幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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【徹底研究】唯物論について(1回目)

2007-12-04 | 

これから何回かに分けて『唯物論』について語りたいと思います。

問題が問題だけに、ちょっと長いです☆

さて、そもそも、唯物論の定義が難しいのです。

この定義があいまいなままで話しをすすめていては、

王将のない将棋のようになるでしょう。


まず、唯物論について、ウィキペディアでみるとこのような説明に
なっています。


事物の本質ないし原理は物質や物理現象であるとする考え方や概念。
非物質的な存在や現象については、物質や物理現象に従属し規定される副次的なものと考える。物理主義(ぶつりしゅぎ、英: Physicalism)とも言う。
対語は唯心論。


分かりやすい文章とは言いがたいですね☆
物事の本質は、物質であり、心は、その物理現象の一つだって、ことですね。
簡単にいうと。

だから、心より、物質が優位をしめるってことなんです。


たとえば「脳が心を生み出す」

としばしば論じられますね。
これが脳(物質)が心より優位にあるということです。
いわば、脳(物質)が親で、心は子供といった関係です。

ですから唯物論も、脳が生み出したにせよ、心の存在は一応認めているわけです。
そういう意味では「唯、物だけ」という考えはおかしいじゃないか、
心というものがあるんだから、という主張が出てきます。

逆に唯心論で「心がある」と主張する人も

心が「在る」からにはまったく無ではないわけで、

無でないもの、もし、心を広い意味での「もの」と定義してしまえば

唯心論も、定義一つで一瞬にして唯物論になってしまうわけです。


このように定義をしっかりしないと、

唯物論派からの批判も、唯心論からの批判も、どっちももっともらしいものに

なってしまうわけです。



そこで、その定義を確認してみましょう。

まず「心」より「物」を上と見るのを唯物(脳)論派と考えてみましょう。

たとえば、脳(モノ)が心を生みだし、脳(モノ)が心(意識だけに限らない)のすべてを

コントロールできるならば、唯物論者の勝ちということです。


さて、一応のルールを決めたところで、唯物論とはどういうものか

考えていきたいと思いますが、

たびたび耳にするのは

「心なんてしょせんは電気信号でしかない」

「人間は結局機械でしかない」

という言葉。そして唯物論者の多くは

自信を持っている。

(すくなくとも私が接してきた唯物論者、読んだ本の著者は

 そうでした)

そんな人にもの申す!

もし人間が機械でしかなく、心(感情も含め)は電気信号でしか

ないなら

愛情も電気信号で何らかのプログラミングの一つでしか

ないわけですね。

その笑顔も、感謝の言葉もつくられたもの。

涙流しておわびしているのも全部誰かのシナリオ

こころから 悪いなんてさらさらおもっちゃいない

もしすべての人が機械なら

心からのおわびを期待するのが間違いですね。

愛情をもとめるのもおかしい。

そんな心はないのだから。

あったとしても所詮はつくりものだから。


自分の機械なら(たとえばパソコン)分解しても

文句をいわれる筋あいはないし、

違和感も感じません。

ではあなたが購入したペット(犬とか猫とか)

も同じように分解してもいいことになりますね。

人間を殺しても

機械を壊したレベルの話しですよね。

本当にそれでいいんですか?

そういうと、こう反論する唯物論者があります。

「いや、モノだって大事にしないといけないですよね。

 たとえば、すぐれた芸術品を傷つけるのはよくない
 
 でしょう」
 
それはまさに、モノを見る「心ある人がいる」というのが

前提です。

すべての存在が「モノ」なら「感情は電気信号」でしかない

のですから、芸術品が傷つけられているのをモノがみてても

どうってことないはずです。

どうでしょうか。

最初に確認したように「心」より「モノ」が優位に立つという

ことはそういうことです。


これは恐ろしい思想ではありませんか?

感情もない(あるのは現象としてだけ電気信号の強弱、変化だけ)

分解してもあまり問題にならない。

唯物論を徹底していけば、役に立つ機械は

採用するが、ポンコツは廃棄処分。

こわれても代わりはいくらでも用意できる。

となるでしょう。。。


自分に対して、人類に対して

そんな考えでいいんでしょうか?

もし真理を探求し、人間を徹底的に調べたところ、

まことに残念なことに

まことに悲しいことに

肉の塊でしかなかった。

しょせんは機械だったと泣くのならまだ話は分かりますが

もし、堂々と、

「私は科学的理論的で知性的な唯物論者でございます、

 えっへん」

と思っているなら何かおかしくありませんか?

思想の乱れは世界を闇にします。

魔女狩りも長い歴史からみればそんな昔のことでは

ありません。


これが第一段階です!

あくまで第一段階です。

唯物論とはどういうものか、つっこんだ説明は

第二段階以降(第三段階以降かな?)で説明したいと

思います☆



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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
唯物論の欺瞞 (777)
2008-03-14 10:20:12
 はじめまして。777と申します。

 唯物論に関してですが、個人的には、平均的な人間とよく似た「人工意識」は作り出せても、それをもって心の謎を解明したとはいえないと思います。よく言う哲学ゾンビの話もそうですが。

 よく唯物論者および懐疑論者が「自分たちを所詮は物質でしかないと思えない人間」のことを「贅沢病」「人間を特別な存在だと思いたがる傲慢な連中」とか「心の弱い人間(とはいえ、心の強弱といわれても、唯物論的に見れば、それも電気信号と化学物質の相互作用の差でしかないでしょうが)」と批判しているのを見ますが、はたして本当にそうでしょうか?

 彼らはよく「限りある人生だから精一杯生きて自分の功績を後に残せばいい」と殊勝なことを言いますが、一方で「不老不死」だの「リエイジング」だの「コールドスリープ」だの、挙句の果てには、「意識をコンピュータ内に数値データ化して保存する」だのといったことを研究しているわけですから、説得力はまるでないわけです。限りある人生が大切だというならば、なんで意識を保存したりとか不老不死の研究をする必要があるんでしょうね?もちろん、医療のための「再生技術」ならまだ納得できます。実際に、手足を失った人でも幹細胞を使って再生させることができれば、これに越したことはないですから。

 それに、世界の国々が平均的に「精一杯生きられる環境」にあるのであれば、まあこの理屈でも納得は出来るでしょう。しかし現実には北朝鮮のようなアホな指導者が治める国があり、生まれてきても10歳くらいで餓死する子供が大勢いるような現状がある中で、そういった人々を見殺しにしておきながら、自分は「精一杯生きます」では、やはりなんか納得できないと考える方も多いのではないでしょうか?

 たとえば、オウムの林受刑者は、科学の限界を感じてオウムに入信したと語っておりますが、なぜかというと、結局医療とはいえ、すべての人間を救えるわけではない、また、自分が幸福を追求している中でも、今飢えて死にそうな子供たちが大勢いる。こういった現状を見て見ぬふりして自分だけ…という後ろめたさがあったと語っております。要するに、こういった現状に目をつむってきた結果が、オウム真理教の入信につながったというわけですね。オウムはそういった疑問に(たとえ間違っているとはいえ)ある程度の答えは与えてくれたでしょうから。これは私は、一部ではありますが、唯物論者や懐疑論者にも責任があるのではないかと思います。

 環境ばかりではありません。事故や殺人事件で命を落とす事例もあるし、そういうものに関しては「お気の毒さま」の一言で、「自分は一度きりの人生だから精一杯生きます」というのが、倫理面で問題がないといえるものなのか?

 結局、唯物論者および懐疑論者が「人を物質だと思いたがる」心理というのも、逆に研究してみてもいいのかもしれません。まあ、たとえば輪廻転生があるとして、今はたまたま「精一杯生きられる環境の国」の人間であったから良かったものの、今度生まれてきた場所がアフリカで、それこそ餓死寸前の子供がうようよいるような地域であったりしたら、そりゃあ勘弁してくれと願うのも、無理からぬことでしょう。また、我々はこういった発展途上国をある意味見殺しにしながら成長しているという一面もある。アメリカのイラク政策のように、はっきりと石油目当てで人間支配という一面もある。こういった方々にと手見れば、確かに「一度きりの人生を精一杯生きている」方がいいでしょうな。しかし、もし死後の意識や生まれ変わりみたいなものが実際にあるとしたならば、今度は自分が搾取される側になるかもしれない。殺される側になるかもしれない。それは嫌ですな。

 哲学ゾンビの話に戻りますが、科学者、唯物論者、懐疑論者は、実際に心があるのかどうかわからなくても、ただ人間と見分けがつかなくなるくらいの反応を人工知能が示すようになれば、それでロボットに人権に認めよ。心が宿った。そう主張しているようです。中身がゾンビでも、反応が人間と区別がつかないくらい精度が上がれば、心をもったと考えろ!さもなくば差別論者であるといいたいようですね。

 ロボットに人権を認めろというのは、懐疑論者たちもそう言っておりますが、それにより、ロボットの奴隷化と阻止できるためであるといっているようです。中身なんかどうでもいい。サルまねさえできれば人権を与えてやればいい。こんな理屈です。当然、彼らもそれが詭弁であるというのは十分自覚しているのですが、社会的に見ればそっちの方が都合がいいからという理由で、こういう理屈を説いているのです。しかし、仮にロボットに権利を与えたからと言って、隷属化を阻止できるとは思えません。それは現状を見れば一目瞭然です。我々は人権という概念を獲得いたしましたが、表向き奴隷制度は無くなったかもしれないが、実際にはそれ以上に過酷な労働による過労死、ワーキングプアー、格差の拡大による暗黙の搾取など、問題は挙げればきりがありません。

 もちろん、むやみにロボットを酷使したり、奴隷化したりするのはあってはならないことですが、こういうごまかしにも似た論理で「心の問題」を語ることが、果たして最終的に人類の幸福につながるのかどうか。それを考えてみる時期に来たのではないでしょうか?

 
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力作でした ()
2009-09-24 13:33:47
よく練られた、熟読に値する内容だと思いました。ただ、なぜこれを書いたのか、なぜ読んでもらいたいのか、その動機付けの部分を最初に示してもらえると、多少難しく感じた人でも、最後まで読んでくれるのではないかと思います。

機械論的唯物論は、理論上も、あるいは私たちの日常感覚からいってもおかしいことは、わりかし指摘しやすいと思います。

でも、それに代わる世界モデルをどう提出するのかという問題が残ります。
心のみが存在するとして、私と他者、つまり複数の心が同時に存在し、かつお互いに関わりあっているという現実をどう説明するのか。ある程度、納得できる説明が必要だと思います。

複数の心はどこに存在しているのか?万人の心が存在し合う、共通の場を想定してのことなのか。
また、「心=世界」というのは、夢を例にとれば分かりやすいけれど、それは「個の世界」であって、そこに他者が関わることはない。だが現実の世界には「私の心」という閉じた世界に、他者が現れてくる。これはなぜなのだろうか?
そういう個々人の閉じた世界があるのではなく、インターネットのような関係性のみがあるとすると、端末機器の一つみたいな「私」の尊厳をどこに見出せばいいのか分かり難くなります。

こういった疑問が起きてくるので、唯物論を破る目的は何か?事物を関係性としてとらえることで、私の生きる意味がどう関わってくるのか、その辺を明らかにしてもらえたらと思います。そうしないと、無益な哲学論議に付き合わされる羽目になると思いますから。


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Lさんありがとうございました☆ (ぱんだ)
2009-09-25 09:17:45
コメント有難うございました☆

大変参考になりました。
また日を改めてさらにパワーアップしたもに仕上げたいと思います。
7回シリーズでやりましたが、現実は1の段階で
終わってしまう人がほとんどと感じています。
ただしいモデルについては、私の力量ではネット上では難しい感じもします。
しかし、自分自身の理解を深め、他の人から意見を賜ることによって思索がふかまったり、論理の甘さが見えてきたりするので、そういう観点でアップさせてもらっています。

これからもよろしくお願い致しま
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