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経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

<再録シリーズ>中東アスランの政変・・・・エリア88

2011-11-28 03:34:00 | マンガ
 

鍛冶屋さんが好きそうなので、こんな記事を<再録>してみました。

<2011・02・01から再録>




■ アスランで政変勃発 ■

中東の小国「アスラン」で政変が勃発

「アスラン国軍は、隣国ブラシリアとタンドリアに侵攻し、スエズ運河に迫ろうとしたが、国王アブダエル・ヴァシュタールと対立する第一王子サキ・ヴァシュタールが率いる反政府軍が反攻を開始。反政府軍はタンドリアでスエズに侵攻する地上戦力を阻止すると共に、首都に侵攻を開始したと多くの通信社が報じた。アスランの首都では、アブダエル国王に反対する市民が蜂起し、市内各所から黒煙が立ち上っている。王宮でも戦闘が開始された模様で、市民の多くが王宮に不時着するハリアー戦闘機を目撃との情報も伝わっている。

アスランでは先代の国王の死後、兄アブダエルと弟ザクの間で政権を巡る内戦が続いていた。数年前に反政府勢力であったアブダエルが西側諸国の支援を受けて政権を奪還。国王の弟ザクと、国王の第一王子のサキ・ヴァシュタールが反政府軍を率いる形で、肉親同士の対立が激化。伝統的なアスランの継承を望んむアブダエルと、先進国の支援でアスランの発展を目指した弟ザクをそれぞれ支援する国々が、武器と資金を供与する形で内戦は泥沼化していた。

アスランは中東の小国であるが、水にも恵まれ比較的豊かな国であったが、政情が不安定なタンドリアやブラジリアと国境を接し、大国の利害の対立から内戦の収拾の目処は立っていなかった。

未確認であるが、現国王アブダエルと第一王子のサキが戦死したとの情報もあり、今後は亡命中のアブダエルの第二王子リシャールが政権を担うとの観測がある。」

■ エリア88 ■

知っている方は「ハハァーン」とお思いでしょう。
ご存知無い方は、今朝の新聞を読み直している方も?・・・

ゴメンナサイ、これはマンガの話です。

「新谷かおる」が「少年ビックコミック」で1979年から1986年まで連載した「エリア88」は素晴らしい作品でした。

中東の小国アスランの内戦を背景に、空軍基地「エリア88」に集う外人傭兵部隊の活躍を描く群像劇、クールでスタイリッシュでそれでいて人情に溢れていました。

親友、神埼の裏切りで図らずも外人部隊に所属する事になる風間シンは、日本に残してきた恋人涼子に生きて再会する為に、日々の戦闘を生き延び、エリア88のエースパイロットとして敵機に向かってトリガーを引き続けます。

一方シンを裏切った神埼は涼子と大和航空を我が物とする為、謀略を巡らせますが、失敗に終わります。復讐に燃える意神埼は、武器商人と資本家達の集団「プロジェクト4」に接近し、やがてそれを牛耳る立場までのし上ります。

「プロジェクト4」は中東やアフリカで終わる事の無い内戦を発生させ、そして双方に武器を売る事で永遠に設け続けることをビジネスモデルとしています。

「プロジェクト4」は一方で政府に資金援助し、一方で反政府軍に武器と傭兵を供与して内戦を泥沼化させ、さらには、隣国へ侵攻するなど戦闘の大規模化を画策し、地球規模での戦争ビジネスを構築していきます。

神埼はシンと同じ孤児院で育った親友ですが、シンとの間にある出生の秘密を彼だけが知っています。彼はシンを親友としながらも、一方でシンに対する私怨の情が膨らみ続けます。
神埼という一人の男の復讐が、世界を戦乱に陥れていきます。

■ もう一つの主人公 ■

「エリア88」の主題は肉親や友人の愛憎です。しかし、それだけでは韓国ドラマになってしまいます。

「エリア88」のもう一つの主人公は中東の砂漠の空を飛び交う戦闘機達です。

補給を考慮しれば、戦闘機の機種は限定しなければなりませんが、そこはマンガの話。補給を担当する武器商人のマッコイは、世界各地から中古や新品の機体や部品をかき集めてきて、外人部隊のパイロット達に売り付けます。
一人ひとりのパイロットの性格に合わせた、様々な戦闘機が登場し、物語に色を添えます。

シンの機体は、F-8クルセーダー、サーブ・ドラッケン、F-20タイガーシャク、グラマンX-29と追撃される度に乗り替えていきますが、どれもスマートで旋回性能を重視した機体です。

親友のミッキーは米海軍出身だけあって、F-14トムキャットに拘りますが、なんせ燃料は食うし、パーツは高いしで、外人部隊では維持費がかさみます。

アフリカの小国の王子キムの機体は垂直離着陸機のハリアーです。ハリアーはその機動力から様々な作戦で活躍します。

政府軍が採用しているのは、イスラエルのデルタ翼機、クィールです。これはフランスがイスラエルにミラージュの販売を中止した事から、モサドがミラージュの設計図を盗み出し、別の機体のエンジンを積み込んで完成したという機体です。政府軍がイスラエル製の戦闘機を採用している事からも、アスランを支援しているのがアメリカとイスラエルである事が分かります。アスランのモデルはヨルダンあたりでは無いでしょうか?

一方、反政府軍は最初はMIG19などソ連製の古い戦闘機を使用しています。古いとは言え、MIG19は旋回能力に優れた名機です。西側の新鋭機を相手に互角以上の戦いを繰り広げます。

■ 戦闘機が戦闘していた時代の戦争 ■

F15イーグルが出現するまでは、戦闘機はドッグファイトで敵機を追撃する能力が求められました。

しかし、F15に代表される第四世代戦闘機は長距離射程のミサイルを搭載し、視認すら出来ない射程からお互いに空対空ミサイルを打ち合うスタイルに戦闘が変化します。これらの戦闘で問題になるのは、レーダーの探知範囲の広さと、敵機のレーダーに捕捉されない機体形状です。

「エリア88」では、空対空ミサイルの打ち合いも描写されますが、やはり手に汗握るのはドッグファイトです。空戦がマンガとして成立する最後の時代のマンガなのかもしれません。

■ 第五世代戦闘機 ■


F22・ラプター

史上最強と言われたF15も、第五世代戦闘機の時代には性能不足です。

先日中国が発表した「殲20 」は第五世代戦闘機の試作機です。第五世代戦闘機に要求されるのはステルス性能です。長距離レーダーで敵を捕捉し合う現代の戦闘では、レーダーに捕捉されないという事が大事な性能になります。

第五世代戦闘機は機体を平面で構成し、レーダー反射を拡散すると共に、フェライトなど電波吸収剤を塗装してステルス性能を高めています。ミサイルも機内に収納するなど、極力機体の凹凸を無くしている事が特徴です。

アメリカは第五世代戦闘機の切り札としてF-22ラプターを開発しますが、情報漏えいを防ぐ為、友好国にも機体を供与できない事から、生産コストが莫大になり、結局F-22は187機しか生産されない事となりました(予定750機)。

その代替として、F16の後継機として開発していたF-35ライトニングを今後採用していく予定です。F-35は海軍の艦載機として短距離・垂直離着陸機を開発するなど、多用途の展開で機体コストの低減を図っていますが、F22が航空支配戦闘機という位置付けだったのに対して、F-35は従来の戦闘攻撃機です。

アメリカはリーマンショック後の財政難で、第五世代戦闘機の配備での圧倒的優位を失おうとしています。

■ 無人機こそが次世代戦闘機 ■


米海軍が開発中のステルス無人戦闘攻撃機 「X-47 ペガサス」

アメリカはイラク戦争やアフガン戦争で無人機を本格的に投入しています。

無人機にはいくつかの利点があります。

① パイロットの生命維持の為の装置が不要で小型軽量化できる
② 高い加速度(G)が発生してもパイロットが失神しないので
  運動性能を高める事が出来る。
③ パイロットの養成には高額なコストが掛かるが、無人機なら
  パイロットの消耗が無い。

このような利点から米軍は今後、無人機開発に主軸を移していくものと思われます。
血なまぐさい戦闘のコントロールは、地球の裏側のラスベガスの基地で行われる時代の到来です。

ドッグファイトの様に、0.1秒が生死を分ける戦闘とは違い、現代の戦闘は遠くからミサイルを打ち合う戦闘です。遠距離コントロールでも充分に対応可能です。

■ 非対称の戦闘 ■

快適なクーラーの効いたコントロールルームに繋がる無人機の照準の先には、熱砂の砂漠で生きる人々が居る・・・こんな、マンガの様な状況が現実に起こっています。

トリガーを引く兵士達に、命を絶っているという実感はどれだけあるのでしょうか?

テロという「非対称の戦争」に対するアメリカの返礼は、無人兵器という「非対称の戦闘」です。

ベトナムにしても、アフガンにしても、イラクにしても、兵士達の命が失われる事が、国民の厭戦感情に繋がります。

「兵士の死なない戦争」は戦争への障壁を低くし、戦闘を長期化するでしょう。

■ マンガは絵空事では無い ■

「エリア88」は架空の物語です。しかし、作品には「プロジェクト4」が投入する無人兵器が多数登場します。

それはまさに、現代の状況を先読みしていたとも言えます。

大国は自国経済の為に戦争を引き起こし、敵味方双方に武器を売って設ける。
戦闘で死ぬのは他国の兵士と、無垢の市民達。

1980年代に書かれたマンガが30年後の現代をこれほど予見しているとは・・・。
あるいは、世界は当時と何も変わっていないのかも知れません・・・。


■ チェニジア、エジプトそして中東全域へ ■

チェニジアの政変は、エジプトに飛び火しています。

アメリカの傀儡であるムバラク政権の30年の歴史に幕が下りようとしています。
エジプトは今後、イスラム勢力が台頭し、イランやトルコと連携を深めてゆくでしょう。

中東に広がる革命の波は、ヨルダンやサウジアラビアの政権を脅かしています。イエメンにも飛び火するかもしれません。

中東は元々、遊牧民の部族社会です。植民地が独立する際にイギリスが適当に直線の国境を引いて、適当に有力部族の頭首を「国王」に置いただけで、王権の正当性は極めて希薄です。

サウジアラビアなど王族は、石油利権を手中に収め、国民はそのオコボレに預かって生活してきました。

タダ同然の石油と、安定した食料さえあれば、一般市民は満足するものです。

■ 溢れかえるドルがももたらしたもの ■

アラブ諸国はアメリカと対立している様に思われますが、その政権の多くかアメリカの傀儡政権です。

中東諸国は石油決済をドルで行い、自国通貨はドルにペックしています。

リーマンショック後、米ドルはまさに津波の勢いで世界中にばら撒かれています。中東諸国はドルペックを維持する為に、中国と同様に米ドルと同じ規模で通貨を増刷し続けました。

その結果、インフレが発生し、食料価格が高騰しています。
同時にカーギルなどのアメリカの穀物メジャーと金融資本が、先物市場で売買を繰り返して穀物価格の高騰を引き起こしています。

食べ物は生活の基本です。いつの時代にも「食料」が人々を暴動に駆り立てます。

■ 急速に薄れるアメリカの利権とイスラエルの安全 ■

中東の大国エジプトのイスラム化は、中東におけるアメリカの利権とイスラエルの安全を脅かします。

しかし、その一方でロシアやEU諸国はパレスチナの独立を承認するなど、イスラム化を支援するかの様な動きを見せています。

アメリカ自身、食物の高騰を仕掛けてで中東や途上国情勢を不安定にしています。
イスラエルを含めた中東情勢は急速に悪化しています。

■ イスラエルの暴発 ■

ヨーロッパ諸国のパレスチナ承認はイスラエルを刺激しています。
さらにエジプトのムスリム同胞団はパレスチナのハマスを支援しています。

イスラエルは激変する中東情勢にどこまで我慢できるのでしょうか?

イスラエルが暴発する時、中東核戦争の危険が高まり、そして原油は一気に高騰するでしょう。

■ 温暖化問題の意味するもの ■

原油高騰で一気に息を吹き返すのが「温暖化問題」です。
IPCCの捏造疑惑(クライムゲート事件)で一気に勢いを失った「温暖化問題」ですが、その真の目的は、石油危機時の代替エネルギー開発です。

温暖化を理由に立ち上げてきた環境ビジネスが、原油高騰で一気に花開く時が来ました。

日産の電気自動車も「お買い得」に感じる時代が到来するのかも知れません。

・・・・最も、2012年に世界が今のままの姿でいられるかは???

<再録シリーズ>中東革命の行く末・・・超人ロック・[ロンウォールの嵐」「冬の惑星」

2011-11-27 12:51:00 | マンガ

 
昨日、「中東の春」が内戦に発展しつつある事を書きました。

かつては「エリア88」の様に、
「死の商人が戦争の裏で暗躍する」などという
社会派のマンガがありました。

今度実写化される「ワイルドセブン」など、
きちんと社会の裏側の悪を描きながらも、
なんとも言えない、暴力の魅力に溢れた作品でした。

それがオーム事件の頃からか、
マンガの悪は精神を病んだ狂信者や、カルト教団に変化しました。

私はこれなどは巧妙な「陰謀論潰し」ではないかと思っています。
「死の商人」や「陰謀」は普通に存在しているのに、
そしてかつては、その存在を誰もが知っていたのに、
現在ではサブカルチャーから、すっぽりと欠落しています。

ブームと言えばそれまでなのかも知れませんが、
かつては普通に存在していたものが消えている事実に
ある種の恐怖を覚えるのは、私だけでしょうか?

さて、中東の現在の情勢を見るにつけ、
「超人ロック」の初期の作品を思い出さずにはいられません。
「正義」とはいつか変質し、そして「権力」は腐敗します。

今年の2月に書いた記事ですが、
「中東の春」のその後の展開と合わせてみると、面白いかと思います。


<2011・02・22より 再録>





■ 独裁者の戦い ■

カダフィー、アサド、カストロ、フセイン、アフマディネジャド(ついでにチャベス)と聞いて、眉根を寄せるのは常識人の反応です。欧米のマスコミに洗脳された私達には、彼らこそが「独裁者」だと思い込まされています。

カダフィー大佐はかつて国連総会で国連憲章を投げ捨てるパフォーマンスで、現状の世界秩序を批判しました。彼は15分の予定時間を大幅に上回る長い演説を行いヒンシュクを買いました。

ベネゼエラのチャベス大統領はブッシュの後に演壇に上り、「昨日悪魔がここに来た。(十字を切って天を仰ぐ) まだ硫黄の匂いが残っている。昨日、私が悪魔と呼ぶところの合州国大統領は、この演壇からまるで自分が全世界の所有者であるかのような演説をした。我々は精神科医を呼んで、昨日の合州国大統領の声明を診断してもらうべきだ・・・」と演説しました。

世界の鼻つまみ者の様な彼らの演説は、欧米のメディアでは冷笑され、カダフィーの演説の中継は中断されました。しかし、国連総会の会場では途上国の代表達が、カダフィーやチャベスの演説に拍手喝采を送っていたと言います。

私達はアメリカを中心とした偏った世界から、別の世界を見ているに過ぎません。

「中東の民主化」の流れの中で排斥されつつある「独裁者」達は、かつては大国から自国の利権を守る為に戦った英雄達なのです。

しかし残念ながら権力は腐敗します。崇高な志を抱いていたかつての指導者達も、日々先進国に政権を脅かされるうちに、政権維持が目的化して、国民を弾圧していきます。軍の力を背景にした権力の硬直化が、彼らを「独裁者」に変貌させていきました。

■ 「超人ロック」に学ぶ「民主革命」の行方 ■

「民主革命」の本質に迫る最高のテキストがあります。
聖悠紀の「超人ロック」の初期作品、「ロンウォールの嵐」と「冬の惑星」です。
(又マンガで申し訳ありません)

「超人ロック」については以前、このブログでも取り上げました。
http://green.ap.teacup.com/pekepon/77.html
「超人ロック・・・帝国の盛衰」
「成長の限界と破壊による再生」という、歴史の大原則について書いたものです。
(ずいぶん前のブログに、先日コメントを頂き、大変嬉しく思っております。)


超人ロックは超能力による再生能力を持ち、ほぼ永遠に生き続けます。
そんな彼が再生のトラブルで以前の記憶を失います。
普通の青年リヴィングストンとして成長したロックは、ロンウォールの独立運動に巻き込まれていきます。

人口爆発から宇宙移民を推進する地球政府は、殖民惑星のロンウォールに多くの移民を移住させます。しかし、開発が進んでいないロンウォールの食料生産は移民を受け入れる余裕はありません。

反対勢力は次第に勢力を増し、とうとう政権を揺るがす状況になります。地球政府は特殊部隊を派遣して反乱を鎮圧しようと試みますが、記憶を取り戻したロックの活躍によって、特殊部隊は壊滅、さらには地球軍の艦隊もロックによって撹乱され、ロンウォールは独立を果たします。

■ 権力抗争で自壊する革命 ■

しかし、指導者ジュリアスを欠いた革命軍は直ぐに内部分裂します。互いに疑心暗鬼に陥る中、地球政府と取引をしたクラウスが政権を握ります。彼は仲間たちを次々に暗殺、投獄して政権基盤を盤石化していきます。

クラウスはその見返りに、移民を受け入れますが、冷凍冬眠で運ばれて来た移民達は冷凍倉庫の故障で蘇生する事なく死んでいきます。

地球政府は移民を送り出せればそれで良く、ロンウォール政府は移民を受け入れれば良いのです。彼らの冷酷な妥協によって多くの命が失われていきます。

革命成立後、身を潜めていたロックは、事ここに至って再び立ち上がります。かつての仲間を脱獄させ、そしてクラウスに正義を問い詰めます・・・。

■ 独裁と傀儡 ■

マンガの話とは言え、「革命とその行く末」を見事に看破しています。

一時の勢いで革命が成立しても、烏合の衆からなる革命政府には政権担当能力が無く、旧勢力やそれを操る大きな存在に付け入られ、次第にコントロールされてしまいます。

それを防ぐ為に、「独裁制」に移行するケースが多く見られます。
しかし「独裁者」と言えども、政権に固執すればムバラクの様に大国の傀儡と化していきます。

一方、大国と対決姿勢を取るカダフィーやチャベスの様な独裁者も多くいますが、それとて地域の力の均衡の駒(緊張の創造)として利用されてしまいます。

今般の中東情勢を見ても、大国(あるいは影の勢)が、地域のパワーバランスを大きく変えようとする時に、「独裁者」達はいとも簡単に使い捨てられます。

中東の「民主化革命」は便利に利用された独裁者達の大掃除に他なりません。

■ 「超人ロック」は実在しない ■

実際の世界には「超人ロック」はいません。
いえ、「超人」と言われるロックですら、歴史や世界を支配する力に翻弄され続けます。

身近な人とて守れないのです・・・。



長々と書いてきましたが、実は上のコマを載せたかっただけです。
ロックが思いを寄せたエレーヌを失ったシーンです。

このシーンから、「超人ロック」は私には生涯忘れられない作品になりました。


何だかんだ言ったってマンガは絵の上手さだ・・・・沙村広明 「無限の住人」

2011-10-13 05:58:00 | マンガ
 



■ 五臓六腑が飛び散る「文化庁推薦マンガ」 ■

マンガやアニメなどというサブカルチャーは、反体制的で非常識である事が存在価値とも言えます。ですから、文部省推薦などというマンガがあるとするならば、きっとそれはトテツモナク「つまらない」作品に違い無いと勝手に思っています。

ところが文化庁が毎年開催する「メディア芸術祭」だけは「お役所仕事」の常識を覆し、ある意味良識的な大人が眉をひそめる事請け合いの作品に、堂々と賞を与え続けています。

「メディア芸術祭」の第一回のマンガ部門で優秀賞を受賞しているのが、沙村広明の「無限の住人」です。

作者が美大の学生時代に雑誌のマンガ賞に応募した作品がそのまま連載されたという、「無限の住人」は、従来の時代劇劇画の常識を、土足で踏みにじる様な作品でした。

■ 鉛筆で書かれたパンク劇画 ■

「百人切り」の異名を持つ万次(卍)は元旗本の侍。上司から正義の為と言われ、多くの良民を切った過去を持つ彼は、実は「不死身」の体の持ち主です。800年も生きている尼、八百比丘尼(やおびくに)は、生きる意味も、死ぬ正義も失った万次に、「血仙蟲」を植え付けます。「血仙蟲」は傷口に集まり、凝固し、破壊された組織の代用を果たす事で、宿主を不死の体へと変貌させます。

「不死」を持て余す万次は、妹の死をきっかけに、「100人の仲間を切った償いに、1000人の悪党を切る」との誓いを立てます。

そんな万次を一人の少女が訪ねて来ます。彼女、凛は町道場の娘でしたが、14歳の誕生日の晩に、両親を目の前で惨殺されます。襲撃したのは、祖父の代に道場を破門になった男の孫、天津影久(あのつ かげひさ)。彼の祖父は夜盗に襲われた道場の師匠を助ける為に、両手に刀を持って奮闘しますが、それがきっかけで破門されます。「無天一流に、二刀を使う技は無い、あまつさえ唐物の刀を振るううなど言語同断」。師匠に叱責され道場を去った影久の祖父は、その復讐を孫に託したのです。

しかし影久の目的は、私怨の払拭などという小さなものでは無く、太平の江戸時代に武士のタシナミに墜落した「剣の道」を、再び実戦的な戦いに戻す事。多くの道場を平定し、「逸刀流」の元に統一するという大志を抱いていました。

逸刀流の剣士達は、武士に限らず、百姓出身でも良く、ただひたすら「強い剣」を求める者達でした。剣技も決められた型など無く、2刀を振るうも良し。異形の剣を振るうも良し、但し、1対1の戦いだけが、決められたルールです。

影久は「無天一流」を滅ぼす事を皮きりに、剣術の天下統一の狼煙を上げたのです。


・・・とまあ、粗筋らしきものを書くと立派な「チャンバラ劇画」です。
・・・しかし「無限の住人」はそんな旧来の劇画の対極に位置するマンガです。

先ず、剣を振るう万次の正義が無い。人を切り、切られる事に正義など無い事に万次は自覚的です。そして、それでも彼が剣を捨てられないのは、命のやり取りが好きだから。「叩き切る」快感を捨てられないからに他成りません。命のやり取りの緊張感の中にしか万次の居場所は無いのです。(おっと、万次は不死でした・・・)

・・・しかし、これとてマンガをそれらしく見せる為の方便です。
「無限の住人」は、ひとえに作者が、五臓六腑の飛び散る様を書きたかっただけの作品です。

学生時代に書かれた序章「罪人」は劇画で書かれたパンクです。普通の日本刀の切り合いなど無く、同心すらが、大刀と脇差を束の根元でジョイントする様なトリッキーな刀を使います。まして、万次ともなると、着物の下に隠し持つは、倒した敵から奪った変形刀ばかり。

こんなとんでも無いチャンバラが、鉛筆デッサン混じりで展開する初期「無限の住人」に流れるリズムは、ハードコアパンクです。血しぶきが飛び散り、四肢が切断され、五臓六腑を大地にまき散らすその様は、ただただ破壊的です。

■ 知的な遊戯から、文化の発掘者へ ■

作者の加虐嗜好(サディズム)のはけ口の様な初期の作品は、しかしながらチャンバラというジャンルの持つ暴力性を極限まで表現する事で、一種の様式美を獲得しています。花鳥風月を背景に用いるなど、デザイン的なセンスもケレンミたっぷりで、暴力の美学が追求されて行きます。

ところが、巻を重ねる毎に、表現から過剰性が薄れてきます。印刷での再現性に問題のある鉛筆のシーンも少なくなります。暴力の後退と引き換えに、江戸時代の風俗を描く事に作者は執着してゆきます。

敵も味方も、確かな生活感を獲得する事で、「殺戮」は様式から、「苦行」へと変化して行きます。復讐は、「誰かの命を奪う事」であるという、あまりにあり来たりの事実に、凛は困惑してゆきます。

しかしながら、凛は復讐を止めません。復讐こそが、凛と万次を繋ぐ物だからです。

金沢に出かけた影久を追って、凛が「関所破り」するシーンは圧巻です。
地元の農家の娘を装い、通行手形無しで関所を抜けようとする凛を、関所の役人が尋問します。明らかに怪しいと知りながら、完璧なまでに農家の娘を演じる凛との駆け引きを楽しんでいるかの如きやり取りが続き、そして破綻無く演じ切った凛を、役人は、お目こぼしします。

刀など抜か無くても、この緊張感は異常です。言葉に生き死にが掛っているのです。

中期「無限の住人」は江戸時代の人々の常識(本当は作者の妄想なのですが)を読者に付きつける事で、振り下ろされる刀に重みを加える事に成功しました。

■ マンガは絵で決まる ■


(ダブルクリックでyoutubeに飛べます。是非、全画面モードで堪能して下さい。)


しかし「無限の住人」の最大の魅力は、「絵」です。
どなたか存じませんが、シリーズでも眉美のシーンをYouthbeにアップしてくれています。


初期の鉛筆画でも十分な画力を予想させますが、中期以降は劇画のタッチでありながら、現代的なセンス溢れる絵を量産してゆきます。

一般的に「バガボンド」の井上雅彦は、個展が開かれる程「絵」が上手いと思われていますが、私的に沙村広明の方が数段上手いと思います。

井上雅彦の絵は、「上手な絵」。
沙村広明の絵は、「センスのいい絵」。

確かに写実的なデッサン力では井上雅彦は素晴らしいマンガ家です。

しかし、「マンガは連続する絵による芸術」です。小さなコマのちょっとした表現、連なるコマの流れ、それらが見開きの「決め絵」に繋がってゆく流れは、映画監督のカメラワークに相当します。

これら一連の絵の流れにおいて、当代、沙村広明の右に出るマンガ家は存在しません。
ストーリーすらも忘れて、ただただ絵に見入るのが、「無限の住人」の正しい楽しみ方なのかも知れません。



どうです?沙村広明のマンガが白と黒で出来た芸術である事が、分かるかと思います。



■ ただただ、女性キャラ達に萌えてしまうのです ■







「無限の住人」のもうひとつの楽しみは、「美女剣士」。

剣を握る女性キャラクターがゾロゾロ出てくるのですが、これが皆とても魅力的です。私個人としては、登場する度に「酷い目」に遭う「百琳(ひゃくりん)」姉さんがマストでありますが、その他にも上のYoutubeで紹介されている最強の女剣士「槇絵」なども、その薄幸さに萌えてしまいます。

凛と万次というアンバランスコンビの恋の行方も見逃せません。80年代ラブコメの乗りで全くと言って進展しないのですが、それはそれでお約束というか・・。


■ ハードSFギャグ漫画・・・「ハルシオンランチ」 ■



「無限の住人」は丁寧に読むと、吹き出し以外にちょこちょこと「呟き」の様なセリフが書いてあります。これが結構笑えないジョークの様でいながら、ファンにはツボにはまります。派手な殺陣シーンばかり目が行きがちですが、実は「無限の住人」はギャグ漫画だったりもします。

そんな沙村広明のギャグ漫画家としての魅力満載?なのが「ハルシオンランチ」。

太陽系外惑星帯から地球に送り込まれてきたのは、美少女形態の物質転送装置。可愛い顔
して、お箸で摘まんで食べるのは、リヤカーやザリガニや廃家電など何でもあり。彼女の可愛いお口に入ったら、太陽系の彼方に資源として転送されちゃいます。

時には間違って人も食べちゃいますが、そんな時は吐き出せば良いのです。・・・でも一緒に食べた物と混じっちゃうから、それはすれは凄い状態で再構築されてしまいます・・・もうほとんどキメラです。

よく、こんなに下らない事考えるな!!状態のハルシオンランチですが、「作者のあり余る知識を放出する」というリビドーを解消するだけに書かれた作品です。

科学的な知識は勿論のこと、社会学的突っ込みや、経済学てきボケなど、頭でっかちなオタクには、ムフムフ笑えてしまう小ネタが満載です。

外惑星の指導者の名前がジェームス・デュプトリー・ジュニアだったりするのだから、もうSFファンにはタマリマセン。

2巻完結の小じんまりとした作品ですが、宇宙的規模での摂食と嘔吐は壮大です。

沙村広明には、この他に「ブラッドハーレーの馬車」という、サディズム志向全開の、それでいて気品に満ちた問題作や、女子高生のギャグパートが面白い、短編集の「シスター
ジェネレーター」、初期短編集の「お引っ越し」などが発刊されています。

どれを取っても、一筋縄ではゆかない作品ですが、好きな人はムチャクチャ好き。分らない人には全く分からないという作風は、昔も今も変わりません。



長文を最後まで読んで下さった方にサービスです。

沙村広明が描く、涼宮ハルヒです。
・・・どうです?一瞬でアニメキャラクターの記号性を消失させる破壊力はサスガです。



意外なところに金鉱が・・・「ちはやふる」、古典とスポコンの融合

2011-10-10 05:09:00 | マンガ






■ 意外なところに金鉱は隠されている ■

日本のマンガほど、広いジャンルをカバーするカルチャーは類を見ません。
スポコンものから、料理・美食もの。探偵ものや犯罪もの、はたまた社会派医療もの。
夢と魔法に世界から、血塗られた裏社会の闘争まで、
小説や映画以上に様々なジャンルをカバーしています。

もうこれ以上、新しいものは登場しないと思っていると、
突然新しいジャンルが不意打ちのごとく出現するので、
たとえ少年マンガや少女マンガであっても目を離せません。


高橋留美子の「犬夜叉」などは好例かと思います。

「妖怪もの」と言えば、「妖怪人間ベム」や「ドロロン閻魔くん」、
或いは「後ろの百太郎」といった一種特異なジャンルでした。

そこに、「民話」と「タイムトラベル」いうヒネリを加え、
「勝ち抜きバトル」的な少年マンガのツボを抑えながらも、
さらには「因果と怨念の糸が絡み合う愛憎劇」という
韓流ドラマも真っ青な、ディープな人間関係構築してゆきます。
この誰も見た事のない組み合わせを、
抜群のキャラ立ちで、コミカルに演出するという、超絶技巧マンガでいした。
(これを自然に楽しませてしまうのが、高橋留美子の力量。
 「人魚の森」の「民話ホラー」は「犬夜叉」に昇華したと言えます。)

私の狭い知識の中では、マンガに「民話」を最初に持ち込んだのは
手塚治の「はとよ天まで」でないかと思います。
大蛇を母に持つ兄弟が、別々の苦難の道を歩む物語です。

中学生の時に学校の図書室は、何故か初期手塚治全集が蔵書されており、
初期手塚作品のアッケラカンとした作品群の中で、
「はとよ天まで」だけが、特殊な作品とし異彩を放ていました。

■ 発掘された金鉱、「ヒカルの碁」 ■

「犬夜叉」は言わば少年マンガの王道的作品ですが、
「ヒカルのの碁」は、「少年ジャンプ」で連載が継続していた事が不思議な作品です。

活発な少年「進藤ひかる」は、祖父の家の屋根裏で見つけた古い碁盤を見つけ、
その碁盤に取り付いていた平安時代の碁の名人藤原佐為(ふじわらのさい)に憑依されます。

佐為は碁を打ちたいばかりに、ヒカルの体を借りて碁会所で碁を打ちます。
そこで天才囲碁小学生の「塔矢アキラ」を負かしてしまいます。
囲碁など興味の無いヒカルに、塔矢はライバルとして闘いを挑んできます。
しかし、ヒカルは塔矢に熱意に当てられ、自分の力で塔矢に勝ちたいと願う様になります。
そして塔矢の挑戦をはぐらかしながらも、佐為に囲碁の特訓を受けてゆきます。

一方、ヒカルの中の才能(佐為)にいち早く気付いたアキラの父「塔矢名人」は、
「神の一手」を極めんとする囲碁界の重鎮です。
同じく「神の一手」を極めんとする佐為は、塔矢名人との対極を切望しますが、
子供のヒカルの姿では、叶うべきも無く、対局はナカナカ実現しません。

そんな一種じれったい設定なのですが、
ヒカルは中学で囲碁部を立ち上げ、さらにはプロを目指す「院生」へと
確実にその実力を伸ばしてゆきます。
物語は、佐為の指導の下、素人だったヒカルが、
プロ棋士になる過程を克明に描いてゆきます。
それぞれの時代のライバル達、プロを目指してしのぎを削る院生同士の闘いと友情、
そして、ヒカルとアキラの、佐為と塔矢名人の戦いへと、
物語は緻密ながらも、力強く進んで行きます。

「少年ジャンプ」で青年誌さながらのリアルな囲碁マンガが
打ち切りにもならずに連載されたことは、驚愕に値しますが、
さらには小学生の間に一大囲碁ブームを巻き起こし、
子供の影響で親達もが囲碁を習い始めるというオマケまで付きました。

ほとんど発掘され尽くした感のある、マンガというジャンルには、
時として金鉱が隠れています。
それが代金脈であったり、直ぐに掘り尽くされる程度のものであったりするのですが、
何年かに一度、その様な金鉱が掘り当てられます。

「少年ジャンプ」はその後、「ヒカルの碁」の作画担当の小畑健で
さらに大金脈を掘り当てます。
それが「Dethnote デスノート」でした・・・。
こちらは「ダークサスペンス」の金字塔としてマンガ史にその名を刻みました。

■ 「かるた=百人一首」という金鉱 ■

近年少女マンガで発見されたマンガの金鉱には、
「オーケストラ・ギャグ漫画」という「ノダメ・カンタービレ」が思い浮びます。

そして、最近発見されたのが、「かるた=百人一首」です。
(前置きが長かったですね)

「百人一首」は誰でも小学校や中学の授業で習います。
又、柔道場の臭い畳みの上で、「かるた」としての百人一首をプレーした事もあるでしょう。
日本人ならば、その中の何首かは、暗記していると思います。

私が小学生の頃には、我が家では正月は暇潰しに、
家族で百人一首をプレーしていました。
「モモヒキヤー、古き軒端の・・・・」と読まれると、
もう股引が浮んでしまって、オカシクテ、オカシクテ・・・。
そんなホノボノとした記憶が、くすぐったくもある百人一首ですが、
「競技かるた」なるジャンルがある様です。

確かに以前はTVのニュースで、
「今年のかるたの名人は・・・」などという映像が流れていまいた。

この「競技かるた」、着物に袴といういでたちの映像であったりするので、
「けまり」などと同様に、宮中行事の保存の為に開催されているのかと思っていたら、
むしろ囲碁や将棋に近い、ガチのバトルでした。

囲碁や将棋は、比較的長い制限時間の中での戦いであり、
交互に一手ずつ指してゆくので、スピードや反射神経とは無縁です。

ところが、「競技かるた」は実はスポーツの要素が強いのです。

1) それぞれの自陣に25枚ずつの取り札を並べます。(計50枚)
2) 制限時間で自陣と相手の陣地の札の位置を暗記します
3) 読手が上の句を読み、競技者が取り札を取り合います

これだけ書けば、中学の時にプレーした普通の百人一首です。

ところが、競技かるたは、ここからが奥が深い

4) 「1字決まり」や「2字決まり」の札がある

これらは「1字」読まれたら、あるいは「2字」読まれたら
取り札が特定できます。

「一字決まり」・・・「む、す、め、ふ、さ、ほ、せ」

むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに   →  きりたちのぼる あきのゆふぐれ 
すみのえの きしによるなみ よるさへや   →  ゆめのかよひぢ ひとめよくらむ
めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに  →  くもがくれにし よはのつきかな 
ふくからに あきのくさきの しをるれば    →  むべやまかぜを あらしといふらむ
さびしさに やどをたちいでて ながむれば  →  いづこもおなじ あきのゆふぐれ   
ほととぎす なきつるかたを ながむれば   →  ただありあけの つきぞのこれる  
せをはやみ いはにせかるる たきがはの  →  われてもすゑに あはむとぞおもふ  

同様に「二字決まり」「三字決まり」・・・となりますが、それぞれの枚数は次の通りです。

一字決まり 7枚
二字決まり 42枚
三字決まり 37枚
四字決まり 6枚
五字決まり 2枚
六字決まり 6枚

「競技かるた」の選手達は、自陣と相手人陣地の50枚に札をほぼ暗記して、
「1字決まり」が読まれたら、最初の一字を聞いたら、即その札を取りに行きます。
ここで要求されるのは、暗記力と、そして反射神経、さらには瞬発力です。

読み手は百首全て読みますが、場に出ている札は50枚なので、
「2字決まり」以降は、決まり字の最後まで確認しなければ、
「お手つき」をしてしまう事になります。

六時決まりなどは、場に何枚か候補の札がある訳ですから、
選手達は札が確定するまで、「囲い手」と言って、
札を手で覆って相手からブロックしておきますが、
その札が確定して、ブロックしていた手を札に下ろすよりも早く、
ブロックの隙間から、相手が札をさらって行くケースまであります。

この様に、「競技かるた」は瞬発力も要求されるので、
選手達は卓球選手の様に素振りをしたりして、その技とスピードに磨きを掛けます。

■ 「女子高生」+「競技かるた」+「スポコン」+「ラブコメ」=「ちはやふる」 ■

作年から大ブレークしている少女漫画「ちはやふる」は、
「競技かるた」のクィーンを目指す女子高生の話です。

「綾瀬千早(ちはや)」は小学生の時に、転校生の「綿谷 新(あらや)」をイジメから助けます。
新の家で誘われるまま始めた「かるた」で、千早は驚愕します。
福井訛りで口数も少ない新が、「かるた」の前では豹変するのです。
彼の払う札を、宙を舞い、唐紙に突き刺さります。

千早はショックを受けると同時に、新と男友達の真島 太一と共に「かるた」を習い始めます。
3人でチームを組んで、大会に出場するなど、その友情を深め、かるたの腕も上達してゆきます。

ここからネタバレ

ところが新の転校で楽しい時間は終焉を向えます。

ところが千早の「かるた」熱は醒めていませんでした。
都立高校に進学した千早は、「競技かるた部」を作るべく奔走します。
そして、同じ学校に進学していた太一、かるた経験者の西田、
呉服屋の娘で、日本の古典を愛する大江 奏、
がり勉で机にばかり向っているのを強引に勧誘された駒野 勉を加えて、
彼らは「競技かるた」のと大会に出場します。

エースは千早です。
千早は人並み以上の聴覚の持ち主です。
これは「かるた」大いなる武器にないります。

太一の特技は記憶力。
奏は、一首一首への愛情と理解力。
西田は経験と割り切り、
勉は分析力。

5人はそれぞれ5人なりの方法で「かるた」の腕を磨いてゆきます。
そして、5人の前には次々と強豪高が立ちふさがります。

そして、その行く手には高校生でありながら女性の最高位、
クィーンの若宮 詩暢(わかみや しのぶ)が超然と聳えています。

少女マンガ的なには、千早をめぐる新と太一の黄金の三角関係が読者を引き付けます。
「君に届け」に通じる、少女マンガの大道とも言えます。

さらには、さすがにマイナーなかるたに没頭するだけあって
「登場人物が皆どことなく変」なんです。
これなどは「のだめカンタービレ」の流れです。

しかし「ちはやふる」の本質は、「スポコン」です。
次々に現れる強敵・珍敵を、鍛錬と友情で乗り切って行く様は
ほとんど少年ジャンプの乗りです。

原作は多少マンネリ気味ではありますが、
新入生も入って、千早の「無駄美人」にも磨きが掛かっています。
クイーンとの対決がどうなるのか、新と太一の恋の行方はどうなるのか、
新刊が出るのを、家族全員楽しみにしています。

■ これは傑作になるかも知れない、アニメ版「ちはやふる」 ■



好きなマンガがアニメ化するに当たっては、
「見たい」気持と、「見たくない」気持がせめぎあいます。
原作のイメージが壊れたらどうしよう・・・
そう思いながらも、「動いて、話す」登場人物達も見てみたい。


そういった、期待半分、恐れ半分で見たアニメ版「ちはやふる」は、
予想外でした。

・・・予想外に素晴らしい仕上がりでした。

「君に届け」の様なギャグ路線になり易い原作なのですが、
その「ギャグパート」を潔く切り捨てて、
「実写ドラマ」でもいけるのではないかという落ち着いたタッチで、
等身大の千早や新や太一が描かれてゆきます。

1話目が放送されただけですが、
今期のアニメのマストではないでしょうか・・・・。
今後、小学生の彼らがどう友情を深めてゆくのか、
ファンの期待が膨らみます。



最後に、各地の高校に「競技かるた部」が設立された事は言うまでもありません。
ちょっとした「かるたブーム」が発生しています。






マンガやアニメと実写の境界・・・「うさぎドロップ」

2011-08-06 13:29:00 | マンガ
 



■ 「でかした!! 息子よ」 ■

子供は成長する。

「お父さん、オレこのマンガ、オレの子供が出来た時読み直すんだ。」
高3の息子がこんな事を言った。

ビックリだ!!
だって、ついこの間までは子供だったよな・・こいつ。
それこそ、保育園の送り迎えだって、
私には、つい先日の事の様に思えるのに・・・。
子供は成長する。

嬉しいようで、ちょっと寂しい。

高3の息子に、こう言わしめたのは「うさごドロップ」というマンガである。
先日からTVアニメがスタートしたこの作品、
息子は翌日には、マンガを全巻「大人買い」していた。
勿論、自分のバイトで稼いだお金でだ。

でかした、息子よ。
君が立派な大人のオタクに育ってくれて、父はウレシイ!!

■ 

■ 「うさぎドロップ」を見ずして、今期のアニメは始まらない ■

「うさぎドロップ」は同名のマンガ原作の今期のTVアニメです。

祖父の葬式にやってきた大吉は、そこで女の子に出会います。
従兄弟の子と思ったその子は、実は祖父の隠し子だという・・。
突然の事態に当惑する親族、突然出来た妹に戸惑う大吉の母。

アニメは「お葬式」という人間のエゴがむき出しになるイベントを
良作の日本映画の様なタッチで淡々と描いていきます。

身寄りを無くした5歳の少女の、子供ながらの不安を、
そんなリンを放っておけない、30独身男の大吉の視線を、
アニメは様々なシーンの断片で綴ってゆきます。

そして大吉はこう言うのです。
「りん、俺んち来るか」
答えは、ふわりと大吉に寄り添う、小さな靴を履いた足。

30分の一話目で、昨今の日本映画の水準を軽々と越えるこのアニメ、
今期のアニメは「うさぎドロップ」を見ずに何を見るというのだろうか?

■ 子供は親を育てる ■


注意) ここからはネタバレ

リンを施設に預けようとする伯父達の大人の判断に
子供の様な直情さで、リンを連れ帰った大吉ですが、
そこは独身三十路男。
何をどうして良いのやら、皆目見当も付きません。
従姉妹に電話して、保育園の緊急一時保育に入れるには入れたものの
会社と保育園のお迎えで、彼の生活は一変します。

アパレルメーカーの営業として、それなりの実績を持つ彼は
思案の末に、配置替えを上司に嘆願します。
始めは、「勢い」で始まった奇妙な「子育て生活」でしたが、
大吉の中で価値観が大きく変化して行きます。
「リンの為」が大吉の中で一番大切なものになっていきます。

保育園、小学校、高校と「リン」は大吉の元で成長します。
保育園の男友達、その母親、育児パパ達との交流を交えながら、
2人の時間は次第の積み重なってゆきます。

「リン」が高校を卒業するまでの15年間を
マンガは丁寧に9巻を費やして描いてゆきます。

父子家庭としての大変さを、
片親で子供を育てる大人同士の連帯と、臆病な恋を。
リンと幼馴染の恋の行方を、
そして、リンの心の成長を、
ちょっと離れた視線で柔らかに作者と読者は見守ります。

決して派手では無く、むしろオーソドックスな表現ながら、
そこには、仮の親としての意地も、愛情も、
そしてリンを捨てて仕事を取った母親の
身勝手ながらも、女性らしい子供を気遣う視線も
ハッとする様な新鮮さで、詰まっています。

■ かつて経験した事 ■

共働きの家庭の子育ての大変さは・・・などと書くと
専業主婦の方達から反発があるのでしょうが、
子供が熱を出した時に、夫婦のどちらが迎えに行くかのバトルは
今思い起こしても熾烈なものがありました。・・我が家でも。

でも、近所のオバサンや、母親仲間、パパ仲間の協力で、
我が家の子供達も危機を乗り切ってきました。
とにかく、保育園に通う子供が熱を出す事は
親の仕事にダイレクトに影響します。
ですから、冬は恐怖のシーズンでした。
ましてや、インフルエンザの流行は、ゴジラの襲来に近い恐怖でした。

そんな保育園に子供を通わせていた頃の思い出が
このマンガにはギッシリと詰まっています。

■ 子供を見る、東西の視線の違い ■

ダスティン・ホフマンの映画、「クレーマー・クレーマー」は、
奥さんが家出して突然育児を任された父親の話で秀逸でしたが、
ダスティン・ホフマンの父親が子供を見る視点は
「エイリアン」を見る視点でした。
「大人の論理の通用しない怪物の面倒を見る男の悲劇」が
コミカルに描かれていました。

一方、「うさぎドロップ」の大吉の視線は
もっと情緒的です。
子供の一挙手、一投足に一喜一憂する様は、
まさに日本の親の日常です。

子供の思考を分からないながらも、
子供の気持を分かち合おうとする姿勢も
もしかすると、日本人独自のものなのかも知れません。
自分の延長としての子供、子供に繋がれた大人・・・。

「自立した個人」という近代西洋の視点に立てば、
限りなく未成熟な親子関係ですが、
ある意味、切れない紐で結ばれたような関係は、
何とも心地よく、子は親に甘え、親は子に甘えます。
それが、たとえ血の繋がりの無い子供であっても、
日本人はそのような繋がりを結ぶ事が、この作品から伝わってきます。

たとえ育児を放棄した母親であっても、
心のどこかで、子供に依存していたりもします。

■ マンガやアニメでしか伝わらない事 ■

この何ともぬるま湯的な世界は、
小説や実写映画では伝わり難い内容です。

実写映画では、どこにでもある日常を越えられませんし、
小説では、「普通の事」を表現して読者に読ませる事こそが難題です。

ですから、現在のメディアで、「普通」を伝える手段として
マンガやアニメの果たす役割は無視出来ません。

キャラクターとしてイメージを外在化出来るからこそ、
マンガやアニメは「客観視」や「観察」に適しているのでしょう。
自分達の日常は、こんあにも素晴らしい事を、普通に表現出来ます。

最近の子供向けのマンガやアニメは、とにかく日常指向です。
敵も無く、イベントも無く、仲間内の日常がダラダラと展開します。
それこそ最近は恋愛も非日常として排除されていたりします。

エヴァンゲリオンの様に、時空を越える壮大な作品を排出したアニメやマンガは、
現在はエントロピーが拡大しすぎて「熱死」の状態にあるのかも知れません。
そして、先鋭的な現代小説がかつて辿った様に、
例えばコップの中の水を表現する事(確か、高橋源一郎だったか)から
やり直しているのかもしれません。

■ 実写で見たい 「あの日見た花の名前を僕らは知らない」 ■



前期のアニメの代表作に
「あに日見た花の名前を僕らはまだ知らない」という作品があります。

「とある魔術師の超電磁砲」で素晴らしい演出手腕を見せた
長岡龍雪の作品で、中高生を中心にかなりの支持を受けた作品です。

小学校の遊び仲間6人の一人が、ある日、川で溺れて死にます。
残された5人は、それぞれのトラウマを抱えて高校1年生に成長しています。

登校拒否に陥っていたリーダー格の「じんたん」の前に
死んだはずの「めんま」が成長した姿で現れます。
・・しかし「めんま」が見えるには「じんたん」だけ。
ところが、その「めんま」の存在が
離れ離れになっていた5人に心を結び付けて行きます。
5人は、「めんま」が成仏できる様に、
必死で「めんま」の願いを叶えようと奮闘します。

秩父の小さな街を背景に、5人の若者の成長が
アニメらしい瑞々しい表現で描かれてゆきます。

・・とても素晴らしい作品です。
最後は46歳の大人の目に涙が溢れました。

しかし・・私はあえて言いたい。
私はこの作品を実写で見たい。
監督は徒然、岩井俊二。

もちろん「めんま」は最後まで1カットも出なくいい。
居るのか、居ないのか、
「じんたん」の虚言なのか、妄想なのか、分からない・・・。
そんな存在を軸にした、5人の若者の姿を
秩父の自然を背景に、実写映画で見たい。

アニメが不出来なのでなく、
この手のファンタジーはアニメでは見えすぎてしまうのです。
アニメでは「めんま」は、絵として描かざるを得ません。

しかし、「めんま」は最後まで見えない方が、
この素晴らしいコンテンツが引き立ちます。

リアルなアニメが成立するとして、
実写とアニメの何処い線を引くかは、難しい問題です。

これは原恵一の作品にも言える事です。
表現としてアニメを選んだという説得力に、
「あの日見た・・・」は乏しいと思うのは、私のワガママなのでしょうが・・。

■ 「うさぎドロップ」と「あの日見た花の・・・」は必見 ■

いずれにしても、TVで普通に放送される作品が
これ程までに高クォリティーを有している事は驚異的です。

この2作品のアニメと、そして「うさぎドロップス」の原作マンガは、
現在のアニメやマンガの水準を知る上で、
必見の作品では無いでしょうか。