フランスに揺られながら DANS LE HAMAC DE FRANCE

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昼の食堂で西田哲学 LA PHILOSOPHIE DE NISHIDA AU DEJEUNER

2005-11-16 22:24:40 | 哲学

昨日のお昼のこと。冬を前にした空気には透明感と少し肌を刺すような緊張感があり、雨にぬれたアスファルトと色とりどりになった木々を眺めながらの散策は気持ちがよく、出る前にヴァレリーの紹介文を持っていったせいか、思索を誘うものがあった。

近くの昔ながらの食堂に入り、朝日新聞を手に取る。新聞を読むのも久しぶり。ネットでは読めないものも見られ、やはり味がある。文化欄に行くと梅原猛の「反時代的密語」なるコラムの最初の文が目に入る。

「西田幾多郎は、もっぱら西洋哲学を翻訳、紹介、研究することを哲学と考えているほとんどの日本の哲学者と違い、西洋哲学とともに東洋の宗教、特に仏教についての知識をもち、西洋思想と東洋思想を総合して思惟を重ね、独自の首尾一貫した哲学体系を創造することが哲学であると考えていた。」

この前半はまさに先日話題にしたことであり、後半は今読んでいる « Dieu et la science » でしばしば取り上げられている「物質主義と精神主義 le matérialisme et le spiritualisme」、「実在論と観念論 le réalisme et l'idéalisme」、「信と知 l'acte de foi et l'acte de savoir」、「神と科学」などの対立とそこからの統合 la synthèse の必要性とも関連があり、興味をもって読む。

西田幾多郎 (1870-1945)

十九世紀の西洋哲学として、自然科学の理性、悟性の限界を明らかにし、それを超えた美的理性の存在を示したカントの流れ(啓蒙主義批判)を汲む理想主義・ロマンティシズム、自然科学の発展に伴い理性を強調する流れ、さらにその一面性を批判して人間の内面的生命を重視するロマンティシズムの芽生えとしてのベルグソンの「純粋持続」があると西田は分析していた。しかし、客観性・理性を潜り抜けてはいない古いロマンティシズムではなく、現実の洗礼を受けた、自然科学の理性に裏打ちされた新しいロマンティシズム、理想主義が求められると西田は考えていたようだ。

梅原は西田の哲学を「日本文化の伝統の上に立つ悲しみのロマンティシズムの哲学」と規定している。東洋の伝統に軸足を置きながら、西洋の自然科学の理性を取り入れ、厳しい現実を超えられるような哲学を求めて行きたいと結んでいた。東洋と西洋、感性と理性、実在論と観念論の対立を経て、それらの統合 la synthèse が求められるということだろう。その意味では科学のやり方をある程度経験していることは、これからの資産になりうる。そこからどのように意味のある思想につなげることができるかという点が問題になるのだが。

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« Dieu et la science » には、中世の真っ只中にありながら「信と知・理性」の統合、すなわちキリスト教思想とアリストテレス哲学を統合して新たな哲学・神学体系を創り上げた先駆者としてトマス・アクイナスが紹介されていた。

Saint Thomas d'Aquin (1225-1274)  以前に彼のエピソードを取り上げていた(29 mai 2005)。

去年の夏頃だったろうか、ネットの文庫から「善の研究」をプリントアウトした記憶がある。少しだけ読んだが、その昔よりはわかりやすくなっているように感じた。この本も”いずれ”になるが、読んでみたい。梅原さんの記事により少しだけ早まりそうな気もする。

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