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ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

苦銭

2018年02月28日 17時53分35秒 | もろもろのこと
見た。

淡々とした中にもいろいろな人生を感じる。また自分の今の生活とのつながりも。

おもしろかった。
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抜き書き 〜結婚差別の社会学〜

2018年02月23日 05時58分37秒 | 
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…出身者とは、近世の身分系譜的な連続性をもっている(とみなされている)人であり、被差別とは近世のが居住していた(とみなされている)場所ということになる。そして、それらの人々は食肉や皮革といった職業に従事しているだろうとみなされていた。それを、いわゆる「産業」という。この系譜的連続性、地域的要素、そして職業の3つを「三位一体」と呼んだのが、歴史学者の井上清であった。

…野口道彦によれば、と非の境界線が「錯綜化」し、「出身者とは誰か」という議論が生じた背景として、三位一体的が減少したこと、外への転出者の増大、内への転入者の増大、外との「通婚」の増大があるという。つまり、父母ともに出身で、に居住し、いわゆる産業に従事しているような人は次第に減少していったのである。つまり、出身者が誰かという自明性が失われていったのである。

…地区出身者かどうかを決める基準は、系譜的連続性と地域的要素、職業の3つの要素と重なっていることがわかる。3つの要素が揃っていなくても、そのうちのひとつかふたつwp持っていれば地区出身者とみなされる可能性がある。さらにいえば、3つのいずれの要素がなくても差別を受ける可能性がある。野口道彦は,差別する側が、ある人をかどうか判断するときの基準は非常に恣意的であるという。そのため、差別する側が「間違って」差別することがしばしばあり,だれでも差別を受ける可能性がある。例えば、出身者との交際、内や周辺部での居住、産業と考えられている産業への従事などによって、「間違って」差別されることがありうる。そして、人々が「間違われそうなこと」を避けようとして,や出身者から距離をとることで、差別の構造が維持されている。

…差別とは「だれが」「なぜ」差別されているのか、非常にみえにくい問題である。というよりも、出身者が「差別される・忌避される」理由は答える人によって大きく異なるのだから、そのような問いのたてかた自体、適当であるとは言えない。「差別・忌避する」理由こそが問われるべきだろう。

…実際に差別問題があるにもかかわらず、「もうない」「私はしない」「そっとしておけばなくなる」「差別は決してなくならない」と簡単に「言えてしまう」ような、マジョリティとマイノリティの非対称性もまた、差別の構造的なあらわれなのではないだろうか。
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「結婚差別の社会学」斉藤直子
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抜き書き 〜「語られないもの」としての朝鮮学校〜

2018年02月22日 16時43分59秒 | 
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…大阪府教育委員会が作成した「在日外国人生徒進路追跡調査報告書」によれば、本名から通名を名乗るようになった人のうち、42.6%の生徒が高校進学の際に通名に変えている。それに高校卒業以降通名を名乗る人は、全体の73.6%に達している。また名前を通名に変えた理由については、「就職のため」(20%)と答えた人が最も多かったことと、経済活動ができる高校時代から通名を使う人が多いことは、本名が主食の障害になる現実を示している。この場合、通名という選択は一種の戦術と見なすこともできるが、本名を使っていた頃の自分に比べてパッシングをしている自分に「卑屈な朝鮮人」のイメージを発見している生徒も多く、その戦術の選択がいかに主体的でないかを如実に物語っている。

…在日コリアン性との本名使用率が他の外国人生徒に比べて著しく低い実態の背景には、被植民地経験と創氏改名の記憶、差別と適応、日本文化への同化などの歴史・文化的要因があることは間違いない。民族教育の硬直性を解体し、「柔軟なアイデンティティ」の可能性を探ることは、変化しつつある在日コリアン社会を考えるときには依然として有効である。しかしながら、それがより現実的なものになるためには「柔軟なアイデンティティ」への実践が、再び「アイデンティティの危機」を招いてはならない。

…個人としての在日コリアン、民族教育と在日コリアン社会、日本社会を重層的な構造の同心円として把握するとき、個人の自由と共同体の意志が持つベクトルはいつも「日本」という変数をのぞいては考えることができないのである。民族教育の対象でもあり、実行者でもある在日コリアンのある部分を構成する「日本的なもの」は、鄭暎惠の告白のように母語としての日本語だけではない。日本で生まれ、日本の教育システムの中で育った在日コリアンの多くは、日本的な価値観も内面化しているのである。鄭暎惠は、在日コリアンの民族運動において民族アイデンティティを過度に強調することが偏狭なナショナリズムを助長する危険があり、「ダブル」「帰化者」に対する差別と排除をもたらしていると批判する。

…在日コリアンたちが内面化した日本的オリエンタリズムは姜尚中のいう「オリエンタリズム解釈」と関係がある。オリエンタリズムとは、差別的な位階性を内面化させることによって、自分のアイデンティティを固定させる文化的ヘゲモニー装置であるが、この装置は体制の安定化を図る。このような装置が作動する世界体制の中で、人間主義的普遍主義が体制への包摂を担当し、レイシズムが排除の役割を分担して、補完しあいながら体制の安定を図っているという分析は、現在進行中の多民族共生を志向する在日コリアンの民族教育が置かれている状況について理解するにおいても、有効な視角だろう。

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「語られないもの」としての朝鮮学校 Song Kichan
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抜き書き〜「語られないもの」としての朝鮮学校〜

2018年02月22日 11時20分59秒 | 
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…「誇り」より先に必要であると考えられるのが、「民族意識」と呼ばれるエスニシティである。自らアイデンティティの障害を経験してきた教師たちは、子どもにはまず「エスニシティ」を植え付けることが大切であると信じている場合が多い。それは、子どもたちに、自分が日本人ではないという事実をはっきりと認識するよう仕向けることでもある。エスニシティの確保は、日本人と自分の「違いの確認」から出発する。しかしながら、言語や文化、思考法、好む食べ物にいたるまで実質的にはほとんど同質的である現状において自分を周囲の日本人から区別する説得的な術を子どもたちに教えることは非常に難しい。
 したがって,民族学級における教育は、まず日本人との「区別」の創出に、第二に「区別」に基づく「誇り」の創出へと向けられる。民族学級で在日コリアンの子どもたちに教えられる「区別」の過程には、人為的な「民族的象徴」が使用される。

…在日コリアンの若い世代の台頭とともに、1970年代から大阪地域を中心に活発に展開された民族学級型民族教育は、既存の祖国志向的民族教育からの脱却を図っていた。そのため、教育現場のなかで「祖国」の持つ国民国家のイメージを積極的に活用することはあきらめざるを得なかった。そこで、民族学級の現場では、相対立する政治的実態を持つ「祖国」の代わりに「民族」という抽象的な概念と、それにまつわる様々な象徴をやや本質的に、そして戦略的に使ってきた。そのような実践の結果、教育対象である在日コリアンの子どもたちに「日本人」でない自分を発見する「エスニックな自覚」を抱かせることには一定の成功を収めてきた。

…教育社会学は金泰泳は、過去、一世たちにとって「自由」として機能していた「民族」が、二、三世にとっては「不自由」として機能するのは、時代の変化につれて「個人」を抑圧するイデオロギーと化した従来の本質主義的民族アイデンティティに頼ってきた民族教育や民族運動の言説に原因があるとみた。
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「語られないもの」としての朝鮮学校 Song Kichan
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抜き書き 〜分断社会を終わらせる〜

2018年02月21日 21時50分20秒 | 
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…私たちが「成長=救済型モデル」に取って代えようとしているのは、「必要=共存型モデル」である。中間層を受益者とすることで「再分配の罠」を乗り越える。自己負担ではなく、社会でリスクを共有し合うことで「自己責任の罠」から脱出する。人間の生活に必要なサービスをライフスタイルに応じてバランスよく配分することで「必要のギャップの罠」を解消する。「誰かの利益」を「みんなの利益」に置き換え、これらを束ねた結果として経済成長や財政再建を実現する。私たちの提案は、何か革命的な方法によって、社会をドラマティックに変えようとするものではない。もっと簡単な話だ。必要原理を起点として、少しずつ受益者の範囲を拡大し、人間と人間た対立する原因を消失させ、分断社会そのものを終わらせようというものだ。

…価値の共有

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個人化された社会の中での自己実現をどう考えるか、個人化された社会の中で、組織や地域の幸せに人は満足するのか。


「分断社会を終わらせる 「だれもが受益者」という財政戦略」井手英策、古市将人、宮崎雅人 筑摩選書
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デパ地下

2018年02月21日 21時44分12秒 | もろもろのこと
今日は休館日で休みやねんけど、午前中、大阪市内で会議。終わってから帰る途中、ついついデパ地下へ。

普段はそんなところに行かないだけに、いろいろと買ってしまう。りんごのジャムとマカロンとスモークサーモンのジャーキー。

マカロンはコーヒー淹れておやつに。サーモンのジャーキーは食後、ハイボールを飲みながら。なんかすごい贅沢をした気分になる。金額にすれば大したことないけど。

ちなみに久々の連休で明日も休み。明日はどうするかな。
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抜き書き 〜「語られないもの」としての朝鮮学校〜

2018年02月19日 01時07分57秒 | 
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…日本で生まれ、日本の教育を受けた在日コリアンの若い世代の多くは、文化的に日本人化された自分と根本的に日本人にはなれない現実の間で心理的葛藤を感じざるを得ない。しかしその際、彼らが自らの葛藤を認知し、表出する方式もまた、日本文化の影響を受け日本化されている。

…在日コリアンの二世にも劣等意識がなかったとは言えないが、彼らの場合、日常的な被差別経験に刺激され、劣等意識よりもエスニシティが先んじて形成された。すなわち、二世の世代は比較的明確なエスニック・アイデンティティを保有し、また日本社会で支配的な価値観をそのまま内面化することもなかったため、日本社会の尺度で自分を規定することからは比較的自由でいられたのである。しかし、父母世代に比べわりあい困難なく日本文化へ同化してきた三世の世代の場合は、自らの中に形成された日本的な価値観により、自らを異質な存在として「発見」せざるを得ない。

…大阪における民族学級の始まりは、1949年強制的に民族学校を閉鎖するとき、大阪府教育委員会が民族学校の代わりに民族学級の設置を覚書で保障したことに由来する。日本の学校に通わざるをえなくなった在日コリアンの子どもの民族教育のために、h内の33校の公立小学校に民族学級が設置され、36名の民族講師が大阪府教育委員会に正式教員として採用された。民族教育運動団体では、これを「覚書民族学級」と呼び、その後登場する民族学級と区別する。

…1980年代に入ってからはそのときまで残っていた民族講師さえ定年退職をするようになったが、大阪府教育委員会は後任講師補充に関する保障内容が覚書にないという理由を挙げ、覚書民族学級に対する後任講師選任を原則的に拒否した。しかし、同胞運動団体と両親的日本人教職員を中心に「後任講師補充運動」が粘り強く展開され、結局「覚書民族学級」11校は保全できた。

…72年型民族学級

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「語られないもの」としての朝鮮学校 在日民族教育とアイデンティティ・ポリティクス
Song Kichan
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読書中の雑感 〜分断社会を終わらせる〜

2018年02月19日 00時41分43秒 | 
まだまだ深く理解できていないし、読んでいる途中だけど、もう一度読みたい、読書会で取り上げたいと思っている。

救済型ではなく受益型の給付をめざすこと、格差社会を放置すると分断が生じること、なぜ今のような経済状況が生じたのか…等々について解説してくれているが、なるほどと思うことが多い。

これを敷衍してマイノリティ政策のあり方についても論じることができるんじゃないか、それこそが今の家計の経済を振りかざす施策に対するアプローチを生み出すのではないかという気がする。

まだまだ分からないこと、理解できないことだらけやけど、何かはっとする。
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抜き書き 〜多文化共生地域福祉への展望〜

2018年02月17日 21時30分51秒 | 
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…アジット・S・バラとフレデリック・ラペールは社会的排除を「社会的排除は多次元的で構造的な過程である。すなわちそれは一方では労働の不安定さや失業をふくみ、他方では福祉国家の危機、フレキシブルな[資本]蓄積のパターン、個人主義の台頭、そして第一次的連帯(たとえば家族のネットワーク)の弱体かなどを通じた、社会的なつながりの崩壊をふくんでいる」と定義している。」

…排除さrている個人の問題としてではなく、排除するコミュニティを変革しない限り、社会的排除の問題の展望は開かれないのである。

…近年「支援の狭間」と言われるような問題が顕在化し、主に「個別支援」として展開されているソーシャルワークの限界が顕在化してきている。そのなかで「支援の狭間」の問題を解決する方法として「地域支援」であるアウトリーチや予防的福祉を含むコミュニティソーシャルワーク、コミュニティワークが注目されつつある。

…地域において、住民の要求運動として、また民間の先駆的な福祉、さらにはボランティア活動、住民参加型福祉として、生存権を「公共」として担保してきた歴史でもある。今日そのような地域福祉における住民主体の実体化としての「公共」が「新しい公共」としても期待されている。しかし、この住民に移民は含まれているのだろうか。…宮島喬は「日本的な福祉の考え方の特質として、第一に、公の全面的な給付に頼ることを恥とする独特の「自助」意識、第二に、家族・親族への依存(あるいは活用)を当然とする傾向、第三に、企業内福利厚生に肩代わりを求める傾向があって、これらが実は、外国人住民たちを疎外する方向に作用してきた」と指摘している。…宮島の指摘は、そもそも日本の福祉制度が、家族福祉と企業福祉を前提にしていることから、移民は、より深刻な状況にあることを示している。さらに序章でも紹介したとおり、現時点でも、外国人の問題の大半は、日本語教育支援者や外国人支援ボランティア、通訳者による献身的な活動で支えられているのが実情である。

…地域福祉は,地域住民、さらにはその住民が居住する地域を対象として支援を行ってきた。しかし地域福祉は、生活困窮者、なかでもホームレス支援をしてきたのかという問いに対し、小野達也は「地域福祉が生活困窮者問題に対して的確に対応してきたとは言い難い」として、その理由を地域福祉は、対象別・領域別の発想ではなく、地域という場を基盤として対象を横断した総合的な視座をもつことが前提であったはずなのに、「いつの間にか想定が対象別・領域別になってしまい、制度を前提とするものになっていたのではないか。それによって制度の狭間だけでなく、地域福祉の狭間というものを生み出してしまった」と述べ…

…多文化共生地域福祉とは、地域福祉の推進主体である住民に移民などマイノリティを権利主体として明確に位置づけ、現在の地域を変革し、グローバルな枠組みのなかで、多文化共生コミュニティという新しいコミュニティを想像する地域福祉である。

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「多文化共生地域福祉への展望 多文化共生コミュニティと日系ブラジル人」朝倉美江
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お酒

2018年02月17日 13時29分12秒 | いろいろ
最近、プリン体が少ない蒸留酒がよい…というわけではないだろうけど、まし?と聞き、ちょっと路線変更。

昔はジン、最近は焼酎が基本やったけど、試しに買ったウイスキー?スコッチ?を飲んでみる。何が違うのかも分からないし、ロックとかではなく、炭酸割りやけど。昔はおいしくないって思ってたけど、案外いけるなぁ。

休みの昼間、ハイボールをちびちびやりつつ、たまった仕事をのんびり片付ける。…掃除もしないと!
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2018年02月16日 22時54分19秒 | もろもろのこと
1ヶ月ちょっと、まるで休みがなく、ばたばたとした。で、その最終日、夜中の2時半過ぎに起きて仕事を始めて、普通に出勤し、帰ってきたのは23時過ぎ。

明日は午前中に顔を出そうと思っていたところがあったけど。

もーむり。泥のように眠る。そうすることにした。
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つなわたり

2018年02月16日 22時06分59秒 | もろもろのこと
夜中に起きてワークショップの準備して。朝、職場の打ち合わせして、役員候補の人にお願いの挨拶に行き、セミナーに行き、今度は自分がワークの講師に。

2時半過ぎに起きて、今22時。家につくのは後1時間後。

そりゃ、疲れるか。長い上にみっちり。しかもスケジュール綱渡りやったし。

100点満点の日なら、もう少し充実感で疲れも紛れるんやろうけど、そこまでないからなー。
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ひそかな鉢合わせ

2018年02月16日 21時52分30秒 | もろもろのこと
ワークショップの講師が終わり、帰宅の途。決して良くはなかったけど、まー、そこまでは悪くもなかったかな。75点かなというところ。

帰ろうとバス停に向かう。バス停には受講生が10人ぐらいいる。真っ暗で全然気づかずにしゃべってる。

ああだこうだと感想やら、いろんな指摘やら。的を得た感じでなるほどなと。

でも、話が延々続き、このあと、バスに乗ったら…おること分かるよな。何かこっそり聞いてたみたいやん。そんなつもりはなかったけど…てなことで、なんか気まずいなぁと思い、バスを諦める。

20分ぐらい歩いて小さな駅へ。

耳がいたいけど、なるほどと思う指摘や、そりゃそうやんなという指摘もあり、もうちょっと聞いてみたかったけど、でも、バスに乗ってから気が付かれるのは気ますいなぁと思い、迷った挙句、その場を去った。

ま、これでいいか。
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ワークショップ

2018年02月16日 21時44分32秒 | もろもろのこと
合意形成やアイデア募集のワークではなく、研修、セミナーでのワークショップやから余計にそうかもしれんけど。

言いたいこと、伝えたいことが多すぎるねんな。ええ話をせんとあかんと思ってしまってるんやろうな。

もう一皮剥けたら、どんな感じになれるかな。

まだまた未熟やなと思った。
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飲み

2018年02月14日 21時03分33秒 | もろもろのこと
また飲んだ。今日は外で。素晴らしき梅田の立ち飲みで。

普通の立ち飲みとは違う、何じゃこりゃって梅田の立ち飲みで。

絶対友達連れてくわ!
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