ふんでノート ~ちいきづくり・まちづくりと日本語教育

ちいきづくり・まちづくりと日本語教育をつなぐことを,「場づくり・人づくり」から進めていきたいと思ってつらつら書くノート

わかちもつ

2010年05月11日 00時14分28秒 | いろいろ
共生について考える中で、「分かち合い」って言葉をときどき目にする。
何かを踏み台にしたりするんじゃなくって、ええことも悪いことも分かち合い、
ぼちぼちやっていくことを考えることが大事なんかなって思う。

で、分かち合いってつながっていることが大前提。つながってないのに分かち合う、
分ちもつこともできない。

力が分断されてると、本当は力を合わせてやっていくべきところで、押さえ込まれて
しまったり、そもそも声をあげる気にもならないんだと思う。

当事者、当事者と関わっている人、いろんな主義主張もあるけど。

今、切れているつながりをつなぐための傘をどうするか。

そういう仕事をせんとあかんね。
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一段落

2010年05月09日 11時09分45秒 | いろいろ
この一年間、本当に振り回されてきたカリキュラム関係の仕事が、とりあえず明日で一段落。…と言っても、完全に終わるわけではないけど。

地域に暮らす外国人が必要とする言語に注目すること、その内容を突き詰めることで、何が得られるか。

…いろいろあるだろうけど。当面、人や社会に対してどう働きかけるか、サポートするかといったことから眼を背けられるわけで。やっぱり人や社会にどう働きかけるか、何を目指すのかということをやらないといかんのやろうなぁと思う。


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お休み

2010年05月06日 04時26分11秒 | いろいろ
この休みの間にいろいろと考えた。

結論なんて出ないけど,でも,自分が今,仕事でやろうとしていることと,それだけではカバーし切れないことと。どっちかじゃなく,どっちも考える必要があるってこと,自分の中でどう折り合いを付けるのかってことについて考えてたように思う。

現場と対極にある仕事をしている自分と現場で学んできた自分。

ずっとぶつかり続けるんやろうな。

と言うより,ぶつからなくなったら終わり。そうなったらなったで,次へ行かないと。

だんだん,周りが明るくなってきた。
まだまだやれる,まだまだやらなきゃ。

消耗戦に入ってるから,結構きつくなることもあるけど。
まだまだやらなきゃ。

これまでに出会ってきた人らの顔が浮かぶあいだは,まだまだやれる。

今年は,去年と同じことをしとったらあかん。何を生み出すか,せめて何か生み出すための種をまかないと。

きっと自分が何を作るかではなく,何と何が結び付いたら何が生まれるかってことを考えながら,自分が今,何とつながらないといけないのか考えようと思う。何とつながってないのかも考えようと思う。周りにいる人らと何をするのか,何を話すのか。前の世代から何を受けて,次の世代に何をつなぐのか。

作文ごっこはもう十分。おなかいっぱい。
…それでも,やるけどね(苦笑)。


さ,がんばろっと。
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個人やニーズを大事にすることで見落としてしまうもの。

2010年05月03日 01時38分10秒 | いろいろ
ふだんはろくすっぽ本を読む時間もないけど。今日は新幹線の中でゆっくりと読書。

かなり昔の文献ということになるのかもしれないけど。花崎さんの「アイデンティティと共生の哲学」を読んでいて。いろいろはっとするところがあったんだけど。

「階級は階級上の地位によって客観的に基礎づけられた類型としての生活可能性チャンスを共有する人々を言う」という文言と、資本主義経済の広がりが世界に対してどのような影響を与えたのかということを説明しているところがあって。それは言葉を「日本語教育」に置き換えても文が成り立つなと思う部分があった。

置き換えてみると「日本語教育による文化の画一化、商品ー市場関係の高度化、人種的同化、アトム化された抽象的個の平等と自由に(寄与する)」といった感じ。

日本語教育って単に言葉の上達に寄与するという見方ではなく、それが社会参加に関する資本のアンバランスを(かなり好意的に見て)是正する働きがあるということ。チャンスにかかわることなのだということを意識してもいいのかなと思った。ソーシャルキャピタルの問題につながる部分があると思う。

その一方で、強く推し進めることで画一化は進むと思うし、推進するときに「商品ー市場関係が高度化される」ということもあると思う。社会構造や力関係をあまり顧みない場合、ニーズ分析に基づく実践という発想自体、下手をすれば「商品化されやすいニーズ」というものを生み出すかもしれないし、根本的に社会構造を変えることにはならないと思う。また、日本語教育の受益者を層や階級やエスニックグループとしてとらえない限り、構造の転換ではなく、マイノリティの中に勝者と敗者を生みだすだけにしかならないのではないかって思う。

何が言いたいかって言うと、自分でもよく分からないけど…。

日本語教育は負け組の中に、さらに勝ち組と負け組を作るために働くのか、それともセーフティネットを作る方向で動くのかってこと。

話、ぶっ飛んでいますが、政府の中に日本語教育を大きく推進しようとする動きがあるだけに、その流れが何を目指しているのか、意図したこととは別に何を生み出しうるのかということを考えないといけないと思いました。

せっかくの休みなんで、もうちょっと考えてみます。明日は昼と夜とで飲みがダブルヘッダー。どんな休みの過ごし方やって自分でも思うやけど(苦笑)。
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