饅頭を平らげた後、「美味しいお茶が怖い」と落ちをつける落語がある。
さほど、お茶にお菓子はつき物だが、茶道の稽古の楽しみの一つに、季節感溢れた上生菓子とも呼ばれる主菓子や干菓子を目で楽しみ、口で味わうことをあげる方は多い。
食べるのが惜しいような綺麗な生菓子(写真上:ういろう‐青梅)や干菓子には、四季や祭り事、和歌などから名が付けられていて、言葉は言霊だとその度に日本人であることに感謝する。
私が親しむ流儀では、点前によって菓子の数が違うと教えられた。
点前では、上級は5個、中級は3個、初級1個で、上級の上級では7個となる。
七五三の〆の数で出された菓子の内に、必ずひとつは果物の水菓子(古くは単に果物や木の実だった名残り)が入るが、いかな甘い物好きでも5個7個となれば思案。
で、残りは包んでとなるが、包みを開いた様を想像、残念なことに菓子同士が仲良くなって面影が半減、折角のとなってしまう。
皆さんには、昔は栗や山芋、金柑、牛蒡の煮〆、椎茸、せんべい、麩焼き、柿、干瓢、くるみ、柘榴など、今の主菓子とは違うとお話する。
桃山時代くらいから「茶会記」が残されていて、菓子にどのような物が出されていたかが分かり、「利休百会記」には麩焼きが70回近くも使われ、打ち栗や椎茸の記述も多い。椎茸や牛蒡の煮しめや干瓢類ならば、7個出されてもと思う。
本来は、生菓子ではなく料理の最後に出てくる、一寸甘い木の実や煮〆だったのではと思っている。
だから茶事では、献立の一部として初座の最後に頂く。
七五三の数ありきや砂糖が貴重な時代のことはさておき、伝統への拘りから出されているようで、今にそぐわないと感じることもないではない。
砂糖が市中に出回り始めたのは江戸時代後期のこと、阿蘭陀から入る品の3割弱が砂糖だったとか。
これをふんだんに使った菓子、高家や豪商しか口にできなかったこと想像に難くない。
余談だが、彼の新しいもの好きの織田信長にして、宣教師からの贈り物の金平糖を初めて口にしたとき、「砂糖の塊りではないか!」と驚いたという。その金平糖のとんがり、正式には24個なんですって、ご存知でしたか?
??と言えば、下の写真の達磨さんみたいの、茨木の N さんが、「珍しいでしょ!」とお持ち下さった。
何だと思います? ペトロ も、「へ~え?」とびっくり、サラダで美味しく頂いちゃいました。()
Peter & Catherine’s Travel Tour No.326