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非凡とは何か・・・原恵一/カラフル

2010-08-28 15:50:00 | アニメ


■ ハンカチ持参で劇場へ行くべし ■

「クレヨンしんちゃん・大人帝国の逆襲」、「あっぱれ戦国大合戦」の二作品で、日本中のお父さん、お母さんに感動の涙を流させた原恵一。実写映画を含めても、現在の日本で最も優れた監督である彼の最新作が、森絵都原作の「カラフル」です。

原作は昨日、このブログで紹介した様に、良い子の中学生・高校生の読書感想文にぴったりの「読みやすくて、分かりやすくて、感動できる」作品です。

ブログで予告した通り、家内を連れて劇場へ行ってきました。
彼女は前半はコクリ、コクリと居眠りをしていたくせに、気付くと感涙にむせび、ティッシュでハナをかんでいました。良い場面で、グシュグシュと・・・。

とにかくハンカチ持参で劇場にGO!・・・・おしまい。


■ 無駄の排除 ■



原恵一版「カラフル」は、原作を忠実にトレースしながらも、作品に隠されていた全く別の側面に光を当てています。児童小説である原作が、子供達に分かりやすい様に、多少現実離れした人物の性格付けやエピソードを用いてストーリーを展開しています。

原はこの「小説的な無駄」を一切排除しています。母親の浮気の動機も、真が父を嫌悪したエピソードも、兄の弟に対する嫌がらせも、バッサリ切り捨ててて、小林家を全国のどこにでもある普通の一家庭として定義しています。

その上で、それぞれの人間関係を映像によって緻密に浮き彫りにしていきます。

■ スクリーンに「我が家」が現れる ■

室内のシーン、特に食卓のシーンはホームビデオで取った様な、一見すると雑にも思える構図を積み上げていきます。狭い室内で壁を背にして撮影しているかの様な、アップ気味の顔の映像。手前に座る人物の背中越しの映像・・。

するとどうでしょう。スクリーンに映しだされているシーンは、段々と我が家の食卓の様に思えてきます。何処も特別でない、ありぐれた一家の食卓。そこに居るのは、妻であり子供達であり、私自身であるかの様な感覚が沸いて来ます。

今、小林家でおきている事を、わが家、わが身の事態として観客は感じ始めます。

■ 風景の力 ■

一方、屋外のシーンは感動的な映像に溢れています。

等々力渓谷の清流。多摩川の土手。玉電跡の遊歩道。これらの過剰なまでの緻密に書き込まれた風景は、私達にその場所の空気や風を運んできてくれます。

圧巻は、真が天使のプラプラと別れる学校の屋上のシーン。夕暮れの刻々と変化する空の色が時間の変化を刻み、気付くと冬の夕暮れの大気が劇場内に満ちています。

私達はその景色の中で、確かに小林真の気持ちを感じ取る事が出来ます。

■ アニメでしか出来ない事 ■

「河童のクウ」も実写的な構図が多かった原恵一ですが、「カラフル」では、「実写」で簡単に撮れる映像を、あえて手書きにしています。

原自身、かつてインタビューで、「声優の声が気持ち悪く、アニメ的な動きや構図が嫌いだ」と語っています。では何故手間を掛けてアニメを撮るのかと問われて「手書きの絵でしか出ない味がある」と語っています。

この「アニメでしか出ない味」とは何でしょう?
それは、「完全にコントロールされた世界」なのかもしれません。

ラフな背景も、緻密な背景も、そのシーンに必要な絵は、原のイメージのまま作り出せるのがアニメです。それは、時間をも超越して、既に無くなってしまった玉電を、カラーの映像で走らせる事もアニメでは自在です。

この「完全演出」が可能なゆえに、原はアニメに拘るのかもしれません。
原アニメの中では、原は完全無欠な創造主であるのです。

■ 抑制 ■

しかし原はアニメの持つ「完全世界」をあえて抑制し、封印しています。

アングルは決して「実際のカメラ」の取りうるアングルから逸脱しません。
この抑制は「人物」にも及び、人々がアニメキャラ的振る舞いをする事はありません。

この「自己規制による不自由」さを正面からブレークスルーした先に、原恵一だけが到達できる極限の表現世界が存在している様です。

■ 映画自体が小林真 ■

「カラフル」の前半は、音楽も色彩も動きも少なく、抑圧的な空気が支配しています。
家内などは、眠気を催していましたが、この単調で息苦しい世界が小林真の感じている世界なのです。

ですから、早乙女君との交流が始まった瞬間から、世界は一遍します。風景は光に満ち、風が流れ、音が溢れ出します。小林真の世界が動き始めたのを、観客は実感します。



■ アリエッティーの対極にある「非凡」 ■

ジブリの「借り暮らしのアリエッティー」は、アニメでしか作れない美しさに溢れています。しかし、作家の努力の殆どは、ジブリアニメを再現する事に傾けられ、ジブリの世界は現実の世の中から隔絶した理想郷となっています。

一方、原恵一の「カラフル」は、積極的に現実の世界にコミットし、現実の世界を改変しようと試みます。作家としてのスケールが格段に大きいのです。

大人も子供も、「カラフル」を見た後は、見る前と何か違った存在になっています。
親は子供を、子供は親を、そして友人を、もう少ししっかり見つめようという決意を胸に劇場を出る事でしょう。

そして現実の夕焼けを見て、「カラフル」の世界が、自分達の住むこの現実に他ならない事に気付くのです。

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