ペトロとカタリナの旅を重ねて

あの日、あの時、あの場所で
カタリナと歩いた街、優しい人たちとの折々の出会い・・・
それは、想い出という名の心の糧 

茶道の菓子

2011年05月16日 | 宗幸雑記

 饅頭を平らげた後、「美味しいお茶が怖い」と落ちをつける落語がある。
 さほど、お茶にお菓子はつき物だが、茶道の稽古の楽しみの一つに、季節感溢れた上生菓子とも呼ばれる主菓子や干菓子を目で楽しみ、口で味わうことをあげる方は多い。

 食べるのが惜しいような綺麗な生菓子(写真上:ういろう‐青梅)や干菓子には、四季や祭り事、和歌などから名が付けられていて、言葉は言霊だとその度に日本人であることに感謝する。

Photo_6  私が親しむ流儀では、点前によって菓子の数が違うと教えられた。
 点前では、上級は5個、中級は3個、初級1個で、上級の上級では7個となる。

 七五三の〆の数で出された菓子の内に、必ずひとつは果物の水菓子(古くは単に果物や木の実だった名残り)が入るが、いかな甘い物好きでも5個7個となれば思案。
 で、残りは包んでとなるが、包みを開いた様を想像、残念なことに菓子同士が仲良くなって面影が半減、折角のとなってしまう。

 皆さんには、昔は栗や山芋、金柑、牛蒡の煮〆、椎茸、せんべい、麩焼き、柿、干瓢、くるみ、柘榴など、今の主菓子とは違うとお話する。
 桃山時代くらいから「茶会記」が残されていて、菓子にどのような物が出されていたかが分かり、「利休百会記」には麩焼きが70回近くも使われ、打ち栗や椎茸の記述も多い。椎茸や牛蒡の煮しめや干瓢類ならば、7個出されてもと思う。

Photo_5  本来は、生菓子ではなく料理の最後に出てくる、一寸甘い木の実や煮〆だったのではと思っている。
 だから茶事では、献立の一部として初座の最後に頂く。
 七五三の数ありきや砂糖が貴重な時代のことはさておき、伝統への拘りから出されているようで、今にそぐわないと感じることもないではない。

 砂糖が市中に出回り始めたのは江戸時代後期のこと、阿蘭陀から入る品の3割弱が砂糖だったとか。
 これをふんだんに使った菓子、高家や豪商しか口にできなかったこと想像に難くない。

 余談だが、彼の新しいもの好きの織田信長にして、宣教師からの贈り物の金平糖を初めて口にしたとき、「砂糖の塊りではないか!と驚いたという。その金平糖のとんがり、正式には24個なんですって、ご存知でしたか?

 ??と言えば、下の写真の達磨さんみたいの、茨木の N さんが、「珍しいでしょ!とお持ち下さった。
 何だと思います? ペトロ も、「へ~えとびっくり、サラダで美味しく頂いちゃいました。(
 Peter & Catherine’s Travel Tour No.326

コメント
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