ホルモン屋徒然草~珍しホルブロだ

新米ホルモン屋の親爺の日々。ホルモンのこと、店の出来事、周辺の自然や話題。

語りたいときがある

2008-11-11 12:05:04 | 第1紀 をかしら屋
昨夜、というより今朝みせを閉めたのは5時ちょっと前。
日付変更線を過ぎて、残った二組のお客様が帰り、そして常連のママさんたちと胃年ぶりの友人が現れた。

当然、接客業のママさんたちはこの時間しか気を抜く時間がない。
すでに相当お酒が入っているようで、楽しく笑い、語らい、飲み、食べていった。
何十年となれ親しんでいる常連さんも、お客様はお客様。
店で見せる顔と、OFFの顔。
店で見せる、見せなければいけない笑顔と、OFFの笑顔。
店でお客様と交わす語らいと、店を終わりOFF TIMEのとき友人と交わす語らい。
ほんの少し違うのかもしれない。

「同業のよしみ」とはいうけど、その通り少しお話の輪に入る。
というか、無理やり突っ込まれるのだが。

楽しい時間である。

一年ぶりの友人は、この一年と、この先の長い人生、そして目の前にある現実を語らいにきたと思う。

いい受け答えをしたのかは疑問だ。
高校時代の友人である。
歯に衣着せないワタシの意見を聞きに来たのか、自分の想いにうなずく誰かを探していたのか、ただただ気兼ねなく自分の想いを言いたかったのか、話は静に、そして時には重く激しく進んだ。

そして朝が来た。
友、去る。
去る時間が来たからお互い遠慮して分かれたのだが、時というものが流れるものでなかったらもうしばらく語らい合っただろう。


睡眠二時間のぼけた頭に、ふと「因果応報」という言葉が浮かんだ。
少し歳を重ねて思う。
因果とはきっとあるものだし、それを染みにして自分を潔っしている事が多くなった気がする。
しかし、応報とはすぐ来るものでもなく、既に来ているときもあり、時世にまたがることもあるものだと思うし、それは自分のはかれるものではないし、期待すべきものでも無い。
ただ、自分を律しないときは案外はやめに現れることが多いものだという経験はしている。

Wikによると、こうなる。

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因果応報
因果応報とは、ことわざなどに含まれる用語である。「善い行いをすれば、感謝などの善い行いで返り、悪い行いをすれば、懲罰などの報いで返る」と、主に後者の「悪行は必ず裁かれる」という意味で使われることが多い。しかし実際の起源・意味としては間違っており、ただ単に「行動」と「結果」は結び付いているという意味でしかない。ここに一つ例を挙げる。

人物Aが人物Bの落としたハンカチを、まったくの善意で拾って手渡してあげた。しかし人物Bは自身の持ち物を他人に触れられることに極度の嫌悪を感じる人間であり、逆上した人物Bは持っていた包丁で人物Aをメッタ刺しにして殺害した。

ここでは「善意が悪意で返ってきた」わけではあるが、因果応報という言葉の意味とは矛盾しない。なぜなら人物Aがハンカチを拾った「行動」によって、人物Bが人物Aを刺し殺すという「結果」が生まれてしまったわけであり、「行動と結果の因果関係に矛盾や無理が存在しないから」である。


仏教の解釈
釈迦は、原因だけでは結果は生じないとし、直接的要因(因)と間接的要因(縁)の両方がそろった(因縁和合)ときに結果はもたらされるとする(因縁果)。そこで、縁起と呼ぶ法によってすべての事象が生じており、「結果」も「原因」も、そのまま別の縁となって、現実はすべての事象が相依相関して成立しているとする。

仏教で通俗的に因果と言う場合には、業(ごう)思想と結びつき、自己の存在のあり方にかかわる因果性をいうことが多い。「善因楽果・悪因苦果」と言うように、人間や天人として生まれる善の結果や、地獄・餓鬼・畜生として生まれる悪の結果を得るのは、前世の自己の善業あるいは悪業を原因とするという、方便(本来の教説に導くための一種の方法)としてしばしば使われる。この因果は自然科学的法則ではなく、われわれの行為に関するものである。すなわち、自分のやった善は善果を生み、また悪を行えば悪果が返ってくる、と教える。因果応報とも言われ、人間の行為を倫理的に規定する教説として言われたものであろう。

しかし、このような一般的考え方は、縁起説から考えられない俗説であり、仏教本来の考え方にはそぐわない。


善因善果・悪因悪果・自因自果
因果の道理は大きく3つに分けられる。すなわち、善因善果(善を行えば、善果が返る)・悪因悪果(悪を行えば、悪果が返る)・自因自果(自分の行いの報いは、自分に返る)の3つである。また、これらを知れば当然、廃悪修善の心が起きてくるものであり、諸仏が共通に教える七仏通戒偈には「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」と説かれている。

過去現在因果経
過去現在因果経は、5世紀に求那跋陀羅(ぐなばつだら)によって漢訳された全4巻の仏伝経典で、釈迦の前世の善行(本生譚、ジャータカ)と現世での事跡(仏伝)を記し、過去世に植えた善因は決して滅することなく果となって現在に及ぶことを説いている。


因中有果(いんちゅううか)
正統バラモン教の一派に、この世のすべての事象は、原因の中にすでに結果が包含されている、とするものがある。

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お釈迦様って偉いよな。
なんて子どもじみた感想がでるぐらい素直に聞き入ってしまう。

ふ~う。

さて、ランチタイムの始まりだ。
そろそろ満席になりそうだ。
ほいっ。

「原因だけでは結果は生じない」(お釈迦様)