幸福学専門30年 筬島正夫が語る本当の幸せ


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【徹底研究】唯物論について(4回目)

2007-12-08 | その他
唯物論4回目

今日はまず、以前の記事から

・・・・・・・・・・・・・・・
 次は「どこからどこまでが私なのか?」
 
 という問題です。
 
 どう思われますか?
 
 普通は頭のてっぺんから足のつま先までが「私」
 
 考えるでしょう。
 
 しかし「髪の毛」を切ったら私が「減る」のでしょうか?
 
 「爪」をきったらどうでしょうか?
 
 「盲腸」を切ったら?
 
 「腎臓」を摘出したら?
 
 義足にしたら?
 
 義手になったら?
 
 整形したら?
 
 心臓を移植したら?
 
 血液をいれかえたら?
 
 記憶喪失になったら?
 
 どうでしょうか。
 
 どこまでが私で、何を失ったら自分でなくなるのでしょうか?
 
 単純に頭のてっぺんから足のつまさきまでが「私」とは言えない
 
 ことが分かられるでしょうか?
 

 最後「私という『心』」※この心は「意識」のことではありません。
 
 にたどりつくのではないでしょうか?
 
 (このことについての理論的な説明は都合上、
 
  後にしたいと思います)
  
 以上が、2つ目の問題へのアプローチ1です。
 
 2つ目の問題へのアプローチ2
 
     
以前「モノ」と「コト」ということについて論じました。

 (詳しくは第25回のコチラ

「モノ」とは、固定的なもの。

「コト」とは

世界が変わる 現代物理学』(竹内薫著)によると

 

 「意味のネットワークの全体的な「つながり」こそが

  本質であることに気づいたときに見える世界」 p014

とあります。

すべての人に共通で、変わらない「モノ」というものはない、

すべては「つながり」「関係性」である、ということですね。


「ニュートンの世界はモノ的だった」 p22

 

「アインシュタインの相対性理論、コト始め」 p34

  

とも書かれてあります。


  ニュートン的世界観 = モノ

  アインシュタイン的世界観 = コト
  
まあ、こんな感じですね。
  
次の文章も読んでみましょう☆

「モノ」という概念は間違いであることが、相対論や量子論で

 明らかになっていっている。
  

「この世界の物質はすべて『粒子』と『波』の性質を

 持ち合わせている。

 物理学の世界では、この二つの特質を持ち合わせる、

 世界のすべてを構成する物質を「量子(りょうし)」と

 呼ぶことにしました。」  p063


 量子力学によってすべての物質は、固定的な「モノ」
 
 つまり「粒子」ではなく
 
 「波」の性質を持ち合わせた実体のないもの、

 とうことが分かってきたわけですね。
 

ここで頭のマッサージ

ちょっと質問をさせてもらいます。

「インターネット」ってどこにありますか??

    目の前にある、パソコンの中ですか?

どれともケーブルですか?

そこから全世界に伸びていくケーブル全部でしょうか?

どこかで管理しているすごいコンピューターこそがネットの実体

でしょうか?


答えは、

「『ここ』という場所はない」

世界に張り巡らされている「ネットワークがインターネット」です。

まさに「関係性」「つながり」によって存在する世界ですね。


実はインターネットだけでなく、すべてが「コト」、関係性という

実体がないものなんですね。

前にも話した仏教でいう「諸法無我」です。

「固定不変の《もの》」(我)というものは無い、わけです。

すべては「因」と「縁」があわさった、関係性のものでしかない。

仮のものばかりなわけです。

すべては関わりあって存在している。

私自身も世界と関わりあって存在している。

だから独立した私自身というものは、本当はない。

インターネットのように、そのつながりを広げていくと、

どんどん、どんどん、広がっていく。

私は宇宙まで広がっていく、わけです。

「それは荒唐無稽で、非科学的な話だ!」ということ勿れ。

これは、実存主義哲学(ハイデッガーの世界内存在)にも合致し、

現代科学にも合い、

西洋の哲学、科学の両界共に熱く注目されている仏教に

すでに説かれているのです。

  
 二つのアプローチで考えました。  
  
 「私とは何か?」について。
     
 1つ目のアプローチでは、単純に頭のてっぺんから足のつま先までが
 
 「私」ではない、アレをなくしたら、コレをなくしたら、
 
 と、ドンドン極小の単位へと向かっていきました。

 すると、肉体に、私は見つからない。
 
 「心(意識ではない)」こそが「私」という仮説にたどりつく。
 
     
 2つ目のアプローチは、逆に、私をどんどん広げていったわけですが、
 
 ついには、宇宙(世界)すべてにまで広がってしまったわけです。
 

つまり量子力学的アプローチでいくと、世界と私は分ければいい。

世界の中に、一つ一つの「モノ」がるのではなく、

全ては関係性である「コト」からなっている。
    
その関係性とは「私」との関係性であり、その関係の濃さ、薄さはあってでも

すべてが関わりあっていますから「私」の存在は、

「モノ」としての肉体ではなく、

「コト」的な「存在」になるのです。


このことは、ハイデッガーの「世界内存在」の概念にピッタリ

(まさにピッタリ)くるのです☆


「世界内存在」をちょっと振り返ってみましょう。

「私の見ている世界は、私の過去の思い出をすべて含んで

 慣れ親しんだものとして見えています。

 だから回りの世界は、決して私と離れたものではなく、

 私と深いかかわりを持っているのです。

 そういう世界で生きているのが人間であり、

 そういう人間のありかたを、彼は「世界内存在」というのです。」

1つ目の問題「ひとりひとりが違う世界」という命題も、より明らかに

なったことと思います。

2つ目の押さえるべき点は「私(心)=世界」ということです。

 (※「心」=「意識」ではない)





どうでしょうか?

どうも「モノ」は存在せず、あるのは「コト」という関係性の

ようです。

そうすると、「ただ、モノ、だけ」という唯物論がまさに唯一主張

している「モノ」自体が存在しないことになってしまいます!!

まだ続きます☆


【徹底研究】唯物論

唯物論について(1)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/c31ca72a8e62ea8d7d014c27e148f7ae"target="_blank"

唯物論について(2)

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唯物論について(3)

http://blog.goo.ne.jp/pandagananda16/e/11fe361d4f84a65f8185c8b8a17da450"target="_blank"

唯物論について(4)

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唯物論について(5)

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唯物論について(6)

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唯物論について(7)

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4 コメント

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Unknown (ジャガ)
2007-12-09 05:25:10
はじめまして。初カキコさせていただきます。

同じようなことを疑問に思っていて、
たまたまこのブログをみつけました。ぱんださんはすごい博学ですね。驚きました。

今見えているモノも人それぞれには、過去の経験や能力などによって見え方も違っているし、見えているモノも人間の脳の画像処理によって見えているものであって、赤に見えるものも光の波長で、そう見えているだけで本当は色などない、とか聞いたことがあります。
そう考えると世界で見えているものや匂い、音など自分が作りだしている幻のようにも思ってしまいます。

よく考えると難しいですね。

ちょと疑問に思ったのですが、
>どこまでが私で、何を失ったら自分でなくなるのでしょうか?

髪の毛や爪は切っても私は減らないですが、脳は取り替えたらやっぱり別人になるんじゃないですかね。体の細胞は何年かたつと入れ替わっていると聞きますが、脳細胞は20歳から減少する一方で、一度死滅した細胞は二度と再生しないとも聞きます。なので、昔と変わらない自分がいるのも、脳細胞が変わっていないからなのではないかと思ってしまうんですが。

脳死が人の死だという人もいます。やっぱりココロを生み出しているのは脳なんじゃないでしょうか?
ちょっと疑問に思いましたので。
返信する
Unknown (ぱんだ→ジャガさん)
2007-12-09 22:39:44
ジャガさんこんばんは☆
コメント有難うございました!

素朴な疑問、大きな疑問、ともに大歓迎です♪

さて、脳の件ですが、当然ですが、脳といっても
たくさんの細胞が集まっています。
その一つや二つ、壊れたり死んだりしても、
「私」は死なないですよね。
決定的な「私」といえる脳細胞は少なくともまだ
発見されていません。
脳のどの部分をもって「私」というのか、ということ
については、まったくといっていいほど答えがない
状況ですね。
また出血多量で死ぬ場合がありますが、では「血」が
「私」だったのか、というとどうも違うように思い
ますよね。
「それ」を失って死んだから、「それ」=「私」とは
いえない。
たとえ脳が死んだのを人の死と扱ったとしても
それで「私」=「脳」ともいえないと思いますね。

あと「未来への提言」にも登場した 脳科学者
ナンシー・アンドリアセンは「脳と心」の研究を
しています。
脳が心を生みだしたと思うという一方で、
魂については別格扱いしています。
つまり「心」=「魂(本当の私)」
という方程式ではないわけです。
(※魂という表現は厳密でないのですが)

このように、意識レベルの心と、潜在意識のような
心は分けて考えるべきだと思うのですが、ほとんどが
心=意識
レベルで論じているので、脳が心(意識)を生み出す
という意見がまかりとおってしまうのだと思います。
ここで論じているのはもっと深いレベルのことなので、
脳が心(魂)を生みだすという考えには賛同できない
わけです。
簡単な説明で申し訳ありませんが、いかがでしょうか??


返信する
ご返事ありがとうございます。 (ジャガ)
2007-12-10 07:49:11
くわしい説明ありがとうございます。
下記の点は、あっなるほどと思いました。

>その一つや二つ、壊れたり死んだりしても、
>「私」は死なないですよね。
>決定的な「私」といえる脳細胞は少なくともまだ
>発見されていません。

確かに一つ一つ壊れていって、私が無くなる最後の一個の細胞の境界線があるとしたら、その最後の1個の細胞が私を決定するものになってしまい、1個の細胞で私がなっているというのも、おかしいですね。

書いてて混乱しますが、脳にはまだ分からないことだらけで、どうして脳が意識を生み出しているのか、解明されていないのも事実ですし、また意識とココロは別物であるかもしれないし、

う~んむずかしいですね。

何となくですが、疑問が解けました。ありがとうございます。このブログを参考にさせてもらいながら、また良く考えてみます。

また、このブログ読ませてもらいますね。
楽しみにしています。

それでは失礼します。
返信する
Unknown (ぱんだ→ジャガさん)
2007-12-11 08:17:14
コメントありがとうございました!
対話をしていくと、考えが深まって
非常にイイ感じです。
これからもよろしくお願いします♪
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