午前中にとあるシンポジウムへ。
外国人との多文化共生について,主に情報提供の観点からの取組についてのシンポジウム。機械の発展,コンピューターってすごいなぁと思った反面,最終的に何がよりよい情報提供かということは相手の母語や既存知識なんかによっても変わるという話。
確かに情報だけ見ればそういう結論になるのかもしれないけど,実際には情報はネットなどからダイレクトに伝わることもあれば,人を介して伝わることも多いし,その人も仕事によるものから友達から,ご近所までいろいろ。
情報弱者に対して情報保障をするというのであれば,どうやって発信するかということだけでなく,相手のどう伝えるかというアプローチの話がどうしても不可欠になるんちゃうかなということを改めて思った。大体,ネットで役所の情報をチェックする人なんて少ないし。
どうしても違和感拭いきれず,午後は別の集まりへ。
こっちはがらりと変わって,とある外国人相談会の報告会。報告会ってそう言えばなかったなぁと思い参加。また,現状がどうであり,相談会により,何がどうなったのかということの報告。
こっちは飽くまで人への関わり方の話。学力やら情報も含めて,どうやって保障していくかということを考えるときに,ネットや広報誌などは当然,小難しいものではだめなんだろうけど,やらないといけないんだろうけど。情報がどう届くかということを考えると対面,人とのつながりをどう重層的に展開していくか,その中で何を伝えていくかということを考えないといけないんだろうなと思った。
ただ,こういったアナログな方法では十分ではないので,午前のような情報提供の際の言葉をやさしくするということになるんだろうな。
ちなみに子どもの教育に対する保護者の支援が必要だってことは散々言われていて,日本語教育でも言われているけど。これまで何となくピンと来ない内容しか提案されることがなく。質問はないかと当てられたので聞いてみたら,「子どもの教育に対して十分に責任が果たせてないのではないかという不安,どのように関わっていいか分からない不安などがあり,まずはそこを支える支援策が必要だろう。ただ,実際の状況は個々に違うのでケースバイケースにならざるを得ない。その中の一つの方法として日本語ということもあるだろうが,例えば親の文化をリスペクトしてもらえるような場づくりをしたり,料理教室であったりということでも違ってくるだろう」と。納得。
会が終わってから,その先生と少し話をしたんだけど,「日本語教育の人は何でも日本語教育の面で解決しようとする,何でもそっちに話を持って行こうとする。そのバイタリティは見習うべきだと思うけど,現状と合ってないこともしばしば見受けられる。また,話が広がると私の専門は日本語教育だからということでばっさり関わりをきる…」と。そうは思っていたけど,周りの人はそう思ってみていたんだなと,これまた納得。「日本語教育だから,日本語教育にできることをしよう」という発想は仕方がないのかもしれないんだけど,でも,その発想だから周りと噛み合ないんだろうなとつくづく思う。やれることをやろうという前に「課題の全体像をしっかりとつかんだ上で,どこの部分をどう手伝えるのか」ということを考えないと。空回りが多いよな。
…やっぱそうだよな。
それから,会場は若い人でいっぱいでびっくりしました。ボランティアの高齢化がどこでも言われているけど,でも,おもしろい活動には若い人が普通に参加するんだなと。
外国人との多文化共生について,主に情報提供の観点からの取組についてのシンポジウム。機械の発展,コンピューターってすごいなぁと思った反面,最終的に何がよりよい情報提供かということは相手の母語や既存知識なんかによっても変わるという話。
確かに情報だけ見ればそういう結論になるのかもしれないけど,実際には情報はネットなどからダイレクトに伝わることもあれば,人を介して伝わることも多いし,その人も仕事によるものから友達から,ご近所までいろいろ。
情報弱者に対して情報保障をするというのであれば,どうやって発信するかということだけでなく,相手のどう伝えるかというアプローチの話がどうしても不可欠になるんちゃうかなということを改めて思った。大体,ネットで役所の情報をチェックする人なんて少ないし。
どうしても違和感拭いきれず,午後は別の集まりへ。
こっちはがらりと変わって,とある外国人相談会の報告会。報告会ってそう言えばなかったなぁと思い参加。また,現状がどうであり,相談会により,何がどうなったのかということの報告。
こっちは飽くまで人への関わり方の話。学力やら情報も含めて,どうやって保障していくかということを考えるときに,ネットや広報誌などは当然,小難しいものではだめなんだろうけど,やらないといけないんだろうけど。情報がどう届くかということを考えると対面,人とのつながりをどう重層的に展開していくか,その中で何を伝えていくかということを考えないといけないんだろうなと思った。
ただ,こういったアナログな方法では十分ではないので,午前のような情報提供の際の言葉をやさしくするということになるんだろうな。
ちなみに子どもの教育に対する保護者の支援が必要だってことは散々言われていて,日本語教育でも言われているけど。これまで何となくピンと来ない内容しか提案されることがなく。質問はないかと当てられたので聞いてみたら,「子どもの教育に対して十分に責任が果たせてないのではないかという不安,どのように関わっていいか分からない不安などがあり,まずはそこを支える支援策が必要だろう。ただ,実際の状況は個々に違うのでケースバイケースにならざるを得ない。その中の一つの方法として日本語ということもあるだろうが,例えば親の文化をリスペクトしてもらえるような場づくりをしたり,料理教室であったりということでも違ってくるだろう」と。納得。
会が終わってから,その先生と少し話をしたんだけど,「日本語教育の人は何でも日本語教育の面で解決しようとする,何でもそっちに話を持って行こうとする。そのバイタリティは見習うべきだと思うけど,現状と合ってないこともしばしば見受けられる。また,話が広がると私の専門は日本語教育だからということでばっさり関わりをきる…」と。そうは思っていたけど,周りの人はそう思ってみていたんだなと,これまた納得。「日本語教育だから,日本語教育にできることをしよう」という発想は仕方がないのかもしれないんだけど,でも,その発想だから周りと噛み合ないんだろうなとつくづく思う。やれることをやろうという前に「課題の全体像をしっかりとつかんだ上で,どこの部分をどう手伝えるのか」ということを考えないと。空回りが多いよな。
…やっぱそうだよな。
それから,会場は若い人でいっぱいでびっくりしました。ボランティアの高齢化がどこでも言われているけど,でも,おもしろい活動には若い人が普通に参加するんだなと。