昨日取り上げた 「読書について」 の中で、ショーペンハウアーはドイツ語の文体を論じ、言葉の乱れを厳しく指摘している。いつの時代も同じだな、というのが率直な印象。その語り口を聞いていると彼が蘇ってくるようだ。辛辣なことをずけずけという親爺が。その中に、フランス語について触れているところが出てくる。以下にその抜粋を。
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「さらにまた "Diese Menschen haben keine Urteilskraft" (この人々は判断力をそなえていない) と言わずに "Diese Menschen, sie haben keine Urteilskraft" (この人々はすなわち彼らは判断力をそなえていない) というような言い回しをしたり、一般に、フランス語、つまり膠(にかわ)でつないだような卑しい言語の貧しい文法をはるかに高貴な言語であるドイツ語の中に取り入れたりすることも、退廃的なフランス趣味である。」
(最初に出てくる文体、確かにフランス語に特徴的ではないかということには気づいていた。まず問題を投げ掛ける、そしてその後に説明を始めるというやり方。これが以外に便利な言い回しなので、しばしばお世話になっている。)
「たとえばヴォーヴナルグが "ni le dégout est une marque de santé, ni l'appétit est une maladie." (食欲不振も健康のしるしにあらず、食欲旺盛も病気にあらず) と記しているのを見るとただちに ni…est ではなく ni…n'est でなければならないと注意する。我が国ではだれもが勝手な意志で書いているではないか。ヴォーヴナルグが la difficulté est à les connaître (むずかしいのはそれを知ること) と記していると校閲者は注意する。『à les connaître ではなくて、de les connaître でなければならないと思う。』」
「・・・野放し教育の中で育った無知な子どもが、国語の改悪的改善を試みて、『当世風』を誇っている。・・・句読法もすでに彼らの毒牙にかかり、今ではほとんどの人が故意に、かってにいいかげんな扱い方をしている。・・・おそらくその愚かな頭の中でフランス語の愛すべき légèreté (軽快さ) でも考えているのだろう。」
「句読法をいい加減にしておくと言っても、フランス語の場合は語の配列が非常に論理的で、文が短くまとまっているためであり、英語の場合は文法がはなはだなしく貧困で、複雑な文章を作ることができないためであることは明らかである。」
「フランス語の散文ほどすらすらと気持ちよく読める散文はないが、それというのもフランス語はおよそこういう誤りを犯せないようにできているからである。フランス人はできるだけ論理的な秩序、要するに自然の秩序を守って、考えていることを一つずつ並べて行く。つまり読者が考えやすいように、その考えを次第に提示していく。・・・ところがドイツはそれとは逆に、いくつかの別の考えを編みこむので、よじれよじれ、もつれにもつれた一つの文章ができあがる。」
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彼の面目躍如といった風情で、痛快である。
しかも、彼らは博識でフランス語が少ししかしゃべれない私に対して、英語で話しかけてきてくれます。私も、さすがに英語はしゃべれます(アメリカンイングリッシュ)。ちょっと、なまりがあるのか、彼らも首をかしげることがあります。それでも私はフランスが大好きです。主に私の仕事は、要人警護に限られますが、彼らと古武術の練習をしていて、負けたことはありません。やはり、フランス人にとって、日本人は強いという固定観念があるようです。
では、ショーペンハウアーの話をしましょう。私は十九歳の時、ショーペンハウアーの主書「意志と表象としての世界」を読み、非常に感銘を受けました。今は、十回ほど読みましたが、それでも飽き足りません。結局、ニーチェの著作全部を読んでも、彼はショーペンハウアーの影響から抜け出せてないのが、分かります。これはイギリスの詩人も述べていることです。所詮、永劫回帰説はショーペンハウアーの述べる個体化の原理です。これは、変にニーチェに傾倒するより、ショーペンハウアーの著書をしっかりと熟読した後に、読めば自ずと分かってきます。最初に、ショーペンハウアーの全書を読んでから、ニーチェの全書を読むことをお勧めします。そうすれば、彼らの思考の決定的な違いが分かります。もちろん、それ相応の読解力は必要になりますが。
最後に、私は、小説をしているので、君塚正太で検査すればでてきますので、興味があれば、ぜひ買ってください。