ぺこちゃんが大きな紙袋と、小さな小さなボストンバッグを抱えて我が家にやって来たのは2002年の5月。
ぺこちゃんが45歳になってすぐの事だった。
真新しい受給者証を差し出しながら
「この子はよー喋りますしねぇ、障害ってどこがや?って思うんやけどねぇ。」
と、にこやかに話していた工場長の顔はもう覚えていない。
「知恵はよーついてますわ。かなり気は強いですよ。」と大笑い
「名前を書くのは最近教えたんですわ。書類にサインを書いて貰わなあかんしね。」
ぺこちゃんの障害について、説明を受けたのは、これだけだった。
ほんとにこれだけだった。
お義母さまも、背の君も、義姉さんも、一緒に暮らしていないのだから
みーんな知らなかった
それまでに2、3度会ったことはあったけれど
挨拶以外の言葉は交わした事はなかったのに、
ぺこちゃんは電車に座るなり、私の肩に頭をもたれかけてきたっけ😅
もう重くて重くて肩が痛くて……けれど、邪険に払い退ける事も出来ず
乗り換えの駅までずっとそのまま我慢したなぁ……
なんて、つまらない事を思い返してみる。
それは彼女の不安の表現だったのと共に
幼い子供が母親にべったり甘えるのと同じ様に
甘えられる人が欲しかったんだなって後から思ったけれど
私は、それはしてあげられなかったな………。
ぺこちゃんの大きな紙袋の中にぎっしり入っていたのは大小の縫いぐるみ達。
小さな鞄には1日分の着替えだけが入っていただけだった。
今思うと、彼女の職場には生活する場所と食事は準備されていたけれど
今で言う生活介護、生活そのものをサポートしてくれるシステムはなかったのだと思う。
当時の住まいは足跡が付くくらい埃が積もっていたっけ。
ただし、元々二人部屋だったのを一人で使っていたので、我が家の倍近い広さはあった。
けれど、布団は見た事がないくらい真っ黒で、
5月なのにボロボロの炬燵布団をかけたコタツが部屋の真ん中にあった。
あの部屋を見た途端、一緒に生活する自信が持てなくて
血の気が引いたのを覚えている。
兄ちゃんとこに持っていく荷物も自分で決めたんだろうな。
あれもない!これもない!と半ベソをかくので着るものや身の回りの物を買い揃え、ようやく人心地着いた頃
そう、一月近く経ってから、ようやくぺこちゃんの引越し荷物が届いた。
部屋に入らないくらいの段ボール箱の山。
それも、まともに荷造り出来ている物は皆無
「服ないねん!」と泣いていたのは、目の前にないって事だったんだね
と、その時初めて気付いたんだっけ。
と、随分以前に書いた事と重複すること思うけれど
あの頃と比べると、今は随分身の回りの整理整頓が出来る様になったんだなぁ……と、感慨も一入。
ほんとに色々ありました。
もー、ほんとに色々ありましたとも!!
そんなこんなを、最近どどどっと思い出すので書いてしまおうっ
それもこれも、今、お互いに笑顔で時々会うだけって状況が出来たからこそ。
へへへ……シーズン3の名残の投稿でシーズン4にちゃんとおさらばいまします