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ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

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2010年12月30日 22時41分48秒 | いろいろ
毎日新聞の高野雅夫さんの記事も今回で終わりみたいです。

高野雅夫さんの本は『武器になる文字とコトバを』から入ったけど,識字については大沢敏郎さんの『生きなおす言葉』が最初で。全然雰囲気は違うけど,根底に流れているものは同じなのかなという気がします。それとまた全然雰囲気は違うけど『識字をとおして人びとはつながる』。

切り口,アプローチは違っても目指すものは同じなんだろうと思う。

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時代を駆ける:高野雅夫/5 夜間中学生の三つの顔
 ◇MASAO TAKANO
 夜間中学を64年に卒業し、日雇いの仕事をしました。同じ年に結婚。翌年長男が生まれました。

 《66年、当時の行政管理庁は文部省に、夜間中学の早期廃止勧告を出した。「学校教育法では認められておらず、義務教育の建前から適当ではない」とあった》

 廃止勧告を聞いて「見学にさえ来ずに、しかもたった1枚の紙切れでか」と憤りましたね。これが、廃止反対の運動を始めたきっかけです。

 母校の(東京都荒川区立)荒川九中夜間学級の生徒にカメラとマイクを向けて、記録映画を作ることにしました。

 夜間中学生は三つの顔を持っている。学校、職場、家庭での顔です。すべての顔を撮らなければ、本当の姿ではない。約5カ月間かけて完成させ、そのフィルムを持って全国行脚に出かけました。北海道、青森、岡山などの定時制高校、教職員組合や労働組合を回り、上映しました。

 《東大紛争など学生運動が盛り上がっていた》

 上映活動のとき、大学生が「大学で何をしてよいかわからない。高野さんがうらやましい」と話しかけてきた。「何言ってるんだ。やっと夜間中学に行けた、俺みたいな戦争孤児を増やせということか」と怒鳴りました。

 《この頃、大阪に公立の夜間中学はなかった》

 大阪には在日韓国・朝鮮人が多く、被差別もあって、十分な教育を受けていない仲間がたくさんいました。夜間中学が必要だと教職員組合や教育委員会と交渉しましたが、「夜間中学を作ってほしいとの声はありません」と突き放されたんです。でも、大阪市内から神戸市の夜間中学へ通う生徒がいて、入学希望者が存在するのは明らかだったんですよ。「東京の人だから関係ないでしょう」とも言われた。

 府議や市議にも働きかけ、さらに大阪駅や天王寺駅前でビラをまきました。そうして69年6月、大阪市立天王寺中学夜間学級の開校にこぎつけました。入学者は89人もいました。

 次男も生まれていましたが、家族のことは妻に任せきり。半年ぶりに東京の自宅へ帰ると「変なおじちゃんが来た!」と大泣きされました。



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時代を駆ける:高野雅夫/6 夜間中学で学ぶ意味
 ◇MASAO TAKANO
 《大阪ではその後、堺、東大阪、守口などに公立夜間中学が設立され、夜間中学普及活動の会もできた》

 夜間中学は、戦争や貧困で学校に行けなかった俺たちを人間にしてくれた父であり母なんです。同じ境遇の仲間が学べる場を増やそうとの思いで全国を飛び回りました。講演や集会に、息子たちも連れて行きました。

 夜間中学の生徒は小学校からの積み上げがないため、授業内容は担当教師の自主判断で作られます。俺が生徒のときは、先生が雑談で憲法の内容や教育を受ける権利などを話してくれたものです。教師の質が問われるわけですね。

 でも、生徒は次第に「いい暮らしをするための勉強ができればいい」と考えるようになり、教師も「知識を詰め込めばいい」という風潮になっていった。経済中心の考えが世間に広まったことが原因だと思います。

 夜間中学で学ぶ意味って何だろう。これまで学べなかったのは、人間の尊厳が奪われてきたと同じことだ。だから、夜間中に来ざるをえなかった理由や歴史を学ぶことを中心にすべきではないのか--。教師たちに何度そう訴えても、なかなか理解されなかった。それで一時は普及活動から離れたこともありました。

 90年は国際識字年でした。識字を考える集会で「世界では数億人が文字を学んでいない」と報告されました。日本では「識字率が100%近い」と言われているが、世界にはまだ仲間が多い、と考え直しました。

 《98年、58歳で韓国・ソウル大の語学研究所に語学留学した》

 廃品回収で拾ったカルタで、俺の名前をひらがなでどう書くかを教えてくれたおじいさんの祖国を知りたくなったんです。はじめは昔と同じように、韓国語カルタで名前を並べてみました。必死で勉強しましたよ。

 韓国は日本に占領され、朝鮮戦争もあったので「夜間中学があるはず」と考え、歩いて探しました。下町の小さなキリスト教教会で、民間団体が学校を開いていました。信者の女性がボランティアで教えていて、国は違っても同じように学ぶ仲間がいると知りました。


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時代を駆ける:高野雅夫/7止 すべての人に学ぶ場を
 ◇MASAO TAKANO
 《93年、夜間中学の普及活動で東京弁護士会人権賞を受賞した。人権擁護に顕著な活動をした人物や団体に贈られる》

 受けるつもりはなかったんです。矛盾していますが、本当は夜間中学が不要な社会がいいと考えているから。俺たちのような学ぶ機会を奪われた人間がいない社会が望ましいでしょう。しかし実際には在日韓国・朝鮮人や中国残留孤児の帰国者、難民など生徒の多国籍化が目立ち、まだ必要な状態です。賞は夜間中学のない社会が実現してから頂きたい、と。

 ところが妻に「人権、人権と言って、家族の人権はどうなるの? もらってきなさい」と叱られまして。ずっと苦労かけましたから。賞金の一部は夜間中学の活動費と、車検代にしました。

 《公立夜間中学は8都府県に35校あり生徒2488人=9月現在。最多11校1321人の大阪府は09年度、交通費補助など就学援助のカットを始めた。財政難が理由だ》

 削減反対の署名活動が起きています。でも「夜間中学の役割は終わった」と話す教育関係者もいるそうです。現在、大阪の夜間中学を訪ねて、生徒と話し合っています。知ること、学ぶことは自立のために大事ですが、それで満足してはダメだ。学んだ言葉を、言いたいことをきちんと主張する「武器」にするにはどうすればよいか考えなければならない、と。「高野の考えは古い」と批判されますが、「じゃあ新しい考えを出してみろ」と思っています。

 全国の夜間中の生徒や卒業生がもっと声を上げなければ、大阪府の削減の流れは変えられない。その意味で夜間中学自体が今、試されている。

 《01年に、世界の非識字率の半減を目的とした「国連識字の10年」が宣言された》

 今もアフリカ諸国やアフガニスタンなどでは、戦争や貧困で満足に勉強できない仲間がたくさんいる。日本の夜間中学は世界で例のない素晴らしい制度です。日本がどんなメッセージを出すかが問われているときに、夜間中学の存在は大きな意義があるはずです。俺も今日で71歳。もう少し頑張ろうと思っています。=高野さんの項おわり

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また識字について

2010年12月23日 18時11分25秒 | いろいろ
先週に引き続き,高野雅夫さんの記事を紹介。

http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20101221ddm012070099000c.html

時代を駆ける:高野雅夫/4 人生を変えた出会い
 《1960年、東京都荒川区立荒川第九中学校夜間学級に入学する。21歳だった。担任は見城慶和(けんじょうよしかず)先生。夜間中学を描いた映画「学校」(93年、山田洋次監督)に登場する教師のモデルだ。クラスの生徒は18人》

 夜に学校に通うため、昼間で終わる仕事をしました。喫茶店の新装開店のチラシ配りとか。


たかの・まさお 教育活動家。09年度立教大大学院特任教授。70歳(写真は64年、夜間中卒業式。絵を持つのが見城先生。高野さん<左から3人目>提供) 学校では英語、数学、国語などの科目があり、1週間ほど寝ないで勉強したことが度々あります。学校に住み込み勤務していた用務員のおじさんの部屋に泊まらせてもらったりして。寝る時間なんてないし、取り返さなくてはと必死でした。欠席したこともありません。

 見城先生は国語の先生でした。大学卒業後間がなくて、俺より2歳だけ年上と若かったのですが「こんな大人がいるのか」と驚きましたね。夜間中の生徒はみんなそれぞれいろんな境遇にあって、その生徒が結構、先生を裏切るんです。借りたお金を返さないとか……。見城先生は独身だった頃は、給料の大半を生徒のために使っていたんじゃないかな。警察の厄介になった生徒を引き取りに行ったり、残業させて夜間中に通わせない雇い主に文句を言いに行ってけんかしたりね。

 《見城先生は昼間、家庭訪問をしていた。これに付いて行った》

 たまたま仕事が休みになったときでした。これで人生が変わったんですよ。入学した頃は、俺みたいな不幸を背負った人間はいないと思っていました。でも弟や妹みたいな年齢の生徒が、3畳の狭い部屋で7人で寝起きしたりしてるんです。昼間は建設業者で安い給料で使われて。掃除、洗濯など家事を済ませて登校する生徒もいた。

 学校では跳んだりはねたり、みんなキャッキャッとはしゃぐんです。苦しい家庭状況なんて全く感じさせない。学校で過ごすのが、唯一の楽しい時間だったんですね。

 将来は大学、いい会社入って「ざまあみやがれ」と世間を見返したいと思っていました。でも、それでいいのか、と思うようになったんです。亡くなったゴンチやおじいさんの顔が浮かんで。自分が何をすべきか、わからなくなりました。

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 聞き手・江畑佳明/今週は火、水、木、土曜日掲載です

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 ■人物略歴

 ◇たかの・まさお
 教育活動家。09年度立教大大学院特任教授。70歳(写真は64年、夜間中卒業式。絵を持つのが見城先生。高野さん<左から3人目>提供)




そういえば,識字に関する全国調査の報告書(中間報告)が解放・人権研究所のホームページに掲載されていたので,それも紹介。
http://blhrri.org/topics/topics_0294.html

活動は目の前の人を大事にするところから始まるけど,行政は実態を把握するところから始まるという意味では大きいなと思った。
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識字

2010年12月19日 17時48分11秒 | いろいろ
識字の問題について,いわゆるオールドカマーだけでなく,ニューカマーでも識字の問題と社会参加の問題が語られるようになってきたと思う。いわゆる機能的識字の観点から語られることが多いと思うけど,存在証明や自尊感情,社会とのつながりの観点から人が人とどうつながるのか,現代社会において人が生きるということも考えないといけないと思う。

毎日新聞に高野雅夫さんの記事が出ていたので転載。

<その1>
http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20101216ddm012070157000c.html

時代を駆ける:高野雅夫/1 夜間中卒で特任教授

 戦災などさまざまな理由で義務教育を受けられなかった人々が学ぶ夜間中学。「夜間中卒」の教育活動家、高野雅夫さん(70)=東京都墨田区=は、その必要性を45年間訴え続けている。09年度には立教大大学院(豊島区)の特任教授に就任し1年間、体験を若い世代に語った。「今こそ学ぶ意義を訴えたい」と説く。

 立教大大学院から、特任教授をしないか、と誘いがありました。夜間中学での体験や普及活動など、これまでの体験を語ってみないかと。08年7月に(作家で詩人の)次男が俺のことを書いた本を出した後でした。

 《立教大の特任教授は、外部の企業などから多様な経験を積んだ社会人を招くことが多い。担当は文学研究科の比較文明論の講義で、テーマは識字の問題だった》

 初めは断ろうかと思ったんですが、学べる環境が当たり前で大学院まで進んだ若い人と、俺たちのように言葉と文字を奪われて夜間学校で勉強せざるを得なかった人間との間で、何とか接点を持てないものか、と思い直しました。

 《ゼミ形式で週2回、約10人が参加した。最初に「一緒に学ぶ立場だから、『先生』とは呼ばないで」とお願いした》

 でも「ドヤ」(簡易宿泊所)とか「バタ屋」(廃品回収業)とか、そういうものがあった歴史を全く知らない。言葉を解説するだけで授業が終わることもありました。大阪の釜ケ崎や、夜間中学に実地研修で行きましたが、その実態に、かなり驚いていたようです。

 大学って、自動車教習所みたいだなと思いました。必要な講義を終えれば、ポンと単位がもらえる。戦争孤児で文字が読めず、文字と言葉を必死に学んできた俺たちとは、頭の構造が違うのかもしれませんね。

 最後の講義で「皆さんと5年後、10年後にまた会いたい」と話しました。1年間でどれだけ伝わったかわかりません。俺たちは「武器となる文字と言葉」にこだわってきましたが、どう響いたかを確認するには時間が必要だと思っています。

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 聞き手・江畑佳明 写真・梅田麻衣子/「時代を駆ける」は火~土曜日掲載です

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 ■人物略歴

 ◇たかの・まさお
 教育活動家。09年4月~今年3月、立教大大学院特任教授。1939年12月、旧満州(現中国東北部)生まれ。24歳で東京都荒川区立第九中学夜間学級を卒業。93年、東京弁護士会人権賞受賞

毎日新聞 2010年12月16日 東京朝刊



<その2>
http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20101217ddm012070048000c.html


時代を駆ける:高野雅夫/2 「戦争孤児」はパンを奪う
 《旧満州(現中国東北部)で生まれた。軍人だった父は、高野さんが幼い時に死亡した。父との思い出はほとんどない》

 葬儀の時につまみ食いしたまんじゅうのあんこの甘さだけを、かすかに覚えています。終戦になり、母親と一緒に家を捨てて逃げたんですが、いつの間にか生き別れてしまいました。その後どうなったか、生死も全くわかりません。

 昼間はロシアや中国の軍隊に見つかるので、林やコーリャンの茂みに隠れ、夜中に日本人の一行と一緒に進むんです。中に赤ん坊がいて泣き出すと、男たちが「見つかると殺されるから、黙らせろ!」と責め立てる。それでその母親が「どうせ殺されるなら私が」と首を絞めたんです。その時の赤ん坊の叫び声が、今でも耳に残っています。これが戦争なんですよ。

 俺は生きるために、パンを奪って食べました。そういう意味で、俺も戦争の加害者。だから自分を「戦災孤児」ではなく「戦争孤児」だと考えています。なんとか港までたどり着き、船に乗ることができました。到着したのは博多でした。まだ5、6歳くらいのことでした。

 《終戦直後の闇市では、家族を失った子どもがたむろしていた》

 殴られないようにいつも頭に鍋をかぶっていました。食べ物を盗んだり、身を守るためにナイフを振り回すこともありましたね。人手不足の農家にもらわれたり、少年院にも入りました。反抗して独房ばかりでしたが。

 そんな中で出会ったのが、ゴンチという少年でした。本名は分かりません。一緒に置き引きなんかして、夜は土管の中で寝ました。野良犬2匹が寄り添うようでした。

 15歳くらいの冬でした。博多駅の近くで突然7、8人の男に囲まれて袋だたきに遭いました。額の切り傷はそのときのものです。隣でゴンチが胸を刺されて倒れ、血を流して息絶えた。俺をかばうようにして。

 「このままでは殺される」と足がガタガタ震え、夢中で電車に飛び乗りました。とにかく遠くへ逃げようと思い、気づいたら東京まで来ていました。行くあてもなく街をさまよいました。

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 聞き手・江畑佳明 写真・梅田麻衣子/「時代を駆ける」は火~土曜日掲載です

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 ■人物略歴

 ◇たかの・まさお
 夜間中学卒の教育活動家。98年9月~99年2月、韓国・ソウル大語学研究所に語学留学。09年度、立教大大学院特任教授。70歳

毎日新聞 2010年12月17日 東京朝刊


<その3>
http://mainichi.jp/select/opinion/kakeru/news/20101218ddm012070133000c.html

時代を駆ける:高野雅夫/3 漢字の名前と戸籍得る
 ◇MASAO TAKANO
 《博多から逃げ、東京での暮らしが始まった》

 流れ着いたのが、山谷地区の公園。食べ物もなく、空腹で死にかけていたところを、ひとりのおじいさんが拾ってくれました。60歳か70歳くらい。なんとか息を吹き返したので、「おじいさん、名前教えてよ」と聞くと、「そんなもの、ねえ」って答えるんです。何度聞いても同じ。

 おじいさんはバタ屋(廃品回収業)で、一緒にくずを集めて歩き回るようになりました。おじいさんは朝鮮人だったようです。

 「たかのまさお」が自分の名前だとは、音では分かっていましたが、文字は分かりません。だからおじいさんに「たかのまさおって、どう書くの?」と尋ねたんです。するとくずの中からいろはかるたを集めて「た」「か」「の」「ま」「さ」「お」と並べてくれました。体の震えが止まらなかったのは、生まれて初めてでした。「俺が、たかのまさおなんだ!」という跳び上がりたくなる実感。漢字もおじいさんがあててくれました。

 ある冬の朝、おじいさんが冷たくなって死んでいたんです。その後に小型トラックにポン、と載せられてまるで粗大ごみみたいに扱われた。「何てことしやがるんだ」と食ってかかったら、羽交い締めにされました。今でも悔しい思いです。

 《夜間中学の存在を教えてくれたのも、おじいさん。言葉と文字を取り返す闘いが始まった》

 おじいさんが集めたくずの中に夜間中学のことを書いた本がありました。街中の看板の漢字が読めず、独学では限界を感じていました。

 いざ校門をくぐって手続きしようと思っても、なんだか警察や役所と同じに思えて、なかなか決心がつかない。学校の周りを何度もぐるぐるしてました。

 入学手続きには、戸籍が必要でした。もちろん戸籍なんてありません。とりあえず仮入学し、法務省や外務省などをたらい回しにされて約1年かかって取得しました。誕生日も12月生まれとしか分かっていなかったのですが、役所の人が「世界中がお祝いしてくれるから」とクリスマスの25日になりました。

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若者が語る多文化共生シンポ

2010年12月19日 13時40分30秒 | いろいろ
<http://mainichi.jp/area/osaka/news/20101216ddlk27040432000c.html>
2010.12.19アクセス

.若者が語る多文化共生シンポ:焦春柳さん、涙交え体験語る /大阪

 ◇中国東北部出身、大阪育ちの焦春柳さん
 ◇いじめから逃れようと日本名名乗り、両親は強制送還
 ◇いつか家族全員で暮らしたい

 中国東北部出身で府内で育った焦春柳(ジャオツゥンリョウ)さん(22)=奈良市在住=が先月、大阪市中央区でのシンポジウム「若者が語る多文化共生」にパネリストとして参加した。いじめから逃れようと日本名を名乗って通学したことや在留資格を失って家族が強制送還された体験を語った。

 財団法人アジア・太平洋人権情報センターなどが主催。パネリストは、焦さんやベトナム難民2世女性など外国にルーツを持つ4人で、いずれも大学生か大学院生。

 焦さんは9歳だった97年、母親が「中国残留孤児の四女」として、両親と妹の4人で正規に入国し、大阪府内の小学校に通学した。焦さんは「初めは日本語もできず、いじめられました。引っ越しで転校したのを機に『北浦加奈』と名乗りました」と振り返った。

 両親も仕事に就き、一家は日本の生活になじみ始めたが、02年になって入国管理局から「残留孤児と血縁がないことが判明した」と一家の在留許可を取り消された。翌年、父が強制収容された。

 焦さんと母、妹は仮放免されたが、母は結核を患った。「母が夜、こっそりと血を吐いている姿を見て、私がなんとかしなければと思い、中学校を休んで塗装工場で働き始めました」。焦さんの目に涙が浮かんだ。

 定時制高校に進み、写真部に入部。家族や友達を写した作品で各種コンクールで入賞するほどに。一方、両親らは強制送還され、妹と2人での生活が始まった。このころから、メディアの取材を受けるようになった。

 「取材されるのも、『不法入国』という言葉とともに報道されるのもつらかった。一方で見ず知らずの人から励まされ勇気づけられました」と焦さん。09年10月、法務省の異例の判断で妹とともに在留特別許可を得た。

 「私にとって『恥』と思えることもこうして語るのは、まだ私と同じ境遇の子どもたちがいるからです。子どもたちは悪くない。子どもの声を聞いて」と締めくくった。【村元展也】
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