ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

100年

2019年08月28日 18時31分32秒 | いろいろ
今日は仮眠1時間、新婚線の中でも1時間うとうとしたぐらいで東京。

会議の傍聴、いろいろ懐かしい人にあいさつして、そのあと、とある町に行ってヒアリングのはずが。

大雨、話はろくに聞けず、そもそも取り組みがあまりなく残念な感じでへこむ。

宿もラウンジが狭い…とか思ってテンションが上がらなかったんやけど。たまたま入った居酒屋?酒場?がいい雰囲気でつまみもおいしく、復活。

おいしいものは大事やな。

にんぎょうまちで100年ってだてじゃないな。
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泳ぐ

2019年08月20日 17時38分13秒 | 当事者
何年ぶりか分からないけど、泳ぐ。楽しいな。

夏休み。
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2019年08月20日 00時57分50秒 | もろもろのこと
激しく降っているので、外には出ない。宿には温泉をひいたお風呂がある以外、特に何かがあるわけではなく。だから、ゆっくりお風呂につかる。

小さいけどちゃんと足は伸ばせる。気持ちいい。

何かやることがないって贅沢よな…と思う。のんびり、夫婦でゆっくりの夏休み。
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夏休み

2019年08月19日 14時15分51秒 | 当事者
なかば、無理くりこじあけた感じやけど、3日間、ふらっとします。

近場やけどのんびり夏休み。

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表現の不自由の広がり

2019年08月13日 00時37分58秒 | 社会
表現の不自由展のその後について,批評,評論をするのはとても簡単。今の世の中は様々なツールがそろっているし,匿名性が高い表現媒体もたくさんある。そもそも圧力をかけるのは簡単だけど,受ける側はたまったもんじゃないということがある。


本当にちっぽけなことかもしれないけど,でも,めっちゃ規模も小さいだろうけど,地方のちっぽけな話だけど,そういった圧力の発生が関係ないとは言い切れないときに,自分がどう判断するか。

何を考えるのか,準備するのか,構えるのか。とても負担の大きな世の中になってしまったと感じる。しかも,施設を預かる身として,逃げられないことが明らかなとき。

とても難しいなと思う。小さな判断であっても,難しいなと感じるので,これが大きなものであれば,どれほど難しいだろうかと思う。


そんな簡単な話ではないということ。そんなきれいには整理できないということ。

本当にたくさんの論点が絡み合っているというのが現状だろうな。
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友人

2019年08月07日 00時53分29秒 | 
…とはいえないかな。パートナーの元同僚。一度だけ話したことはあったけど,ゆっくり話したのは今日が初めて。

とってもパワフルな方で刺激を受けました。自分はぼちぼちやなぁと。

そういや,友人が来る前に仕事で一緒になりそうな人と打合せやったんやけど。こっちもパワフル。


何だろう。でも,全然違うタイプのパワフルさ。
貪欲に聞こう,知ろうとする中でのパワフルさと,何とか何かにうまくはめていこうとするパワフルさのちがいかな。多分,軸とか相手との関係の作り方が違うんだろうな。


後者はちょっと苦手だな。なんかすごくせかされている感じもするし。

…とは言え,進めること,やることはやらんとね。
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一息

2019年08月06日 02時58分13秒 | はたらきかた
なかなか仕事がうまく回らない…ということはないんだけど,要領よく進まない。

要領よく進まないから,気持ちが乗らないと,余計に要領よく進まない。



暇よりはいいかという感じかな。


この4月から外国人労働者受入れ,多文化共生社会について関心がとても高まっているのを感じる。話をふられる回数が増えたし,仕事の量もぐっと増えたと感じる。やらないといけないのに手を付けられていないことも山のようにある。


喜ばしいこと,うれしい悲鳴なんて言ってたけど,ずっと悲鳴を上げてたら声も枯れる。ちょっと考えないとあかんか。で,その考える時間をどう捻出するか…。



…って,いかんいかん。もう遅くなったし,はよ寝よ。明日もぼちぼちがんばろう。
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複数の論点

2019年08月04日 10時57分40秒 | もろもろのこと
複数の論点が分かりにくく,絡まり合っているとき。その論点をほぐしながら,お互いに何についての議論をしているのか,何に対する意見なのかということを整理しながら話を進めないと,どの論点が大事か…といった話になると,割と不毛になる気がする。

双方,ともに相手は話が通じないという気持ちを強くする気がする。

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表現の不自由を考える

2019年08月04日 08時56分49秒 | 当事者
表現の不自由展の企画が中止されたことについて,個人的な気持ちとしては絶対に圧力に屈したらだめだと思う。そういう気持ちを持っている。

でも,現実的な対応は難しいなと思う。特に津田さんの気持ちは分からないでもない。

実際に見たわけではないので,憶測だけで書いてしまうことになるけど,いくつも論点があるような気がする。

①表現の自由が他の人を害したり,傷つけることについて
表現の自由があるからといって,誰かを貶めたり,さげすんだりするような表現は評価されない。人格を否定するような表現も同じ。名誉棄損で訴える,それが認められることがあることを考えると,それはだめだということだと思う。ヘイトスピーチも同様。また,フランスでイスラムの風刺が事件につながったことがあったけど,タブーに踏み込んだという点で良くなかったのかなと思う。

平和の少女像は,今の日韓関係,戦後補償の問題も関係するので,全く別の議論が必要になるけど,それを含めても作品として全く問題はないと思う。本当は被害を受けた個人に対する補償という観点から戦争を振り返るということが必要なのだろうと思う。国同士がそれを放棄すると言ったとしても,それをされた個人からしたら「なんでやねん!」って声を上げることは普通だろうと思うし。

一方で,昭和天皇を想起させるものを含む肖像群が燃える映像作品について,実物を見ていないのでコメントしにくいけど,一定分からなくもない。例えば,他の国の国王や女王が燃えるような作品がどれぐらい受け入れられるかとなると,難しい議論になる気がする。その一方で,それが議論になるような国と個人の関係をどうとらえるかということも別の議論が必要だとは思うけど。個人的には国と自分をあまり重ねてアイデンティティをもちたくないので…。

②抗議電話やメールが殺到し,放火事件を想起させるようなファックスが届いたことについて,それ自体は脅迫として警察の対応が必要だろうと思う。一方で,そういった連絡が届いた際に,どこまで職員の安全とか対応可能な範囲だとかを考えたときに現実的にどこまで対応できるかということ。企画の主催者として,責任者として職員の安全などを預かったときに,どうするかというのはとても悩むと思う。多分,安全を優先すると思う。警察への対応と,そういった状況になってしまう社会に対する発信をすることになるかな。

SNSを使った圧力やスクラムに対して,個人なら着信拒否などもできるが,公的機関では対応しなくてはならないという指摘はどうしたらいいんだろな。

③さらに政治家の表現内容に対する検閲的な行為をどう受け止めるか。公金が投入される事業において,どこまで政治的なニュートラルさや中立的な立場が求められるのか。ニュートラルや中立は現状の政権を批判しないという点で一定程度,体制温存の効果を持つという意味で政治的ではないかと思う。多分,公金が投入されるからこそ,多様な意見や立場から発信することが保障されるべきだと思う。憲法で表現の自由が保障されているからこそ。だから,多様性を求めるのはいいけど,ニュートラルを求めるのはちがうのかなと思う。



【集会,結社及び表現の自由と通信秘密の保護】
第21条 集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する。
2 検閲は,これをしてはならない。通信の秘密は,これを侵してはならない。



私は表現の自由について,これまでそんなに深く考えることはなかった。その機会を作ってくれたという点においては,評価されるべきなのかもしれない。

これまでにもいっぱい表現の不自由があったからこそ,今回のその後展が開かれたわけだけど…これまでってどうだったんだろ。s
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表現の自由と対話と自分

2019年08月03日 23時16分57秒 | 当事者
気になる表現の自由。

一つは「表現の不自由,その後展」の展示が中止されたこと。日本国民の感情を害するという理由で表現すべきではないと公人から意見があがり,それに従い,中止された。政府内でも補助金に対する差し止めの検討がされると言う。政府の見解とちがうものであれば自由はないということ。まさに全くの不自由。

これから様々な人を受け入れる,多文化共生社会を創ろうと言っている矢先に,こんな多様性を認められない,少なくとも対話をスタートできないなんてとても気分が滅入る。


もう一つはヘイトスピーチ。法律はできたかもしれないけど,いまだに表現の自由とのせめぎ合いの中でヘイトスピーチをきっちりと取り締まることができない。慎重に慎重に,反対派の意見も丁寧に汲みながら,どこまでなら取り締まることができるか,制限することができるか,議論が重ねられている。「殺せ」とか「出ていけ」とかって言っているのに。


多様性を大事にする過程の中で,時に自分たちの感覚や考えを変えないといけないこともある。ぐっと抑えて,どこで折り合いをつけるか,それが対話や共存につながり,さらなる展開にどうつながるかという希望を持ちながら,ぐっと抑えることもある。それはだれかが絶対的権力を握り,他者を押さえつけて生活するよりも,摩擦や衝突すらも新しいものの創造へとつながるという希望があるから。

そうした方が,結果として自分に返ってくるものが大きいという希望を持っているから。


そうした希望を持っていない/持てない,そんな時間的余裕も精神的余裕もない,そもそもそんなものなんて望んでいない,自分がよければそれが一番いい…と思っている,感じている人たちとどう対話を進めていくか。

これが私が今,この時代に自分の周りで,自分の働く職場で,自分の住んでいる地域で,取り組むべきことなのだろうと思う。

「おまえの考えになんて乗れない,やってらんない」なんていう人が,時間を取って話を聞くことを拒否するのではなく,意見や考えの拒否にまで進めたら,それは前進,進歩だということ。

逆に私も対話を拒否してはいけないということだろうな。どんなに聞きたくない話であっても。絶対に賛成なんてできない!って思っていたとしても。それが対話かな。
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自分の人生の一部を搾取されること

2019年08月01日 23時23分21秒 | 当事者
人生は一度切りだ。それはだれもが一緒。しかも,若いときや体力のあるときなんかは限られている。だれしも同じように年を取る。

それは誰もが同じ条件。

ふと,そんな中で例えば3年,全く自由のない生活,働けども働けども借金が返せない,先が見えない,しかも逃げることができない,ちょっと間違えば家族や親せきに迷惑が掛かる。

…そんな状況に追い込まれたらと思うと,ぞっとする。やってられないと思う。それが例え自分の判断とか決断に基づくものであったとしても,後悔すると思うし,納得なんてしないだろうと思う。なんでこんなことになってしまったのか…と。


大学生のときにチューターをした留学生は「自分は日本に来るんじゃなかった」って言って帰っていった。成田に向かう電車の中でそんな話をしながら二人して泣いた。申し訳ないのと悔しいのと残念なのと,そんなことぐらいしかできなかったのと。


やっぱり,ちょっとでもいい思いをもって帰ってもらいたい。いい思いで生活してもらいたい。そんな当たり前のことが守られない制度なんて,早くなくすべきだと思う。ちゃんとやっているところもある,プラスの面もあるなんて声も聴くけど,そういうところに当たるかどうかが運次第なんてのはいい制度とは呼べない。


技能実習制度は一日も早くなくなるべきだと思う。
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