goo blog サービス終了のお知らせ 

フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

日本の哲学  LA SITUATION DES PHILOSOPHES JAPONAIS

2005-11-02 07:00:02 | 哲学

先日仕入れた 「私の嫌いな10の言葉」 に続いて中島義道の 「哲学の教科書」 について。この本は藤原新也の 「メメント・モリ」 などと一緒に買ったものだが、第一章を見て驚いた。「死を忘れるな! (Memento Mori !)」 となっている。繋がる時は繋がるものである。

第五章「哲学者とはどのような人種か」では、日本には哲学研究者はたくさんいるが哲学者は少ない、という記述がある。「思想」はあるかもしれないが、「哲学」はないと言っている。わかるような気がする。第六章「なぜ西洋哲学を学ぶのか」では、どの分野でもあるであろう西洋と日本の間に横たわるどうしようもない溝について語られている。哲学の世界を支配しているのは西洋哲学。哲学のテーマとして日本独特のものはあるのだろうか、と問い否定的な考えのようだ。哲学の世界でも哲学者の国籍は問題にならない。共通のテーマあるいは普遍的な新たなテーマについて自分の哲学を創っていかなければならない。日本の哲学者は生きていけるのだろうか。

外国の学会でもほとんど発言などできないでいる様子が書かれている。このような状況では日本の哲学、哲学者の評価もおぼつかないのだろう。ただ、日本の哲学の貧弱さは単に言葉の問題ではないと著者は考えている。日本には哲学を育む言葉、議論を尊ぶ精神がないと感じているようだ。

「ヨーロッパ人と付き合った人なら覚えがあるように、彼らはしつこいほど『なぜなぜ』と聞いてきます。ある日ウィーン大学とベルリン大学の先生と鎌倉を散歩し、彼らを気楽なお茶会に招待したのですが、『なぜなぜなぜ』の連発に私は辟易して、さすがの私もドイツ語ですべてを説明するのがくたびれて、『なんでそんなになぜなぜと聞くんですか、もう聞かないでくださいよ!』と雷を落としますと、二人とも変な顔をしていました。」

これを読んで、アラーキーも同じようなことを感じていたのを思い出した。哲学者にしてこの印象である。日本の哲学の生きる道はどこにあるのだろうか、と考えさせられてしまう。「哲学研究者」が跋扈するというのもわかるような気がしてくる。

これは昨日気がついたこと。今通勤時に « Dieu et la science » 「神と科学」 という本を読んでいるのだが、その本を読んだ後に 「哲学の教科書」 を読むと、それまで少し込み入っているな、という印象で読んでいた教科書が非常に易しく感じられた。「神と科学」では「なぜあるのか」という存在の問題を「神」も含めて論じているためだろうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本に飢えている? LA SAISON... | トップ | ジャック・ルイ・ダヴッド展... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

哲学」カテゴリの最新記事