幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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【徹底研究】唯物論について(2回目)

2007-12-05 | その他

唯物論についての第2回目です。

第一段階は「そもそも唯物論的考えには問題がありますよ」

ということでした。

では第二段階に移りたいと思います。

まず、残念ながら今の科学の力では唯物論が正しいか間違っているかを

完全に(100%)証明することは無理でしょう

(科学自体が仮説ですからね。

 竹内薫先生の「99.9%は仮説」を読むと

 よく分かると思います)

そこで、唯物論は科学的であり、唯物論を否定することは

科学を否定することだと思いこんでいる人も多いようですから

第二段階としては、そのレベルで論じたいと思います。


まず脳といえば茂木健一郎さんが有名ですね。

その茂木さんの『意識とはなにか』という本の

「はじめに」には、次のように書かれてあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

脳科学の知見は飛躍的に増大している。

その発展ぶりは、まさに脳科学ルネッサンスと

呼んでもいい状況である。

このような近年の脳科学に対する関心の高まり、

そして脳科学のさまざまな「成果」を耳に

している人々は、

脳科学が、実は深刻な方法論上の限界に直面している

と聞いたら、驚くかもしれない。

しかし、脳を理解するという人類の試みは、

実際絶望的と言ってもよいほどの壁にぶつかっているので

あり、その壁が存在すること、それを乗り越えることが

きわめて困難であるという事実を、世界中の心ある研究者は

理解しているのである。

その壁とは、すなわち、

なぜ、脳の中の神経活動によって、私たちの意識が

生み出されるのかが、皆目わからない

ということにある。

(『意識とはなにか』茂木健一郎)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

はい、どうでしょうか?

結局科学的に心は何か分かってはないわけです。

この「脳と心の関係が皆目分からない」という絶望的状態において、

唯物論を振りかざすのはいかがなものでしょう。

つづいて、大脳生理学者で1963年ノーベル医学生理学賞を

受賞した、エックルスのことばを聞いてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

心は「物質とエネルギーの世界」の外にある。

すべてが脳によって行われ、われわれの意識的経験は単に

脳の活動の反映にすぎない、とする普通の哲学的見解は誤り

である。

もし、この見解が正しいとすれば、われわれの意識をもった自己とは、

脳の神経機構が演ずる劇を受動的に眺めている観客にすぎないであろうし、

われわれが真に自分で種々の判断を下すことができると信じるのは、

幻想にすぎないであろう。

(エックルス)


「心が脳をコントロールしている」
 
       (「心は脳を超える」p183エックルス)


「これらの説によれば、脳は純粋に物理化学的な条件、

 すなわち完全に唯物論的に決定される条件にしたがって、

 その複雑な神経機構を働かせるだけである。

 それが意識を生じ、あるいは内側的で意識になるのであって、

 その仮定には意識の介入する余地はまったくなく、

 私たちが、常識的に感じている思考や行動の自由は実際には

 錯覚にすぎない。

 すなわち、私たちには判断の自由はありえない---唯物論を

 選ぶ自由もありえないはずなのだ!」

(p66「心は脳を超える」エックルス)


「見込唯物論は、政党な根拠のない盲信の上に成り立って

 いる。実際には、脳の研究が進めば進むほど、脳の神経活動と

 精神現象のいずれもがその驚異をいっそう増しながら、

 両者はまったく別の存在であることが一層明らかになってきて

 いるのである」

(p69「心は脳を超える」エックルス)
 
 
「脳は生涯にわたって私たちの忠実な道連れをつとめる一種の

 道具であり、コンピューターである。

 このコンピューターは、プログラマーである私たちの心と

 私たちの身体、およびその外界から成る世界との間の、

 両方向の連絡役をつとめる」

(p72「心は脳を超える」エックルス)
 
 
「自由意志と決定論の問題は、千年にわたるキリスト教神学の

 とらえ方では、人間の倫理的自由と紙の無限の知と力と善と

 がいかにして両立するかということにあった。

 神が全知ならば、人間が何をするかをすべて知っているで

 あろう。

 その上また神が限りなく善であるならば、その力を善だけを

 もたらし悪を妨げるように使うであろう。

 ところが人間は悪事を行なう。

 そこでこの議論は、神の予知と慈愛は限られたものであり、

 限られているのなら神ではないという矛盾についきあたるので

 ある。」

(p131「心は脳を超える」エックルス)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
さすが、エックルスの言葉には重みがありますね、
   
次はトルストイです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人生論(トルストイ)
  
生命は細胞か、原形質か、あるいはもっと低いもの、

無機物のうちにあるのか、というようなことが

議論されているわけだが、しかし、議論するよりもさきに、

われわれはじっと手を胸にあてて考えてみる必要がある。

われわれにはほんとうに生命という観念を細胞に

あずけてしまう権利があるのだろうか?

われわれは、たとえば、生命は細胞のうちにあるとか、

細胞は生きているものだとかいう。

ところが、人間の生命の観念と、細胞のうちにある生命

の観念とはぜんぜん違ったもので、この二つはけっして

結びつくことのできない別の対立する観念なのである。


いったいどこに私は生命の特徴をたずねればいいのだろう、

細胞に求めたらいいのか、それとも、わたし自身に

求めたらいいのか?


それとも、わたしというものは生命のある細胞の

よせ集めいすぎず、わたしの意識というものも、

実は、生命でもなんでもないただの幻にすぎないのか、

どちらかだろう。


生命は物理的な力、機械的な力--われわれがただ生命

という観念と反対の意味で物理的、機械的とよんでいる

物理的な力のたわむれから発生したと確信されている

わけである。

こうして本来の観念とは縁もゆかりもないようなまちがった

使い方をされている「生命」というこの言葉は、ますます

もとの意味から離れていって、われわれが普通の意味で

考えると、生命なぞとてもありっこないと思えるようなところに

生命を予想するくらい、肝心かなめの中心から遠ざかって

しまっているのである。

円周のそとに中心のある円なり球なりがあるというのと、

似たようなことが信じられているのだ。



わたしはたくさんの新しい観念や言葉を見るけれど、

それが、どれもこれも、科学用語として条件つきの意味を

もっとはいても、実際におこなわれている観念とはまるきり

一致しないものばかりなのである。


科学の研究においては、人間らしい言葉はますます追いのけ

られていって、現に存在する事物や観念をあらわす手段で

ある言葉のかわりに科学的世界語が君臨しているのだ。

この世界語がほんとうの世界語と違う点は、ほんとうの

世界語が普通の言葉で現に存在する事物なり観念なりを

よぶのに、科学的世界語は実際に存在しない言葉で実際に

存在しない観念をよぶところにあるといえよう。



実験も観察もぬきにして、ただ理知からわりだした結論だけで、

世界の法則を定義するのがまちがった非科学的な方法であること、

つまり、真実の知識を与える方法でないことには、

わたしも同意する。

しかし、実験と観察によって世界の現象を研究しながら、

同時に、その実験や観察にあたって、一般的でもなければ、

根本的でもない条件づきの観念にたよったり、そうした

実験の結果をさまざまな意味にとれるような言葉でしるしたりしたと

すれば、それはかえって悪いことになるのではなかろうか?



天文学や、機械学や、物理学や、化学や、そのほかさまざまな科学は

ことごとく、生命一般についてはなんの研究成果もあげずに、

それぞれ、その受けもつ範囲で、生命の一面だけを研究しているに
すぎないのである。


普通、科学はあらゆる面から生命を研究している、といわれている。

ところで、どんなものにでも、球に半径が無数にあるように、

無数の面があるもので、それをあらゆる面から研究することなぞ

とてもできないのだから、どれがいっそう重要で必要な面なのか、

どれがあまり重要でもなく必要でもない面なのか、そのけじめを

つけて研究することが大事なのだ。

あらゆる面からいちどきに一つのものに近づけないのと同じことで、

生命の現象も、やはり、あらゆる面からいちどきにきわめることは

できないのである。

いやがおうでも、順序というものが定められなければならない。

ここが肝心なところだ。

しかも、この順序は、生命を理解して、はじめて、定められる

ものなのである。

ただ生命の正しい理解だけが、科学一般にたいし、ことに、個々の

科学にたいして正しい意義と方向とを与えるうえ、人生とわたり

あうその意義の重さに応じて、個々の科学を分類することに

なるのである。

だから、もしわれわれみんなの納得しているように生命が理解

されていなければ、科学そのものもまちがったものとなるほかは

ない。

科学とわれわれのよんでいるものが人生を定義するのではなくて、

われわれの人生観が科学と認めねばならぬものを決めるのである。

したがって、科学が科学となるためには、まず、なにが科学で、

なにが科学でないかという問題が解決されなければならない

のであって、そのためには、人生観がはっきりしていなければ

いけないのである。


いわば、人生とかかわりのないこんな議論が、人生の大切な問題

(それがなくては人生観も意味をなさなくなるような問題を、

 人々の目から隠してしまったばかりか、非常に急いでいる
 
 くせに、歩いているうち、行く先をとんと忘れてしまった人
 
 とでもいうような状態に、肝心の科学者を)人を導かなければ
 
 ならぬ立場の科学者を、しだいしだいに、ひっぱりこんで
 
 しまったのである。
 
 
 
どんなむずかしい問題の解決でも、それを理解しない人には、

いとも簡単に思えるようなものだ。

人生をどうととのえたらいいのかという問題も、

人生がわれわれの手にゆだねられているかぎり、

科学者の考えによてば、しごく簡単なものでしかない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  

このトルストイの言葉は深く胸に刻まねばなりませんね。      
   
また、アリストテレスは当時の唯物論をからかって、

「造船術が自然に備わっているのならば、自然の中に舟が

 見られるはずだ」
 
といっています。
 
ホーキングと一緒にブラックホールの特異点を研究した

ロジャー・ペンローズは        

「物質的世界の方が、時間を超越した世界から出現した方が自然」

と、考えました。

かのカール・ユング

「われわれの存在は少なくとも一部分は、数世紀にわたって

 生きています。」
 
と言っています。 

シュレデンガーも「精神と物質」に次のように言っています。

「物理的な理論は現在の状況において、時間を超えた精神の不滅を強く示唆
 している、と主張してよいように私には思われる」


さらにあのオッペンハイマーも、
 
「原子物理学の発見によって示された人間の理解力は

 かならずしもこれまで知られていなかったわけではない。

 また、べつだん新しいというわけでもない。

 われわれの文化にも先例があり、仏教やヒンドゥー教

 では中心的な位置を占めていた。

 原子物理学は、いにしえの知恵の正しさを例証し、

 強調し、純化する」(J.R.オッペンハイマー)


竹内薫先生が最も好きな科学者というデヴィッド・ボームは、

私たちの肉体、脳や、内臓などの構造レベルを超えた、

私の存在の意味(価値)があるということをラジオのたとえで

いわれています。

「ラジオの受信機はそれ自身の構造のレベルを超えたところから

 発生する有意味な秩序を、それ自身の構造レベルでの運動へと
 
 もたらす役目をする。」
 
       (「全体性と内蔵秩序」D.ボーム)

つまり、ラジオは電波を受け取って、それを私たちに聞かせる

働きがあります。

しかし、電波の存在を無視して、ラジオ自体の素晴らしさは、

どんなにラジオを分解しても分かりません。

私たち人間もそうです。

どんなに脳の研究をしても、どんなにDNAの研究しても

本当の人間にはたどりつけないし、人間の素晴らしさ、

生きる意味は見つからないのです!!

ちょっとテーマが大きく難しいですが、少しでも考える

ヒントになってもらえればと思います。


さて、もちろん超一流の科学者、哲学者、心理学者、大脳生理学者

がいっているから正しいといっているわけではないですよ。

「唯物論を否定するのは科学を否定することだという

 考えはちょっと(というかすごく)どうなの?」

ってことを言いたいわけです。。

もちろんすごく勉強している人もたくさんあるでしょうが

第二段階としては科学をろくすっぽ学ばずに

唯物論が科学的だと思いこんでいる人に

もの申しているわけです。

すでにそこまで勉強しておられる方には、第三段階へ進みます。



【徹底研究】唯物論


唯物論について(3)

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唯物論について(4)

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唯物論について(5)

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唯物論について(7)

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2 コメント

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Unknown (Aero)
2007-12-07 02:21:28
なんだか、むずかしいお話ですね
ラジオのたとえで、なんとなく雰囲気がつかめたような気がいたします。
返信する
Unknown (ぱんだ→Aeroさん)
2007-12-09 22:44:14
Aeroさんいつもコメント有難うございます☆
そうですねー
いろいろ研究してますが、
唯物論に関しての内容は指折りの難しさ
ですね。
ラジオのたとえが一番わかりやすかったですか。
こういう意見は貴重なので、わかりにくいところ
わかりやすかったところ、ともに遠慮なく教えて
くださいませ☆
このブログへの発言は荒削りな状態での発言も
結構させてもらってますので、申し訳ないんです
けど。。
これからも、ヨロシクです♪
返信する

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