おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

プリン分の欠如。海老天重で補う。

2006-05-23 12:15:44 | 我思う、故に書くなりよ。
プリン分が足らなくなったので、コンビニへ。

ところが、あろう事か、プリン無いじゃん…。ローソンともあろうものが!

致し方なく、公共料金を払うついでに「フルーチェ ブルーベリー味」と牛乳を。牛乳をしっかりと冷やさなければならないので、しばしの我慢である。プリンじゃ無いし。

ついでに、お昼ご飯に「スーパー海老天重 B」を買ってみた。2002年の人気お弁当の「復刻」と言う。

「海老が3尾ものってます。」

に偽り無く、しっかりと乗っていて、500円。海老だけかと思いきや、その下には野菜もしっかり隠れており、しっかりとチンしたところ、美味しい。うむ。ローソンやるではないか…。

コンビニ弁当は青春の思い出でもある。セブンイレブンの「イカフライおかか弁当」は欠かせないアイテムだった。あれに勝るコンビニ弁当は無い。それくらいに、ボリュームと味が素晴らしかったのだが、消えてしまい、昨年だか「復刻」したらしいのだが、出会えなかった。それもこれも、近所のセブンイレブンは尽く撤収を余儀なくされたからである。

確か、¥480円だったかな。タバコと飲み物をチョイスしても¥1000で収まるし、お釣りも来るんだから、それでも足りない場合はカップ麺を加えれば十二分に満足してしまう。それが幸せであり、夢でもあり、希望でもあった。私の青春時代を立派に支えた重要なアイテムなのである。

そうしたお弁当に出会えなくなって久しい。世相を反映してサイクルは短くなり、定番とされるメニューでも移り変わりが激しい。何を求めているのか、どこに向かっているのか…定かでは無いにしろ、それを迫られる事情がそうさせているとしたら、何か不毛なスパイラルにハマり切ってしまっている様で、瞬時を切り取れば華やかだろうけれども、大局をを見た場合に「虚しさ…」を感じざるをえない。

さて、海老天重だが…。天麩羅を生業としているお店のモノとは全く違う。似てはいるが非なるモノ。そうであってもこれはこれで「美味しい」。スーパーの総菜コーナーに並んでいる弁当でも、3尾乗っている事は少ないし、アンド、野菜なのだから、それでいて「美味しい」と来たら、ウレシイ。似て非なるモノであるがための評価はそれなりではあるが、立派に美味しいと言う評価を与えて悪くない。プリンもそうなのだ。どこぞのパティシエが精魂込めて作るモノとは全く違う。そう判っている上で、我が身が欲して止まないのは「コンビニのプリン」なのである。¥150そこそこの、あの大き目のプリン。あれを欲してしまうのだ。

つくづく、安上がりでよろしい…。ちなみに、天重では無いが、4人で十数万円と言う天麩羅を食したコトがある。全てが「お任せ」であり、お品書きも無ければ、料金表もない。一見さんは当然お断りなワケで、座ってナンボ…と言う場所でも無いので支払う身としてはすんげえ不安なのだけれど、任せるままに出される天麩羅を味わう毎に、それらが適正なモノであると判ると言うお店。ある意味、究極の天麩羅でもあるが、まさにそうなのだから、その対価に不満も出ない。単に高価というだけじゃなく、素材を選んだ理由から、揚げて天麩羅として完成させる技術の1つ1つが「プロ」だと解りながら食べられるコトの楽しさや驚き…。そんなレベルと比較してしまうのは酷なのだが、入る口は一緒なので、同列に扱ってしまったりしちゃう。

そうした食文化の入り口がコンビニだと思うので、やはりもっと語られても良いんじゃないかと思う。小さい頃、100円玉、50円玉、10円玉を握りしめて、あれこれ思案を続けた挙げ句にやっと選んで美味しさを確かめる駄菓子やジュース。そうした場が無くなり、変わりに増えたコンビニで同じ思いをしている子供を見ると、大人だけでなく子供も考えながら楽しめるコンビニ…って言うのもあって欲しい。

とりあえず、プリン切らしている様じゃ困るんだがなぁ。


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