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ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

生かさず殺さず。

2007年09月28日 23時47分52秒 | もろもろのこと
つい先日、家族で来日、日本で働き、子どもを公立学校に通わせている人から話を聞く機会があった。

「日本に差別はない」って言う人もいるけど。職場や雇用条件など「これを差別って言わんかったら、何を差別って言うんやろう」って感じた(外国人だけでなく、民族、、性別、身体障害者に対する差別なんかもまだまだ本当に根強いと思うし、差別はないという言説がどう生み出されているのか、それがどういった機能を果たしているのかということはすごく気になる。言説ってやっぱり権力と結びつくよなぁ)。本当に露骨。これでもかっていうくらいに理不尽な状況。もちろん、周りもばかではないから、「きちんとした」言い訳を用意しているんだけど。

その言い訳が成立してしまうことが差別を生み出すんやろうなぁと。

能力ではなく外国人であるということだけで同じ仕事内容なのに、倍近く給料に差が生じ(仕事は全部英語で事足りるのに)。同僚からも蔑まれ、無視され。突然、訳も分からず怒鳴られたり、ちょっとした誤解で契約を解除されたり。そういうことの積み重ねで人としての尊厳を奪われていく。

周縁化され、ちょっと気を抜いただけで日本に存在することすら許されなくなってしまうような不安定な人たちがたくさんいて。もちろん、仕事だけじゃなくて。ビザ、子どもの教育だったり日本語だったり、外国人が日本で抱える心配ごとって本当にたくさん。どれかではなく、全部有機的にカバーできるような仕組みを作らないと絶対にだめやとつくづく思う。

生かさず、殺さず。都合が悪くなれば日本から追い出す。まだまだそういうことが普通に起こってる。
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IQサプリ

2007年09月16日 00時08分59秒 | 人づくり・場づくり
テレビでとんち問題(?)を取り上げて、パネラーが正解できて、すっきりしたら「すっきりボール」を投げて「すっきり、すっきり」とかって機械音が流れる番組があるけど。まさにそんな感じ。すっきり、すっきり。

まだ、序文しか読んでないけど、めっちゃすっきりしそうな予感。もちろん、きっとそれは新たな発見と課題につながるだけで、新たに考え、取り組まないといけないことが見えてくるんやろうけど。何にすっきりしたかというと。次の文。

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官製「多文化共生」論は、もっぱら「外国人労働者問題」への対応を動機としており、植民地主義の克服を課題として掲げるどころか、克服の努力の弊害にさえなりかねない危険性をはらんでいる。なぜなら、多数派日本人とマイノリティ集団との間に生起する政治的・社会的・経済的な力の不均衡を問うことなき「多文化共生」論は、社会の多数派である「日本人」の特権や既存の権力構造を不問に付してしまうからである。(p.27)

中野憲志編(2007)『制裁論を超えて 朝鮮半島と日本の<平和>を紡ぐ』
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「多文化共生」という言葉にはあやうさ、うさんくささをずっと感じてきたけど、す~っとした感じ。出版が8.15というのも、意味や想いがあるんやろうな。
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先住民族権利宣言

2007年09月15日 22時54分37秒 | もろもろのこと
国連の宣言。
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先住民族権利宣言を採択 20年以上の議論の末 国連
(2007年09月14日10時36分)

 先住民族に先祖伝来の土地の権利や民族自決権など幅広い権利を認める「先住民族の権利に関する宣言」が13日、国連総会で賛成143、反対4、棄権11で採択された。宣言に拘束力はないが、日本政府によって土地や資源、文化が奪われたと主張するアイヌ民族からは、アイヌを先住民族として明確に認めない政府に新たな対応を求める声が高まりそうだ。

 宣言に関しては80年代から議論が続けられてきたが、民族問題を抱える加盟国の同意を取り付けるのに20年以上を費やした。採択を受け、潘基文(パン・ギムン)事務総長は声明で「世界の先住民にとっての勝利だ」と歓迎した。

 46条からなる宣言は、先住民にすべての人権と基本的自由を保障。同意なく没収された土地、資源の返還を含めた権利、固有文化を実践・復興する権利や、民族自決権などが盛り込まれている。

 当初難色を示していたアフリカ諸国は、国家の主権や統一を損なう行動を承認しないと明示した修正を受けて賛成に転じた。日本も「民族自決権は国家からの独立を意味しない」ことなどを強調して賛成。米国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは国内法との整合性が取れないなどの理由で反対した。
(http://www.asahi.com/international/update/0914/TKY200709140065.html?ref=goo)
※2007.9.15アクセス
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日本はいろんな国際的な条約を解釈でしのいできてるけど。今回のんはどうするんやろ。また、苦しい解釈でごまかすんやろか。

何日に切り抜いたものか忘れたけど(...ずぼらはあかんなぁ。最近という漠然とした記憶はあるんやけど)、北海道ウタリ協会理事長の加藤忠さんが朝日新聞の「私の視点」の欄で「◆アイヌ民族 政府は先住民族と認めよ」という記事がある。「二風谷ダム訴訟」で札幌地裁の判決(1997年)は日本も批准している国際人権規約を引いて、アイヌが先住民族であると認定したとある。国連の各種機関からも日本に対して、アイヌを先住民族として認めるよう勧告が続いているとある。

どこまで苦し紛れで粘るつもりやろか。アイヌ民族についてそこまで勉強してないんやけど...土地を奪われ、言葉を奪われ、自然との生活を奪われ、世界観も奪われたことに必死に抵抗する人々の声に真摯に耳を傾けることってできへんのやろか?

...と、同時にアイヌの人々の想い、歴史等々...詳しく知らないのに、こういうことを書ける自分、これまでそんなに知らんでもふつ~に生活してきた自分って何やろうなって思う。
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日本語

2007年09月13日 22時55分36秒 | 人づくり・場づくり
今、市内で(将来的には広域で)日本語活動の連携の可能性を探るため、とりあえずいろんな教室を回ってます。今は講師へのヒアリング依頼をして回ってる段階で来週から実際にヒアリング。ボランティアが情報交換をするネットワークはわりとあちこちであるんやけど、それ以上に有機的なつながりというのはあまり知らなくて。ただ外国人はあちこちの教室を渡り歩いていたりするので、どんなことができそうかという可能性を探ってる感じ。

教室によって運営の形態もさまざま。参加してる人もさまざま。ぼちぼち次の展開を考えていきまっさ。
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闘争

2007年09月12日 22時41分36秒 | もろもろのこと
本気で「変える」って思っても、うまく変えられないことがある。どんだけ手を打っても、結果、負けることもある。でも、それでも、やっぱり信じてることを貫き通さんとあかん。っていうか、それしかできんよなぁ。

マイノリティとともに作る活動では、マイノリティの視点を大事にしようとすればするほど、権力側が考えていることとは相容れないことも多くて。口ではいろいろいいこと言う人も多いけど。でも、「本気でやってんか?」って思う。「本気でそう思ってんか?」って思う。抵抗せなあかんし、必要とあらば闘かわなあかん。

昨日、読んだ文章に引用されていた文章(いくつか読んだので、どこで引用されたか忘れたけど)
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ピーター・マクラレン『批判的多文化主義と民主主義的な学校教育』
温和で調和のとれた合奏団のような文化的多様性は、多文化主義の保守的で改良主義的なモデルであり、わたしにとっては破棄されてしかるべきものだ。なぜなら、社会的諸関係が一糸乱れず調和した文化の中に存在するといったような、調和と合意の整然たる空間として文化を考えることは、すべての知識が社会的な闘争の場において演じられた歴史の中で形づくられたことを忘れるものだからだ。それは、社会的健忘症に他ならない。
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というわけで、今日は、すごく悔しい。
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小沢有作

2007年09月11日 21時06分36秒 | 
小沢有作『識字をとおして人々はつながる』を読んでずしんときた言葉。

「社会構造的に作り出された貧しさと非識字化がいったいのものとしてある。ですから、貧しさをそのままにして、識字だけをとりだし、これをやろうと呼びかけても、誰も答えてくれません。やれたとしても長続きしません。生活を改善することと識字することが結びついていることが、必要です。生活を変えることに役立つ識字であることがたいせつです。」

「命を守る、仲間づくりとしての識字、自分のおかれている状況に目覚める」

「識字は自分ひとり抜け出して何かをするためにやるのではありません。仲間と力を合わせて生活を変え、状況を変えるためにおこなうのです。生活を改善しようとすれば、非人間的な生活をもたらしている政治や社会の仕組みと向き合わざるを得ません。社会運動、政治運動に発展します」「単に字を覚えることを目的としているのではなくて、自分たちをしばってきたさまざまな古い束縛に気付いて、そこからの解放を実行していくことと結びついて行われている」

「自分たちの人間としての尊厳を打ち立てていく」

「どうすれば一人一人が主体として、日本での生活を少しでもいいものにしていく活動ができるか、またその中で人としての尊厳を打ち立てることができるか」

「人間から学ぶ、人々の経験から学ぶ」

「わが経験を肉声をとおして語る。まわりの人はそれに触発されて、わが体験を思いおこし、読みなおし、そこから生じた思いを連動させていく。そうした語り合い・聞きあいをとおして、たがいに見聞を広め、考えを深くしていく。」

「自分をくぐらせて語る」

「非識字者の識字問題があるのみならず、学校出ー識字者ーの識字問題があるわけです。学校を出た人も、これまでの識字が自分の人間形成・思想形成にどんな影響をおよぼしたか、見なおさなければなりません。そうすることが、識字問題を自分の問題として引き寄せることになります。...むしろ、学校出のほうが識字教育を長年受けてきているわけだから、識字の影響は深刻なはずです。それを問い直さなければなりません。」

小沢有作さん、一緒に仕事をしたという人からいろいろ話は聞いたけど、すごい人やったらしい。一度、会ってみたかったなぁ。

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非識字

2007年09月11日 10時28分31秒 | 人づくり・場づくり
仕事柄、非識字の人と出会うことがある。日本語でも母語でも読み書きができないどころか、どちらでも込み入った話になると意味が理解できなくなってしまうようなセミリンガルの人とも会うことがある。そういった人たちは文字の読み書きができないことだけで庇護の対象となるような「かわいそうな人」とは違う。どちらかというとたくましく、自分の人生をどう切り拓いていくか、切り拓いてきた自分の人生に誇りを持ってる人も多いし、ぼくもそういった人たちから学ぶことが本当に多い。ただ、苦労していることも本当に多い。

非識字や非文字文化などを含め、多様な文化を認めあうことが大事だってことを主張する人の中には、非文字文化の中で生きてきた人を無理矢理、文字文化の中に押し込めてしまうのはどうなのか、非文字文化にはそれはそれですばらしいものがあるから、問題は難しいっていう人もいるんだけど。多様性を一つの価値基準で判断してしまうのはどうかということを主張する人もいるけど。

それは文字文化と非文字文化とが接点を持たない場合にのみ通じる話で。文字文化が圧倒的に多数で力を持ってる中で
非識字の人が経験してきていることは壮絶で、自分の尊厳を保つのにすら苦労している。何も勉強しようとしなかったのではなく、学ぶ機会を奪われてきたり、とてもじゃないけど学べるような環境にいなかった人たちがほとんど。多様性はそれはそれですばらしいけど、それだけで話が終わらせられないような状況に望むと望まざると関わらず、既に「巻き込まれてしまっている」場合がほとんど。

「多様性ってすばらしい」っていう感じのフレーズが広まってるけど、それはその多様性の間にいびつな力関係がない時の話。多様性の素晴らしさという言葉によって、直面しないといけない問題が自己責任だったり、あるいは責任放棄の話にすりかえられたり、自信を持つことが大事やって話になったりするのって、ほんまこわいと思う。社会的な問題が個人的な問題にすりかえられてしまうんやなぁ。

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非識字

2007年09月10日 23時00分16秒 | もろもろのこと
仕事柄、非識字の人と出会うことが結構ある。日本語だけでなく母語でも文字を奪われてきた人。中には壮絶な人生を歩んできた人もいる。いろんな局面をひょいひょいとすり抜けてきた人もいる。文字を持たないという現実に向き合おうとする人もいる。確かに、サポートも必要だし、文字の読み書きを必要としている人もいるけど。

でも、人の人生や経験から学ぶこと、人をとおして学ぶことが人と接する時に一番大事なんやろなぁと。ふと思った。で、そういった関わりや態度の中で生まれる出会いが次に、その人と自分が踏み出す一歩に大きく影響を与える。

お互いに影響を与えないようじゃ、本当の出会いじゃないのかもしれないなぁと。
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スピヴァク

2007年09月05日 21時49分25秒 | 
以前、スピヴァクを読もうとしたんだけど、難解さに挫折をしてしまって。改めて入門書から入ってるんやけど。多文化共生にしても、ジェンダーにしても、語ることで誰が除外されてしまうのか、語られてしまう人たちがどのような位置づけを得ることになるのか(あるいは追いやられてしまうことになるのか)ということについて論じていておもしろい。

ぼく自身の仕事に引き付けて話せば、外国人のことを代弁しようとして語ること自体、ある社会構造・権力関係の再生産であり得るし、主体の声を奪うことになりかねないということ。だからといって、関わりを放棄するのではなく、自分のおかれているポジションに自覚的に、さらにはそのポジションの限界を知った上で謙虚に語ることが必要なんだろうなぁということを感じた。

あと、本(『スピヴァク』青土社)を読んでて、ぐさっときた部分。

「力を剥奪されたサバルタン集団の生活や歴史を適切で搾取につながらないやり方で伝えていくこと」、
「現実に人びとの心を変えるような集団のあり方が勝利にいたるまで耐え忍ぶためには、想像もつかないほど緩慢で長い時間のかかる仕事が必要であり、また成功する保証もない」
「(抑圧された者たちのために語るよりは)彼女たちから学ぶということを学習するという辛抱強い仕事をしてほしい」
「私たち自身の損失として私たちの特権を学びつつ解体する(アンラーン)」

最後の言葉に目から鱗が落ちた。


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2007年09月04日 17時19分46秒 | 人づくり・場づくり
『在日外国人の住民自治 川崎と京都から考える』という本を読んだ。これは春に川崎のふれあい館を訪れた時に?重度さんからもらったんじゃなくて...買った本。

前半部分の在日コリアンがたどってきた歩みの部分も読みごたえがあるけど、後半の座談会の部分で在日コリアンの現状、さらにニューカマーとのつながり、町づくりの中で多文化共生を戦略的にどのように位置づけるかといったことや、複数の視点が絡み合った議論がおもしろかった。

地域から活動や町づくりを積み上げていった結果としての多文化共生。大きな流れ(現在も歴史も)、全体的な状況を見失わずに活動って進めないとだめだよなということを再認識した。
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おすすめ。

2007年09月04日 00時54分55秒 | 人づくり・場づくり
ベル・フックス著『とびこえよ、その囲いを 自由の実践としてのフェミニズム教育』という本を読みはじめたんやけど、めっちゃおもしろい。これまで一日本語教師というか、教師や地域日本語活動に関わる実践者として大沢敏郎『生き直すことば』とか楠原彰『セカイを返せ 若者たちのために』、岡真理『彼女の『正しい』名前とは何か』といった本にものすごく影響を受けたけど。今回の本も教育で何が大事なのかということを根本から考えさせられる。

それにこの本で書かれているようなスタンスこそが日本語教育や外国にルーツを持つ子どもに対する教育、多文化共生に関する議論で必要なんじゃないかなってことを思った。まだ、ほんと触りの部分しか読んでないけど。久々に本を読んでわくわくしてます。
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在日朝鮮人教育

2007年09月03日 19時25分59秒 | もろもろのこと
最近、在日朝鮮人関係の本をいくつか読んでて。やっぱ多文化共生(という言葉はうさんくさいと思ってるんだけど)ということについて語るのには欠かせないと。読めば読むほど、やっぱ抜かしちゃあかんよなって思う。

今、ニューカマーの問題がいろいろ取りざたされているけど、昔から何もかわっていないことも多いし、同じ問題の繰り返しなんちゃうかってことも多い。静岡辺りではブラジル人学校が朝鮮人教育の歴史から学べるものを学ぼうとしているし、いろんなところでつながりを見いだそうとしているけど。どう位置づけるのかって考えないとあかんよなぁ。やっぱり歴史的に違うものも多いし、人の動きの背景で違う部分もたくさんあるわけで。

シンポジウムなんかで、たまに多文化共生の一つのセクションとして在日朝鮮人教育や在日朝鮮人のことが取り上げられることもあるけど、それってそれでええのかなってふと思った。どこにどう位置づけて、そこから何を学ぶのかって大事よなぁ。
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