幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


自著『第3の幸せ』【60ページ無料プレゼント中】         

【徹底研究】唯物論について(3回目)

2007-12-08 | その他
唯物論についての3回目(第三段階)です。

「感情を生み出す部分が脳にある」

 つまり「脳が先で心が後」

 だから「脳が心を生み出す」

 とすれば「心も脳に還元できる」
 
 という考え方があります。


もしこれだけなら非常に浅いレベルです。

それはちょうど

ほら、あのニワトリをみよ、いま卵を生んだでないか

これがニワトリが卵より先だという何よりの証拠

といっているようなものです。

かわいらしいですよね。

心(意識とは限らないですよ)が脳に作用して

心のほんの一部である感情が表面にあらわれた

(もしくは涙がでた)

かもしれないわけで、脳をいじったら感情が作用したから、

脳が心を生みだす、と考えるのは早計すぎるでしょう。

心はもっと深いレベルで論ずるべきかもしれませんよ

今日無意識レベルですら広く論じられているわけですから。


まあこれは問題提起くらいにしてみましょう。

では、今一度唯物論の本質について考えてみましょう。

唯物論とは「人間とはモノである」ということ、ですよね。

では、そもそも「モノ」とは何でしょう?

一見、当たり前に存在していると思われがちな「モノ」ですが、

考えを深めていくと、なかなか難しい問題になってきます。

ここで私の好きな飲茶(ヤムチャ)先生のHPから、

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

物質

http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/gakuFrame.html
物質っていうのは、一体なんだろうか?
ちょいと、これについてテツガクしてみよう。

では、問い。
「自転車」は物質だろうか?

自転車は、見たり触れたりできるので、
単純に「物質ですよ」と言いたいところだが、よく考えてみよう。

まず、自転車とは、ハンドルとかペダルとかサドルとか、
色々な部品から構成されている。
そういうたくさんの部品の構成によって、

「人間がペダルを漕いで進むことのできる乗り物」

という性質(システム)が発生している。

そして、その『性質』に対して、
人間が勝手に便宜的に「自転車」という名前を付けただけである。

それが証拠に、「自転車」から、ハンドルとか、サドルとか、
そういう部品をひとつひとつ取り外してみよう。
「自転車」というものを取り外したわけでもないのに、
そこから「自転車」というものは消え去ってしまう。
逆に、取り外した部品をもう一回組み立てたら、
そこにいきなり「自転車」が現れる。
また、組み立てるとき、別のハンドルに取り替えたっていい。
部品は交換可能なのだ。それでも、そこに「自転車」が現れる。

この話から、「自転車」とはあくまで、
「複数の部品の構成によって、
 発生した性質(システム、仕組み)について、
 人間が便宜的に名前を付けただけである」
ということがわかる。

つまり、「自転車」という存在は、
独立した確固たるものではなく、観念的なものなのだ。

では、自転車を構成している「ハンドル」はどうだろうか?
ハンドルは、鉄とかアルミとかで出来ている。
その鉄原子の塊が、「ある形」になって、
人間がつかむことができるという性質を持つので、
「ハンドル」という名前が付けられているわけだが……。
これも同様に、ハンドルを構成している「鉄原子」という部品を
バラバラに分解してしまったら、「ハンドル」という存在は消え去る。

「ハンドル」も観念的な存在である。
自転車のときと同じ論法だ。

じゃあ、次。
そのハンドルを構成している「鉄(鉄原子)」は物質だろうか?

「そりゃあ、そうでしょ。『鉄』は物質だよ。決まってんじゃん」
とまあ、普通はそう考える。

だいたいのところ、日常的には「物質」という言葉をきくと、
「鉄」とかそういう硬い何かを思い浮かべる。

だが、待って欲しい。ここにはひとつの思考停止がある。
なんで、自転車のときと同じ論法を
「鉄」に対しても、やらないのだろう。

だって、「鉄原子」も、やっぱり部品の集まりにすぎないのだ。
鉄原子は、「原子核と電子」で構成されている。



そこには「鉄原子」という独立した確固たる何かがあるわけじゃない。

「原子核と電子」という集まりによってできた性質に対して、
人間が便宜的に「鉄原子」という名前を付けただけだ。
原子核と電子をバラバラにしてしまったら、
もうそこには「鉄原子」なんかない。

自転車のときと同じ論法だ。

で。
その原子核も、中性子と陽子があつまってできたものだ。
これも自転車のときと同じ論法が使える。



原子核という確固たる存在があるわけではない。

で。
陽子は、クォークがあつまってできたのものだ……。
これも自転車のときと同じ論法が……

一体、どこまでそれが続くのだろうか?

結局のところ、人間は、

「ある要素Aと要素Bがあつまってできた性質(システム)に対して、
 『これはXである』と名前を付ける」

ということをしており、
そういう存在を「物質」だと呼んでいるのだ。



その階層はどこまでも小さく、どこまでも大きく続く……。

もし、鉄を物質であると呼ぶのなら、
自転車も、会社も、国家も、太陽系も、銀河系も、宇宙も、
すべて同等の物質だと言うことができる。

逆に、「会社」も「国家」も、物質ではない、
人間の便宜的な観念的な存在だとするならば、
鉄だって、陽子だって、クォークだって同じ論法で、
便宜的な観念的な存在になってしまう。

結局のところ、国家と鉄原子は、同じレベルの存在なのである。
したがって、
「国家は物質ではない。鉄原子は物質である」
なんていう考え方には何の根拠もない。
本来、国家と鉄原子を隔てる理屈なんて、本当はないのである。

物質とは何か?
探求は続く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長くなりましたので、今日はこれまで☆

つづく♪



【徹底研究】唯物論

唯物論について(1)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/c31ca72a8e62ea8d7d014c27e148f7ae"target="_blank"

唯物論について(2)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/a7a897137f4f0d8ad29ae16d286d6a36"target="_blank"

唯物論について(3)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/11fe361d4f84a65f8185c8b8a17da450"target="_blank"

唯物論について(4)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/4395455cfebf28ac360e8001a07e1a78"target="_blank"

唯物論について(5)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/683a166442277e7ce885b7d4ea5eda42"target="_blank"

唯物論について(6)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/177e8a8c23662373ce66ffbe182bb654"target="_blank"

唯物論について(7)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/e6bc7e05802f0112691e77de5465a0dc"target="_blank"



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。