく言葉にできないけど、言葉を学ぶとは何かということを考える時に、岡真理さんのような視点を反映させることがすごく必要なんじゃないかなって気がする。まだ直感的に「そう思う」としか言えないけど。言葉を得ることは単にスキルを獲得することではないと思うし、コミュニケーション能力の育成とかってのも違う気がする。周りがお膳立てして教えてあげて、それで喜ばれて...という構図は何かどこか違うと思う。それとは違って、よく地域日本語活動とかで「教えるー教えられる」という形ではなく「交流型」って言葉を聞くけど、それも少し違うんじゃないかって思う。「教え込む」のであれ、「学びを大事にする」のであれ、「交流する」ので、これまでの話は本質的には同じような気がするし。もしかしたら、「日本語を学ぶ」ということがどういった社会的な構造の中に位置しているのかという問題なのかもしれないな。その辺は「日本語教育」においては前提とされていて、問い返されることもない部分かもな。

どうしたらええのかって部分がうまく言葉にできなくてもどかしいけど...でも、たまにはこんなもどかしさもええかな。
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分断と統治。

2006年06月21日 23時25分30秒 | いろいろ
昨日、日本で初めて外国人市民会議を作った人と出会った。




力のある人は、力のない者を支配しようとする。言い換えれば、発揮される力がより小さくなるように管理する。ついこの間まで、「外国人」ということで同じ立場に置かれていた人間の「一部」を味方に引き入れる。それによって問題が目の前に突き付けられる人と、問題を眺める人とが生まれる。

力のある者は、力のないものが反抗しないように、あらかじめ分断して統治する。


今回の入管法改正でなぜ特別永住者が指紋を押捺する義務がないか。なぜ、それ以外の外国人には指紋押捺を義務付けるのか。そもそもなぜ、外国人は指紋を押捺する義務があるのか。アメリカが照合の対象として把握しているたった500人のテロリストのために、年間500万人もの外国人の人権を無視し、指紋の押捺を義務化することの効率はどうして問われないのか。アメリカの企業の機械を導入して、本当に個人情報は守れるのか。海外旅行や帰省から日本に戻ってくる時、入管で一人だけ指紋を取られる親を子はどんな気持ちで眺めるのだろうか。東京の総人口における外国人の割合はだいたい3%で、東京の犯罪件数において外国人が犯す犯罪の割合もだいたい3%。日本人にも外国人にも、いいやつもいればどうしようもないやつもいる。それって普通じゃないの?

外国人は作られると同時に、日本人も作られる。そして、見えないところで外国人でもなく、日本人でもないという人も作られる。そういった属性だけでなく、気持ちも作られてしまうと言ってもそんなに間違いじゃないと思う。全部が全部じゃないだろうけど。

でも、作られているからこそ、何とかなるんじゃないかって思う。もちろん、自分の小さな仕事がそれだけで何かを変えるとは思えないけど、だからと言ってやめないことが大事なんだろうって思う。それも、ただ粛々と仕事をこなすのではなく、自分の仕事をもっと広い地図の中に位置づけて戦略的に粛々と仕事をこなすことで働きかけること。これを大事にしたいと思った。
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便利さが強調される裏で...

2006年06月17日 22時33分09秒 | いろいろ
今は自治体が外国人登録を実施してるけど、それが入管が一手に引き受けることになりそうな動きがある。

狙いとしては「法務省入国管理局がビザと外国人登録とを一元的に管理することで、外国人に対する行政サービス提供をはかる一方、犯罪防止につなげる狙いがある。07年にでも外国人登録法と出入国管理法の改正案を国会に提出する予定」。さらに「在留期間中の居住地や勤務先の変更に伴う届け出を入管法上の義務とする。」ということらしい。まだ決定ではないけど。

新聞ではサービスの提供なんて書いてたけど、そんなことは全然、まるっきり、これっぽっちも考えてないんだろなって思う。サービスの提供に一元的な管理が必要かどうかなんてことは関係ない。今はいわゆる不法滞在の外国人であっても、外国人登録をすることは可能だし、それで人として最低限のサービスを受けることができる。ただ、入管が一手に引受けるということになると、そういったことはできなくなるだろうな。

「ビザがない=住民登録がない=いろいろなサービスが受けられない」という形になって日本から追い出されるか、それとも我慢して劣悪な環境で生活するか。劣悪な環境で生活したくなきゃちゃんとビザをとればいいと思う人もいるだろうけど。でも、中には配偶者の無配慮、圧力などによって本人の意志とは別に不法滞在状態になり、本人だけでなく子供にも影響がおよぶことがある(不法滞在がばれるのを恐れて、子供を学校にいかせられないなど)。病院にもいけなかったりする場合も多いし。

とにかく「いい外国人」と「悪い外国人」を分けようとする時に、悪い外国人ではないのに「悪い外国人」としてくくられてしまう人がいるということは問題視しないといけないと思う。そもそも「いい」「悪い」なんて基準を設けようとしている点に疑問を感じるけど。
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つながり。

2006年06月14日 21時16分36秒 | 人づくり・場づくり
新しい職場には毎日いろんな人がやってくる。

いろんな地域の外国人がやってくるし、出入りする日本人もいろいろ。語学を勉強しにやってくる人もいれば、何か手伝えることがないかって来る人もいる。年齢も下は0歳っちゅうか妊婦から高齢者まで。

施設訪問・見学ということで小学生や中学生もやってくるんだけど。外国にルーツを持つ児童や学生と、それをきっかけにつながることがある。家庭での自分と学校での自分、それが一致しない葛藤を抱えた児童・学生がまた別の場所で同じような背景を持つ仲間と出会ったり、葛藤をそのまま吐き出せる場所を見つけて、のんびりとしてたり、ふと見せてくれる笑顔は見ているこっちまで本当に幸せな気分になる。

明日もがんばるぞ。
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出会い。

2006年06月12日 02時59分27秒 | いろいろ
今日は四日市の小学校で国際学級の指導をされてる先生の講演を聞いた。そこの小学校は300人ちょっとの小学生のうち、80人前後がブラジル出身。いわゆる集住地域の小学校。

今日、来た先生はとにかく暖かくてパワーのある人。懇親会でも話をしたけど、ほんまええ人やった。

どうしても集住地域では日系人が外国人扱いされて、その他の外国人がマイノリティの中でもマイノリティの扱いにされてしまったり、対応が弱かったりするものだけど。その人は在日コリアンだったり、フィリピンにルーツを持つ子供たちのこともしっかりと目を配っている様子に心をうたれた。

その先生が大事にしていたこと。
・なに人でも子供は子供。子供を育てるのが私の仕事。
・教師としてではなくて、地域の大人として
・子供の権利を守るのが大人の仕事。

いろいろなヒントを得ることができて、本当に良かった。出会いって大切に
しないとね。
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「名前」と「名乗ること」の違い

2006年06月03日 19時52分07秒 | いろいろ
今日、在日コリアンの高校生と会った。いろいろうだうだとおしゃべりした。

彼女は学校では通称(日本名)、で、家だとか他の場所では本名。二つを使い分けているらしい。普段はそれぞれの名前での生活が接点を持たないんだけど、時に二つの生活が出会うことがあるらしい。学校以外、つまり本名で生活しているところで学校の人と出会う時。そんな時は本人の意思もあって、周りは本名ではなく通称で呼ぶ。

絶対に本名を名乗らないといけないってことはないと思うし、通称で通すのも生き方も選択肢の一つとしてあっていい。逆に本名で通すのもいい。二つ使い分けるという選択肢もありだとは思う。周りから強制されるようなものではないと思う。だから一つの生き方として彼女のような選択は当然ありだと思う。

でも、背景に何となくいびつな構造を感じたのは気のせいだろうか。それとも名前は一つであるべきという僕の考え方自体が多文化共生を考えた際にはいびつなんだろうか。でも、両方とも違う気がする。

ある名前を名乗る人、名乗らされる人。そして、いつの間にかある名前を名乗らされてしまう人。何がそういった違いを生み出すのか考えないといけないんだろうなと思った。

ちなみに、いわゆる「日本人」には「名前」と「名乗ること」の差はほとんどないと思う。
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