母の日になると思い出すことがある。
8年ほども前のこと、当時、ミサ(礼拝)の先唱(進行役)を奉仕、第二の主日(日曜)が当番だったので、その日は祭壇の上にいた。
そのミサでのこと。
助任司祭の神父、神学校を卒業、南米で数年間神に仕え帰国したばかりの若きファーザーだが、その彼が説教の時間に、前年と同じように、「今日は母の日です。子供がいるお母さん、手を上げて下さい」と問い掛ける。
そして、手を上げた人たちに向かって、「今日はお祝いをして貰って下さいね」と言う。
その彼の言葉、祭壇の端で何時もと同じように、少なからず、“ 違和感 ” を持って聞いていた。
この日は、子供のあるなしに関わらず、この教会堂にいる人すべてが、命を授け育んでくれた母に感謝する日なのにと。
カトリックでは、ミサで語る司祭の声は主の言葉と教える。
安易な批判をしてはいけないのだが、母の日が来る度に、司祭が問い掛けたこの言葉をほろ苦く思い出す。
斯く思うペトロ
、カタリナ
に、「母の日だから」と食事に誘うと、「あなたの母じゃない」とにべもない。
立てば芍薬、座れば・・・、という成句がある。
諸説あるようだが、曰く、立ち位置から見るのが綺麗といい、曰く、茎がすきっと長いので着物が似合う清楚な女性に喩えたとも。
ブーゲンビレア、ブーゲンビリアとも言い、リスボンの<ポルタス・ド・ノル広場>で、今を盛りに咲く紫の花を見たことがあったが、鉢植えがあることを初めて知った。
とまれカタリナにとって、嬉しくも “ 和と洋 ” の花が心を添える母の日となったようだ、感謝。
Peter & Catherine’s Travel Tour No.323