フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

フランス的なものから呼び覚まされることを観察するブログ

J'OBSERVE DONC JE SUIS

横須賀功光 写真展「光と鬼」 PHOTOGRAPHIES DE NORIAKI YOKOSUKA

2005-11-21 07:20:45 | 展覧会

昨日の朝、恵比寿に向かう。特に当てもなかったのだが写真美術館が目に入り、横須賀功光という人の写真展「光と鬼」 « Photon et Ogre »を見る。全く知らない人だったので、興味津々で会場に入った。やや湿気を持ったほの温かさが暗い会場を包んでいる。作品の配置に工夫を凝らしているせいか、最初は迷路に入ったように感じたが、しばらく会場に身を置いているうちに全体像が見えてきた。

私の場合、形として認識できそうなものしか受け付けないようなところがあることに気付く。写真のいろいろなテクニック(詳細はわからないが)を使っているような作品が多数見られたが、余り入ってこなかった。写真家としてはテクニックを競うという人よりは、対象をいかに選び、そこからいかに美を切り出すかというところに集中しているような人の方が好みのようだ。今回の展覧会では人体や仏像を撮ったものが気に入った。

山口小夜子を撮ったシリーズがあった。日本的な現場に白粉をつけた山口がいる。白粉をつけた人を見るとなぜか悲しくなる。理由はわからない。舞妓さん、芝居の役者、白粉を全身につけた舞踏集団、歌舞伎役者などなど。なぜかわからない。未だに歌舞伎を見に行こうと思わないのは、そんな心の動きが無意識に働いているのだろうか。

特に形のはっきりしない写真を見ながら、この人の声や考えを耳にしたこともなければ読んだこともなかったので掴みようがないというもどかしさを感じていた。ピカソの言葉ではないが、芸術において重要なのは何を求めたかではなく、何を見つけたのかであるという。意図ではなく結果だ、ということ。他の分野にも通じるものだろう。確かに、芸術家はその作品でのみ語るべきだという話は知っているつもりだが、作者の意図を知らないよりは知っている方が作品の理解には助けになるのではないか、この人の考えを聞くことにより、ひょっとすると半分以上の作品がもう少し近くなったかもしれないのでは、などと考えていた。

最後に展覧会のタイトル。「光と鬼」の光の部分はわかったつもりだが、鬼の部分がピンと来なかった。作品をつくる時の作者の心のうちにあるものを言ったのだろうか。

コメント (2)
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