ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

ふるさと

2009年12月10日 | 日記

 過日、所用があって帰郷した。

  通学していた頃は丹波柏原(たんばかいばら)と呼んだ駅も柏原に変っていて、駅頭には、町のはずれの総合病院と少し離れた所の新興宗教団体の大きな墓苑、多分そこへ行く客待ちのタクシーが数台並ぶだけ。

 Photo_3平日なのに町は静まり返り人影もなく、幼い子を遊ばす母子二人が見えるだけで車もほとんど通らない。

 ただ、入船山の八幡さんへの参詣道、欅の太い根が小さな川にかかる「木の根橋」(写真上)やその袂の今は市の支所となった木造の「旧町役場」は、少しも変らずそこに在った。

 かつて駅から母校への通学路だった八幡さんの横の路地のような通りは、途中から枝分かれ、新しい道が路面より高いところにある校庭の裾を巻くように造られていた。

 柏原高等女学校跡の「柏陵会館」(写真下)、工事中の「織田藩邸跡」もそのままだったが、周りの官公署だけは素晴らしい建物に変っていた。

 織田藩は徳川幕府の外様だったので、維新後、柏原より大きな三田や篠山を差し置いて官公署が集った。
 
明治政府の意趣返しは全国至るところにあるらしく、こんな小藩もその恩恵?に与った。

 以Photo_5前からこんなにあったの?と思うほど町のあちこちに、元禄の四俳女のひとり田(でん)捨女が六歳の時に詠んだ、

  雪の朝二の字二の字の下駄のあと

 の句碑などがあった。 

 先月の中旬、ニュースキャスターから政治の世界に転進した、社民党前参院議員の田英夫さんが鬼籍に入られた。
 彼の祖父で元男爵の田健治郎が、捨女さんと同じ柏原藩(織田藩)領の下小倉村、今の兵庫県丹波市柏原町下小倉の出と聞いた。

 用事は小一時間ほどで片付いたのだが、さりとてここで他にすることもなく、各駅停車に乗ってそそくさと大阪に帰った。

 ふるさとに入りて先ず心傷(いた)むかな道広くなり橋もあたらし(啄木/一握の砂)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 花水木 ‐ 散歩道 | トップ | カポデモンティ美術館 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事