幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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【徹底研究】唯物論について(5回目)

2007-12-09 | その他

唯物論について5回目です☆

今日は「心の哲学」という観点から見てみましょう☆

  

『心の哲学への誘い(脳は生命の道具にすぎない)』という

 東洋大学非常勤講師の河村次郎先生の本には次のように
 
 書かれています。
 
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「意識はモノではなく、プロセスである」とは、

ウィリアム・ジェームズの名言である。

心の哲学は、心理学とは違い、人間存在の全体性を

視野に収め、その本質の解明を目指すものである。

(中略)

生命体の構成要素はモノであるが、生命の活動的特性は

プロセス的な関係的存在様式をもっている。

これが生命をコトとして理解することを意味する。

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なるほど、ここでもやはりモノというとらえ方も

できるが、本質的には「コト」であると言われていますね。

次のことば、思わずニヤリとしてしまいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

我々は果物屋に行って「物質」を買うのではなく、

リンゴやバナナという個々の果物を買うのである。

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まことごもっとも。

「モノ」として機械的に分析すれば、数値も出て、

そうすれば比較もたやすくなり、なにかすごく分かった気に

なるのですが、それは「分かった気持ち」になるだけで、

本質的なものは何もわかっていないのかもしれません。

そして、遺伝子や脳が私とした場合、他者との関係は

どこに運命づけられるのかとの問いかけがなされています。

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生命の本質の一つに「他の生命との共存」という契機が

ある。

これは、ひとつの生命個体の内部で起こることではなく、

二つ以上の生命個体が相互に交渉して生じる現象である。

そして、この現象の本質は、個体内部の生理学的物質組成

をいくら調べても明らかにならない。

それは個体に対して外在する生命要因である。

(中略)

我々各人の行動は、確かに遺伝子の総体なるゲノムの

影響を受けている。

しかし、現実の世界での行動は、独りでなされるものでは

なく、生涯に渡って、他者との関係にさらされている。

A男がB子を好きで交際を迫ったとしても、第三者のC男が

そこに介入してA男の夢を砕くという例は枚挙に暇がないが、

遺伝子決定論はこのC男の介入という予期せぬ事態を

説明システムに組み込む力が全くない。

(中略)

自由意志を否定する機械論的決定論が同じ轍を踏んでいる

ことは言うまでもない。

野放図に人間の自由意志を称揚することは確かに間違い

だが、自由を元想とみなす決定論はそれ以上に不合理である。

意志の自由が存在しないなら、行為の責任を問う術が

なくなり、法と道徳は崩壊してしまう。

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人とは、当然「生きている」人。

そこには人生があり、そこには出会いがあり、環境があり、

さまざまな「関係」の上で成り立っています。

それを全部無視して、人間の「遺伝子」だけとか「脳」だけ

を研究するのは、揚子江の水をたくさん組みとり、実験室で

緻密な研究をし「揚子江が分かった」と言っているような

ものではないでしょうか?

「遺伝子」「脳」だけの研究には「いのち」が抜けているよう

です。

河村氏はこうも書いています。

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今日の心の哲学の関心は「意識」の本性に集中しているが、

それを考える際にも生命や「いのち」の問題は避けて通れない。

意識を認知主義的に理解すると、コンピューターの情報処理

との類比に流れ、有限な生命と生態学的な心性をもった人間

存在の生物的機能としての「意識」の本質から逸脱してしまう。


(中略)


人間の意識は、自己のそれであれ他者のそれであれ「死」に

面したときに最も鮮烈に浮き立ってくる。

なぜなら、そのとき「いのち」の本質が剥き出しになるから

である。

重病の宣告による死期の自覚や自殺への衝動、恋人や親友の死の

知らせ、さらには愛着をもっていたペットの死。

こういった契機は「なぜ私はこの世にうまれたのだろうか」とか

「生命の本質って何だろうか」という問いを惹起し、意識を

事故の存在に集中させる。

そのとき生命界全体の存在へも意識が動かされることがある。

ここから哲学を始める者もいれば、宗教に向かう者もいるし、

あくまで生命科学的に事の真相を見破ろうとする者もいる。

いずれにしても人間の意識は死の自覚と深く関係しており、

その意味で「いのち」の本性を反映したものとなっている。

(中略)

「心」とは、本来、理論的なものというよりは

実践的なものである。

静態的な記号的情報処理は生命的心のマイナーな

領域にすぎず、実践的領野で現れる心の動きこそ

メジャーな現象である。

心と心の触れ合いとしての言語行為が、

身体性を伴った生命的で社会的な現象であることは、

誰もが認めることであろう。

生きて働く人間の心は「いのち」の本性に根差した

ものなのである。

(中略)

心脳同一説や脳還元主義は、心を頭蓋骨の内部に封じ込めて

しまったのである。

そうした観点は唯物論だから間違いというよりは、心の生態学

的次元を試行に取り入れていないがゆえに低級なのだ。

(中略)

生命は、その担い手たる個々の生命体を超えて大いなる

生命の連鎖を形成する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人は「生命」である。

当然ながらこれを忘れてはならないわけです。

まだ続きます♪



【徹底研究】唯物論

唯物論について(1)

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