庭先にさつきの花が開きました。
5月の花が4月に咲きました。
貧しい我が家の庭を、明るくしています。
よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな
松尾芭蕉
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薺(なずな)。ぺんぺん草。ネコジャラシ。別名雑草。
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雑草の薺が、薺として咲いているのを見ることが出来るのは俳人である。そこに在っても、雑草なら振り向くこともあるまいに。
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夕暮れに人の家を訪ねた。垣根を開けて入る。とそこに、それと分からぬほどの自己主張をして、小さな花が咲いていた。友人と会ってお喋りをするよりも先に、この薺が話し相手をしてくれた。
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わたしも雑草である。穢土に雑念雑駁として生きている。だが、仏陀なら、垣根を開けて、わたしを目敏(さと)く見つけてくれるだろう。話しかけてくれるだろう。
踊り子草が踊っていました。広げたスカートをひらめかせて。(いい名が着けてあります。ほんとに踊り子が踊っているようです)
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我が家の裏の小屋の、西側の狭い狭い花壇のところを、広い舞台にして。SKDの舞台にして。
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踊り子草には春の匂いがあります。花びらに虫たちが集まって来ます。わたしも虫になりました。花神の春の匂いを吸いました。
赤い色の牡丹花が、今朝見ると、まだ蕾ですが、真っ赤な蕾を着けました。一株に5個の蕾がついています。来週になれば開花するでしょう、おそらく。楽しみです。
お爺さんの楽しみは豪勢です。こんな真っ赤な牡丹花を眺める楽しみがあるんですから。
意識(コンシャスネス)があるように思います、すべての存在に。
空にも山にも雲にも丘にも。踊り子草にもスミレ草にも。石にも砂にも。流れる水にも広がる霞にも。畑にも畑の土にも。毛虫にも小鳥にも。一寸大の螻蛄(おけら)にも。太陽にも地球にも、宇宙にも。
みな語り掛けが可能のように思います。わたしにもわたしの意識があります。意識同士で会話が成立できるようにも思います。ずっと繋がっているように思います。繋がり合っているように思います。これで大きな大きな安心が共有できるようになっているのかもしれません。
弟の法名は釈信慧信士。いい名前を貰っています。遺影の写真を我が家の仏壇にも置いています。4歳違いです。8年前に他界しました。いまはお浄土にいます。お浄土に往って仏になって、兄の住む穢土(この世)に帰って来て、<苦しむ人々を安楽供養する利他行>をしているかもしれません。
だからわたしが弟の浄土供養をする必要はなくなっています。仏壇の前に座ったときに、ときどき弟の遺影に話しかけています。
阿弥陀経の経典には「倶会一処(ぐえいっしょ)」とあります。この世を死ねば誰もが「倶(とも)に一つの処(=お浄土)で会う」ことができるとされています。再会を果たせるようになっています。
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でも、わたしの考えでは、少し違います。
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わたしは命を持つ生命体は生死を繰り返しながらどんどん先へ先へ進んでいると考えています。一箇所に留まってじっとしてなんかいないと考えています。人は、進歩向上の旅を、永遠に続けていると考えています。宇宙銀河は広いのです。
だから、この考えに従えば、弟に再会することはないことになります。追い越せなくなっていると思います。(それじゃ寂しいかなあ)(でもいまこの世で、遺影に会っていますからね、十分かもしれません)
種物屋さんに行ったら、すでに植え付け時機を逸したジャガ芋の種芋(男爵)が売ってありました。10個入りで100円です。すでにシワシワになっていて、発芽の芽をたくさん伸ばしていました。ジャガ芋さんが、「お願い、わたしを連れてって!」と懇願しているようで、その懇願に耐えきれずに、3袋も買ってきてしまいました。畑は沢山余っています。植え付けることにしました。収穫の時期が少し遅れるかも知れません。収穫しても、食べきれないでしょうから、人様に差し上げることになるでしょう。
夕方、さっそく畑を耕して、施肥をして、1個ずつ植え込んで行きました。土の中で、「わたしシアワセ!」「これでこの世を生きられます」を連発しているでしょう。一週間も2週間も連発しているでしょう。
今日は曇っています。気温が16・7℃もあるけれど、寒く感じます。
ズッキーニの緑と白の種を2袋買って来ました、昨日。260円x2袋。で、昨日の夕方に、種蒔きをしました。小さな種蒔き用のポットに、1粒ずつ蒔きました。
夕暮れる時に、如雨露で水をたっぷり掛けました。目覚めが起こるでしょう、この数日で。
明るく朗らかな「うははうはは、おへおへあはは」の声が、(彼らに発声用の喉があれば。あるんじゃないのかなあ)発声されるでしょう。
垣根にシャガの白い小さな、可愛い花が咲き出しました。春です。嬉しくなります。嬉しくなれるときには、嬉しくならないと損をした気分になります。
シャガは、春の山に入ると山の小径に群落をなして咲いています。どんどん増えます。繁殖力が旺盛です。
そういえば僕はもう長いこと山歩きをしていませんね。杖を突いて険しい山道を歩くのを億劫(おっくう)がっています。肩を貸してくれる人がいれば少しは楽になりますが、提供者はいません。