ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

ネットワーク。

2008年09月24日 20時52分15秒 | 人づくり・場づくり
今日は朝からipodのイヤホンがぱっかと割れて。何となく嫌な感じだなぁと思ってたら。

午後からの会議はひどいもんでした。地域の識字、日本語のネットワークの会議だったんだけど、目指すところが共有されておらず、何となくばらばらなままで。ネットワークって何か具体的に解決したい課題があればうまく機能するけど、それがない場合は情報交換だけで終わってしまう。もちろん、情報交換は大事だと思うけど。現状に満足しているか、現状をなんとか少しでも変えたいと思うかでネットワークに対する期待も変わってくるもんなぁ。

と、まぁ、温度差が非常に激しい会議でした。外国人が集まらない、とりあえず教科書で対応、地域にどれくらいの外国人がいて、どんな課題があって、どんなアプローチが必要かなんて考えない。お金が減ったら、とりあえず教室の回数を減らす...といった状況に対して何の問題も感じていないことが問題なんだろうな、でも、それをどうやって伝えるか、共有するかって本当に難しいと思った。

でも、まぁ、いろいろしゃべっても伝わらないし、動かないってことは、ぼくの伝え方、内容、プレゼンの仕方が悪いところもあるんやろうな...っていうか、かなり自覚(苦笑)。ま、頭使って足使って頑張るしかないわな。で、さっきまで高野雅夫(...昔の「高」が出てこない)の『父の遺言、僕たちの新書』という本を読んでたんやけど、ほんまにごっつい人やなぁ。ちょっと元気出てきました。
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全然、本のクオリティに追い付いていませんが。

2008年09月24日 01時10分08秒 | 
『文化、ことば、教育』(明石書店)という本をぱらぱらっと読んでます。日本語/日本の教育の「標準・基準・規範」とそれをめぐる議論についていろいろ論じてる本で、なかなかおもしろいです。外国人受け入れと日本語って密接に関係するし、在留資格と絡める動きもあるくらいやから。オススメです。

...って、知り合いが書いてて、一冊もらったので、お礼をかねて宣伝です(笑)。いやいや、でも、ほんとにおもろいですよ。

で、せっかくもらったので、読んで思ったこと。これは最初の方だけど。

「多文化教育にはいろいろなアプローチがあるが、Neito(1995)はアメリカにおける保守、リベラル、そしてラディカルアプローチについて論じている。まず、保守的な立場では、多元主義や多文化教育は国民国家を分断する危険なものとして存在意義そのものが否定されるのに対して、リベラルな立場では、差異が肯定的なものとして高く評価される一方、異文化がお祭り的にしか取り上げられない傾向が強く、文化間の差異が表面的に取り扱われてしまう。それに対して、ラディカルな立場である批判多文化教育は、差異を深く掘り下げ、その差異がどのようにして生まれ固定化していくのかを、不平等な権力関係の視点から批判的に検証しながら、差別や抑圧をなくすために行動を起こす実践的立場である(Kubota, 2004参照)。差異を祭り上げるリベラルなアプローチは、文化間や人間間の共通性を強調し人種差別に目をつぶるのに対して、批判的アプローチは、差別や不正に真正面から取り組み、不平等を助長するような平等主義や能力主義に異議を唱える。(p.25)」

そうそう、こういうことを意識している日本語教育の人ってどれだけいるのかなということを感じた。

それから「標準」についてもちょっと考えたこと。この本で「標準(化)」と言われていることは、必ずしも明示的だったり、制度化されたものとは限らないと思うんだけど。日本語教育の業界で「スタンダード」とか「テスト」がはやりになってきていることがやっぱり頭に浮かんだ。日本語教育でそういった動き(標準化)によって何が生まれるのかということは議論されてないように思う。基準や物差しの便利な側面だけが強調されているし、そもそも基準を設定すること(=人を評価する軸を作ること)、結果がどのように扱われうるか、それがどう利用されるのかということについては議論されてないように思う。教える内容や項目、基準をきちんと設定し、整備することが教える人のためにも、学ぶ人のためにもなるって言うんだろうけど、公的にハードルを設定すること以外の何物でもないもんな(また、こういったハードルも "できる人" と "できない人" にとって意味が違いそうだし、格差の再生産なんてこともありえるんだろうな)。

それから、もう一つ自分の中で深めたいと思ったのは「何で、あるいはどういった形で言語(の能力)が焦点化されるのか」「言語が標準化が進むこと(裏)で何が起こるのか」ってこと。言語の評価って数字で出てくると、すごく分かりやすいし、義務教育なんかですでに英語の試験なんかをみんな経験してるから疑問を感じにくい部分なのかもしれないけど。言語への焦点化が進めば進むほど、言語ができなければ何もできない、コミュニケーションも取れないというようなイメージを生み出さないだろうかって思うし、今、治安の問題と外国人が結び付けられやすい現状を考えると、決していいことではないと思う(グローバリゼーションの拡大に伴い、ナショナリズムが台頭しているということと、つながる話なのかな)。エスニシティやジェンダーによって人を選別することはすぐに問題視されそうだけど、言語の能力により人を選別することは、割と通ってしまいそうな気がする。でも、実際のところは言語がどれくらいできるかってのはエスニシティやジェンダー、年齢なんかとも関連するだろうし。言語に焦点化することで、実は違う問題(エスニシティ等)を解決しようと企んでるなんてことも十分考えられると思う。

語学で人を評価することは、もっともらしく、価値中立的な感じで、誰もが努力すれば身に付けられるというようなイメージがあるけど、着々と日本語の試験を整えることが実際には何を引き起こすのかということを考えないといけないし、言語学が科学とされることが言語を取り巻く言説との関係性を考える必要性を感じさせなくなってしまい、社会との接点や言語学に対する批判的な思考や態度を奪ってしまうことを常に意識しないといけないなぁと改めて感じました。

...とにかく、もらった以上、何か書かなきゃという思いで書いたので、あっちゃこっちゃで意味不明かもしれませんが。てっきと~に読み流してください。これから、じっくり読んで、ちゃんと勉強するということで(苦笑)。

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