おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

体感巨乳主義。

2005-09-06 06:51:50 | 我思う、故に書くなりよ。
40にもなって、彼女も恋人もいない独身の男が『乳』を語るとなると、ほとんどが『エロ』だよな…。

まぁ、知り合いのおねーちゃん方は大半が自然に「巨乳」なワケで、どうしてそうなったかは明らかにされていない。聞くところに因れば、同級生もほとんどが似た様なサイズだったとかで、「フツー…」って感じに備わったものらしい。中には人造的な手法を用いた「巨乳」もいるんだろうが、世代的に見ると「フツー…」って感じの意味合いは納得できるものがある。

自分の同級生だった連中が、おネーちゃんズと同じ年齢だった頃にどうであったかを思い返すと、巨乳なんてのは珍しく、そうそう居たりしなかった。テレビや雑誌で見るアイドルにだって巨乳はほとんど居なかったし、「巨乳=外タレ」って構図がそこには形成されていたに思う。また「巨乳=デブ」って図式が半ば暗黙の了解的に完成されていた世代だとも言え、街行く女性を眺めても、今ほどに「巨乳」が市民権を得ていたワケでは無かった。それこそ、特異な存在として注目されていただろう証として「ボイン」「ボインちゃん」なる愛称が生まれていたし、それを子供の身分で口から声に出して言うのは少なからず「勇気」の伴うものであったし、「H」と言うカテゴリーに分類されていたハズである。

こうした事からも、ここに1つの世代格差、ジェネレーション・ギャップが存在すると言えよう。

恐らく、食文化や生活習慣の欧米化の急速な普及に伴って、巨乳が普通となって来たんだろうと思うが、アジアの民族的な見地からすると、それはそれで何だか不自然さ…ってモノを感じたりもする。だが、巨乳がこうして市民権をなし崩しに得るにあたり、「オッパイ星人」を自称して憚らない愛好者も増えて来たり、それが「美」であり、また、その最たるものかの様な論理の形成すら行われると、性的興奮の取得の多様化と相まって「エロ」的な観賞の対象としての存在意義ばかりが広く伝達され、そうした変異的な巨乳の市民権の獲得の謎がうやむやにされがちとなってしまう。

で、おじたん。も、どちらかと言えば「巨乳」が超ダイスキではあるが、こうした広まりと学術的な解析の乏しさについては疑問を抱いている。でまぁ、巨乳の持ち主であるおねーちゃんズに尋ねてみると…

「だってしょうがないじゃない。巨乳なんだもの…」

と、某有名書家の様な返答しか返って来なかったりするし…。

まぁ、古来から「乳」はたわわ…であり、あらわ…であったりする。『ミロのビーナス』なんか観てもそうだし、だからと言って『巨乳』かどうかは疑問も残るが、バランスの取れた巨乳である事に「美」と言う物を人類が見出した事には違い無かろう。そうした事からも昨今ではオッパイ星人の中に、巨乳の中でも「美巨乳」に的を絞った愛好者の著しい増加も見逃せないし、オッパイを語るに「エロス」は欠かせない事も歴史的に正しい様だ。

何書いてんだかサッパリ…になって来たが、実は10月から『乳がん月間』が始まる。乳がんの早期発見、早期治療、早期診断を広く伝えるもので、

『ピンクリボンキャンペーン』

なのである。巨乳だから…って事では無いが、これを女性だけのものとして捉えるのは「真のオッパイ星人」を目指す者としては『失格』であるし、女性だって、女性だけの問題として捉えるのは間違いではないだろうか。

今ほど、乳がんが広く語られていない頃に、勤務先のとある医者から聞いたのは…

「乳がんなんてダンナの責任だよ…」

と言う話である。「汝の妻、汝の恋人の乳を愛せ…」とも言っていた。それが一番身近な発見方法であるって事。当時も今も、独身の身では説得力も無いが、確かに一理あるし、女性だけのものでも、男性だけのものでも無い所に「オッパイ」はあるんだと思う。まぁ、乳がんに限らず、見逃しは『死』を意味する病気だからって事もある。

巨乳超ダイスキ! ってばかりじゃ、巨乳はおろか、その持ち主もろとも失うに任せてしまうだけで終わってしまうのだ。当時、付き合っていた検査技師のおねーちゃん(フツー)と一緒にこの話を聞いていたのであるが、お互いに心配になり、付き合って初めてちゃんとオッパイを触ったし、触らせてくれた。その後…縁は無かったけどね…。失う…って事がひどく不安だったのは間違いない。

女性に特有…ってモノでも無いが、圧倒的に女性に多い病気だし、得てして隠したい部分の病気でもある。だが、女性らしさ…って書くと今じゃ怒られるのかな? まぁ間違いでも無いだろうから書くけど、「シンボル」でもあるそれを失う事の意味を男性は理解出来にくいものだし、手遅れは繰り返すが『死』しか待っていない。愛する人を失わないためにも、病気を理解し、病気と闘う者を理解し、そして、そこにある問題に関心を持ち、考え、また広く啓蒙して行かなければ、オッパイ星人の存在意義はどこにも無いんである。また、当事者になり得る女性も無関心でいては困る。

と、あいにく…彼女も恋人も繰り返すがいない、おじたん。は考えるのだが、だからこそ、数多くの『乳の危機』を憂う事が出来るのではなかろーか…。

「乳は美なり。また母なり。」

ミロのビーナスが至宝として残れたのは、単にエロスや美の完成があったからでは無い。価値観の違いこそそこに見られるが、そんなのは「エロ本」や「エロビデオ」「エロDVD」と変わりない。そこに『生命』や『命』が観て取れるから、至宝として残ったのではないだろうか? そうした『美』や『命』の象徴でもある「オッパイ」の実物が持ち主もろとも数多く失われている現状を深く理解するためにも、このキャンペーンは広く、異性や家族を問わず、問い掛け続けなければイケナイものでもある。

ひどくサイレントに深く進行する病気だから、早期の発見と治療が欠かせない類の病気だけれど、今まではそれを早く見つける事、早く治療する事、早くサポートする事が社会に大きく欠けていたと言えよう。機械的な技術の進歩だけに止まらず、メンタル的な部分でも大きな改善を必要とされてきたし、そう言う動きの中にある。異性の理解、家族の理解、本人の理解がより進めば、オッパイも持ち主も失われずに済む。

それが巨乳であろうが無かろうが、自分の物でも、彼の物でも、ダンナの物でも、子供の物でもある、とても大切で大事な物なんだと言う事がおざなりにされてはイケナイ。いろんな意味で、病気からオッパイを守る事がもっと語られなければイケナイ。

事態はそれほどに、深刻なのだからね。だからこそ「体感巨乳主義」の確立と実践を目論んでいるのだが…相手にされねーや…やっぱり…。

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