1
おはようごじます。「ございます」が「ごじます」になった。これでもいいな。ちょっと変化して、斬新。変化とは、眼を新しくすることか。
2
7時起床。玉葱を切って味噌汁を作った。玉葱は畑で収穫して来たもの。小さいが捨てたくない。昨日、夕方、借りている北の畑へ行って、極早生と早生の玉葱を皆抜いて収穫した。一輪車に山盛りに積んで戻って来た。途中、犬を連れて散歩をしているご婦人に声を掛けて、玉葱を籠一杯もらってもらった。割と大きめのものを選んで。我が家だけではとても食べきれない。
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おはようごじます。「ございます」が「ごじます」になった。これでもいいな。ちょっと変化して、斬新。変化とは、眼を新しくすることか。
2
7時起床。玉葱を切って味噌汁を作った。玉葱は畑で収穫して来たもの。小さいが捨てたくない。昨日、夕方、借りている北の畑へ行って、極早生と早生の玉葱を皆抜いて収穫した。一輪車に山盛りに積んで戻って来た。途中、犬を連れて散歩をしているご婦人に声を掛けて、玉葱を籠一杯もらってもらった。割と大きめのものを選んで。我が家だけではとても食べきれない。
7
峯の色渓の響きもみなながら我が釈迦牟尼の声と姿と 道元禅師
釈迦牟尼世尊は悟道の人である。仏法正法を説かれている仏陀である。見えている山の姿そのものが、仏陀其の人の化仏の姿である。いな、峯そのものが仏陀として説示している。谷川の水が潺潺と音を響かせながら流れているが、それはとりもなおさず釈迦牟尼世尊、仏陀の説法の声である。
仏陀を見る汝は仏陀なり、仏陀の妙法を聞く汝は仏陀なり、汝尊し、と。それをいま此処でよろこべ、と。
6
諸仏がガンジス川の砂の数ほどもわたしのために出現されている。わたしが開眼をしないからだ。いつまでたっても仏陀の示される正法妙法に開眼しないからだ。
非正法、非妙法を見るために眼があったのではなかったのだが、わたしは百年過誤にのみ身を染めてきた。
9999999の間違った選択肢を選んできたとしても、最後の1が、仏智見に適うものであれば、安らかに死ねるはずである。
5
諸仏が仏智見を示して来ても、わたしにその用意がないと、それがそれとして見えて来ないのである。まずわたしが仏知見を見る眼を開いておかねばならない。そしてそれに肯かねばならない。そしてその実践の道を歩くようでなければならない。
そうでないことに現(うつつ)を抜かすゆとりなど、我が身にはないはずなのである。
4
迷妄の煩悩知見ばかりで、我が世が過ぎて来た。見ないでいいことばかりを見て、邪見に染まりそれでいよいよ迷いが深くなって来た。
仏知見では此の世はどう見えているか。そろそろそれが知りたくなってきた。諸仏がわたしにそれを迫って来る。開くべき眼を開け、見るべきものを見よ、見よ見よ見よと。
3
わたしは何かを探している。何かを求めている。しかし、その探し物は、わたしが生涯掛かって探すべきものなのか。求めているものなのか。違うのじゃないか。よしんばそれを探し当てたとしても、それは似て非なる紛い物だったとしたら? そういう心配が拡大してもいるのである。それで今日の日の安心が出来るのか。安心して死ねるのか。
2
大聖世尊とは、釈迦牟尼仏のことである。霊鷲山の山頂で法華経を説いておられる。いまも変わらずに。説法をなさっておられるのは何故であるか。わたしに仏知見を開かせるためである。わたしの眼が開眼するためである。仏知見とは、悟道された仏陀の智慧の眼のことである。
1
新元号令和の初日。今日は此処を味わってみたい。迷妄の我が闇路のあまりに深きゆえに、しばし、経典の示す灯火に照らされるところに我が身を置いておきたくなった。
*
「そもそも諸仏出世の一大事因縁は、衆生をして、仏知見(ぶっちけん)を開かしめ、衆生に仏知見を示し、衆生に仏知見を悟らしめ、衆生をして仏智見の道(どう)に入らしめんがためなりけり、と大聖世尊は示されぬ」
禅門の経典「宗門安心章」より
ぷふ。起きて2時間、いや、3時間かな。そろそろ眠くなって来ちゃったぞ。どうしよう。腹がへったまま、寝ちまうのもヘンだね。といって、朝ご飯はまだのようだし。いま、準備中なのかな、ちょうど。
雨は降っていない様子。見えていないけど、霧雨は降っているのかも。空の色は不穏。
午前4時には目が覚めて起きて来た。何しろ今日は記念すべき日。なんだからね。だから。寝ているのはもったいなくて。それで。ぷぷるぷう。上の目蓋が被さって来るよう。じわりじわり。重たい。