ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

選挙。

2007年07月30日 21時54分45秒 | いろいろ
選挙で自民が大敗。民主が躍進。本当に民主が支持を得た結果というよりは地滑り的ってメディアが報じているように自民以外でって流れが強くでたんやろうな。

それにしても、安倍さんも麻生さんも「自分たちの政策は間違ってない」って断言してるけど。民意はどこへいったんやろって思う。それでいくかどうかを決定するのは「国民」やないんやろか。国民は政府の言うことに従うべき存在なんやろかって思う。

昨日、小田実さんがなくなったなぁ。「殺される立場に立って見る」を徹底して市民運動を展開してきた人がこのタイミングで亡くなるって皮肉やわ。

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スピヴァク来日に刺激を受けて

2007年07月15日 23時23分38秒 | いろいろ
別に会ったわけでもなく、講演を聞いたわけでもなく、小さな新聞記事を読んだだけだけど(笑)。前、2つの続きです。

ダブルバインドという言葉を聞いて、ベイトソンの学習の階梯論を思い出した。

都合のいいところのまとめなので、全容の紹介ではないんだけど。課題解決に際して、ある矛盾する状況に追い込まれた時に正攻法から解決策を考えるのではなく、課題のおかれているコンテクスト自体を変えてしまうことにより、課題を課題じゃなくしてしまうこと。機械的な学習の存在を認めた上で、それとは次元の違う学習の存在を説明したのがポイントだと思うんだけど。実際にはそんなにきれいなものじゃなくって。

「多文化共生」というようなフレーズが学習の結果として新しいコンテクストを提供したのか、つまり本当にダブルバインドを解決したのか、それとも解決を目指したものであったけれども、実際には解決にはなっていないのか、それとも解決を志向した結果ではなく、政治的な意図が絡み、ダブルバインドをソフトに見えなくしてしまっているのか。そういったことを読み解くことができないと、しょうがないと思う。読み解かずに、あるいは読み解いてはいるけど、見えないことにしてしまって時代の寵児になる人もいるけど。本当にダブルバインドを解決しようとすることは、コンテクストが変わることだって考えると、自分のポジショナリティも変化して当然なわけで。

ベイトソンってそもそも何学者なのか分類することが難しいけど、それこそがベイトソンにとっての研究の発展であり、解決に向けた一歩やったんやろうなって思う。

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いまいちだけど。

2007年07月15日 23時00分36秒 | いろいろ
コンテクストへの想像力。

7.15の読売新聞の記事に大阪の児童養護施設とハワイ駐屯の米軍部隊との交流が紹介してあった。家庭に恵まれない子どもたちと勇猛な兵士。戦後間もなく、米兵が慰問に訪れて、バラック小屋で身を縮める孤児らを見て、心が痛み、ずっと継続しているらしい。確かに子どもたちにとっては元気づけになっていることもあるんだろうけど。

ただの美談なんかって疑問が起こる。バラック小屋で身を縮める孤児らを見て「かわいそう」という対象にしかならなかったのはなぜか。

ODAによる援助、募金、ボランティアで時々見られる善意の押し売り。

全部構造としては一緒やと思う。自分がしんどくならないように、批判されないように、自分と相手とのつながりや共通の土台を設けない形でかわいそうな相手とそれを助ける自分という二分法でポジショニングすること。

新聞記事で紹介されていることを全部が全部批判する気持ちは全然ないけど、違った形もあったんちゃうかなって思う。
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スピヴァク来日

2007年07月15日 22時29分35秒 | いろいろ
2007.7.14 朝日新聞の記事から。

「生きること、考えることは矛盾するダブルバインドがある。世間知らずの愚か者、とりわけ政治家は決定したのに、期待通りにはならないことに当惑しがち。現代、資本主義社会で最悪のダブルバインドの言い換えは、経済発展と環境が両立するかのような『持続可能性』だと思います」(G.C.スピヴァク)

...なるほどなぁ~。

ある言葉が流布する中で、それまでの問題がどのように折り込まれて解決されたかのように見えて、矛盾を隠してしまうのか。意図的にであったとしても意図的でなかったとしても、ある言葉(しかも口当たりのいい言葉)を流布させるという政治的な営みの中で何が問題なのか、何が作られようとしているのかということは常に批判的に読み解く作業をしないといけないんだろうな。

そこで真っ先に思い付いた言葉が「多文化共生」。

決して外国人が主語で語られることがなく、常にホスト側の問題として語られる言葉。確かにホスト側が変わることは大事だと思うけど、突き動かされるようにして変化するのと、自分たちの領域を脅かされないように手を打つといった感じで変わるのとは全然意味が違うと思う。

共生に付きまとう戸惑い、コンフリクト、いらだち、しんどさみたいなものが何も出てこない多文化共生。

何かを作ってそれでおしまいの多文化共生。

多文化共生という言葉は、あたかも現在の課題に終止符を打つために使われているような気もする。スピヴァクの言葉を借りれば、きっとホスト社会の維持と外国人への対応とがうまく調和し、両立するかのように使われるけど、それはダブルバインドでしかないんだろうなと思う。
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心に触れた言葉。

2007年07月10日 21時57分18秒 | もろもろのこと
ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの 情熱の政治学』

「もしも女性が自分自身よりも上になる何かに、自分の存在価値を認め正当化してもらう必要を感じているとしたら、彼女はすでに、自分で自分を定義し主体的にふるまう力を手放そうとしている」(p.169)

こういうことって気が付くと忘れてたりする。抜け落ちてたりする。大事にしないと。自分自身の話。

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生きる力

2007年07月03日 14時57分41秒 | いろいろ
さっき、消費社会とかクレーマーとかの話を書いたけど。それと関連させて。

「生きる力」っていつごろから取りざたされるようになったんだろうって。ここ10年くらいのような気がする。ぼくが子どものころはそんなこと誰も言ってなかった気がするし。確かに今の社会では「生きる力」って大事な気がするけど、でも、ふと思ったのは「それって変じゃない?」って。

ここ10年くらいの流れってバブルの破たん、小さな政府への移行などグローバリゼーションと消費社会への移行がどんどん進んだ時代だと思う。結果、格差社会が進んだって考えると、だからこそ「生きる力」というフレーズが出てきたんだろうな。生きにくい社会、油断をすればとことん落ちていく社会なんだろうな。

そんな言葉が出てきてなかった昔が生きやすかったかというと必ずしもそうはならないと思う。ただ単に、日本での人生においてはマスターストーリーが共有されていて、それにのるかそるかってことしかなかったんだと思う。バブルの崩壊や価値観の多様化なんかがきっとそこで関係するとは思うんだけど。

今、教育では「生きる力」をどう身に付けるかという議論があるけど、それも確かに必要なのかもしれないけど、子どもが置かれている状況、子どもだけでなく人々がおかれている状況を少しでも良くするためにどうしたらええんかってことに知恵を絞る必要がないやろか。市場経済化、消費社会が進む中で人と人とのつながりがサービスを提供する側と受ける側という形で二項対立になってきてないやろか。それって次に何かを生み出すんやろか。

今の現状を肯定して「生きる力」をつけさすことを最優先するのか、「生きる力」を否定はしないけど、それだけでなく現状を変えようとしていくのか。おっきな岐路だと思う。










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消費社会の中で。

2007年07月03日 14時37分51秒 | 人づくり・場づくり
つい先日、読売新聞で「クレーマー急増の背景」って記事があったんだけど。

もので満たされた生活とかコミュニケーションの取り方が変わってきたとかってことがモンスターペアレンツなどが生まれる原因としてあげられ、教師など「サービス」の提供側はその苦情に対応する力や知識をつけないって論じているんだけど。その中で「教育現場でも消費者意識」が出てきたという主張があった。行き過ぎた消費社会、市場経済がおそらく対話する場、公共圏を失わせているんだろうということになると思う。学校選択制なんかも今後、こういった現象にいっそう拍車をかけるんだろうな。よりどころとしての地域が失われていく中で確かに解放された人も多いことは確かだと思う。地縁型の社会は本当に息苦しいことも多い。でも、それが提供者ー消費者という点で人と人を結び付ける社会は本当にそれでええのかなと疑問に思う。

提供者ー消費者という関わりの中には提供者はいいサービスを提供することに力を注ぐだろうし、消費者はいいサービスの提供者を一生懸命選ぼうとする。そこにどういった社会や地域を作るかという視点は入り込む余地はないだろうな。ここに一つ、グローバリゼーションの流れを受けた小さな政府によって経済格差を生み出してるってことを考えると、この流れのままでええんやろかって思う。

サービスを良くすること、消費者が賢くなること、それでほんまに生きやすくなるんやろうかって思う。
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ポジションとビジョン。

2007年07月02日 13時55分39秒 | 人づくり・場づくり
年少者の日本語教育、母語保障、進路問題などなど外国人の子どもについての議論はたくさんあってノウハウの不足、人員の不足、制度上の不備、親や地域などの環境の問題などいろいろなことが語られるけど。

子どもが自分のおかれている現状をどのように受け止めているのか、あるいは受け止めようとしているのか、受け止めることを拒否しているのか、現状だけじゃなくて、記憶や将来をどのように見ているのかってことってすごく大事やなと今日、ふと思った。すでに実践していたり、現場に入っている人からしたら、そんなの至極当然のことなのかもしれないけど。とりあえず、ぼくが今まで読んできた文献や講演なんかでは、そんなに大きく取り上げられていないような気がする(勉強不足の可能性も十分あるけど)。

大人も一緒だけど、そこからスタートしないと何も始まらないんちゃうかなって思った。
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構造構成主義

2007年07月01日 17時36分33秒 | リサーチ
現代のエスプリで構造構成主義を特集している号を読んだ。

構造主義と構築主義など折り合いが付かない議論の折り合いを付け、位置づけるための理論なのかなと思ったけど。何となくすっきりとしなかった。

というのも、そういった折り合いの付け方はある程度、研究している人は分かってる話だと思うし、取り立てて大発明として扱わないといけないようなものなのかと。確かにそれぞれの領域において不毛な対立に陥っている議論を救うことはできるかもしれないけど。

何より違和感を感じたのは、不毛に陥っている議論を裁判官のように全てきれいに解決してみせましょうって感じの部分。研究にはただ単に何かを明らかにするという側面だけでなく、そういった研究が何かを明らかにすることが持つ社会的な力を持つし、政治的な位置づけなど社会と切り離すことができない側面を持つ。そういった側面を全く考慮せずに仲裁しましょう、みんなきれいにすみわけしましょうって、そんでええんかって思った。



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