<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

「おじさん、ただいまあ」 老人に声を掛けてくれる若者がいた

2019年05月20日 16時24分45秒 | Weblog

 このまま梅雨に入ってしまうのかしらん? またしとしとと降り出してきた。霧雨なんだけど。畑に出て、伸び上がって来た胡瓜の蔓を支柱に紐で結ぶ作業をしていた。濡れると寒い。

と、道路の方からこちらへ呼び声。高く明るい声。いま下校中の高校生である。自転車を降りて、伸び上がって「ただいまあ」の挨拶を頂く。学校でいいことがあったんだろう、きっと。声が弾んでいる。此処は坂道、上り坂だから、自転車で上りきるのは難儀だ。「雨に濡れないうちに早くお帰り」とわたしは彼女を追い立てた。

このよろよろよぼよぼの老人に声を掛けてくれる若者がいたのだ。嬉しくなってしまった。

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死は人の一生の結論である 「死は不幸」の結論に疑問を挟む ラスト

2019年05月20日 16時20分03秒 | Weblog

あくまでも、自己評価の問題である。死は人の一生の結論である。だったら、おめでたい結論で締め括りたいと、高齢のわたしは思う。死を、押し並べて「不幸なできごと」にしたくない。頂いた御命である。それをお返しができたのである。

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などと述べてきたが、遺族にとっては死はやはり悲しい出来事だろう。現代は超高齢者社会である。100才以上の人が何十万人といる時代だ。死に対する評価も変化をしているはずである。100才以上の高齢者でも、「まだ足りないまだ生きたい」という生命欲望に終始しているのだろうか。

「もう十分生きさせて頂きました。お礼を申し上げます。わたしは幸福な死を死んで行きます」そういう結論の死に方もあるような気がする。

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死は人の一生の結論である 「死は不幸」の結論に疑問を挟む その4

2019年05月20日 16時14分56秒 | Weblog

死は、人の一生の締め括りである。結論である。死者本人は「わたしは満足しています」「悔いは遺していません」で締めくくっているかもしれない。そういう<満足した者の死><嬉しい死者の葬儀>があったっていいじゃないか。そんなふうにも思った。

涙を流して悲しむのが死者に対する礼儀なのかもしれない。別れを惜しむのが礼儀かも知れない。それを「立派に死ねてお目出度うございましたね」「幸福な一生を送ることができたあなたは幸福者でした」などと言っては失礼になるだろうか。

その日本人の死の流儀に従って、誰もが悲しんで死んで行かなくったっていいのじゃないか、とも思う。

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死は人の一生の結論である 「死は不幸」の結論に疑問を挟む その3

2019年05月20日 16時06分58秒 | Weblog

100年、人様のお世話になれたのである。それを後悔や不平で締めくくれるはずはなかろう。そんなふうにも勘ぐった。「死は敗北である」「死は不幸である」とされている。でもそうか。長く長く生き来ても、猶そうなのか。

(医療に関わる人たちからすれば、「死に至らせるのは医療従事者の敗北」という受け取りがあるのかもしれない。生だけが勝利なのかもしれない)

人は人様のご恩を頂いて生きて来られるのである。そのご恩を、敗北や不幸にすり替えてはいけないようにも思った。弔辞というのはあくまで遺族宛に言うことばだろう。本人に述べる弔辞というものがあってもいいように思えて来た。別れは辛い。最後の最後まで悲しんで上げると言うのが人情なのだろうが。

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死は人の一生の結論である 「死は不幸」の結論に疑問を挟む その2

2019年05月20日 16時03分09秒 | Weblog

天寿を全うした人もいるはず。長生きが出来た人は、もうそれで大きな幸福だったはずではないか。「それでもまだ生きたかった」かもしれないが、これだけの長さを生きさせてもらえたのである。

「これもそれも有り難うございました、死ぬまでの全部が有り難いことでした」の自己評価を下した方が、本人も安らかになれるのではないか。高齢に達して死ぬ者でも皆後悔を残して死んで行くのだろうか。そうでもないだろうとも思う。

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死は人の一生の結論である 「死は不幸」という結論に疑問を挟む その1

2019年05月20日 15時27分04秒 | Weblog

100歳の老人が亡くなった。葬儀があった。弔問客はみな決まって「お悔やみを申し上げます」という弔辞を宣べる。弔いだから、誰がいつどうやって死んでも、それは悲しい出来事なんだろうが、本人もそうなんだろうかとふっと思う。

遺族に対して「さぞお辛いでしょう」「悲しいでしょう」と哀憐の言葉を掛けるのは分かる。さて、しかし、一生の締め括りの死とは、はたしてそんなに悲しい結末なんだろうか。疑問だ。

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老(おい)一人今日日(きょうび)死のうと死ぬまいと

2019年05月20日 12時47分15秒 | Weblog

老ひとり今日日死のうと死ぬまいと山は春なり雲流しをり      薬王華蔵

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僕はこれから外出する 公民館まで

2019年05月20日 11時53分12秒 | Weblog

とうとう降り出した。気温も下がっている。半袖シャツの下着だけでは寒い。長袖を着込んだ。濡れる草木は、しっとりしてよろこんでいるだろう。

僕はこれから外出する。公民館まで。ここで詩吟の教室が開講されている。お師匠さんは女性の方。生徒は、僕を含めて3人。僕の他は女性。いずれ高齢者だ。お師匠さんのあとについて歌う。一人にされたら我流になってしまう。細かいところの調子がとれない。講座の時間は60~80分。女性陣はお喋りをされる。男性の僕はこれには加われない。話すべきことが見つからないからだ。しばらく辛抱をして帰ってくる。

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五月のわたしの20行詩 「春の大空」

2019年05月20日 11時44分05秒 | Weblog

 五月のわたしの20行詩 「春の大空」          薬王華蔵

 

春ツバメさん おはようございます

四月三日をわたしは生きています

春の大空も生きていますが

わたしもどっこい生きています

わたしが死にますと

春の大空もその場で死にます

此の世の万物はわたしの眼の中でしか

生きられないからです

わたしを愛している彼らは

わたしと心中を図ります

わたしはだから彼らを死なさぬよう

こころだけになったわたしの

その眼の中に彼らを匿っておきます

そうしますと死んでも

わたしがこころの目を開くだけで

彼らはたちどころによみがえれます

春の大空が広がっています

わたしはいまはそれを見ています

ブルーをミルクで溶かして

うっすら薄くしたような色合いです

 

けせてねへえ

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どうなってしまうのだろう 我が国の農業は 田舎の農家は

2019年05月20日 11時29分26秒 | Weblog

佐賀は平野。平野に麦が熟れている。遠くで、刈り取りのコンバインの音がしている。雨に濡れると、芽が出てしまう恐れがある。田んぼに水を引いて、稲を植えるための準備もしなくてはならない。水を引くには雨が必要になる。田圃には大型機械の音がしている。

いまは農家の方は希有だ。集落には専業農家の家なんてない。息子はあとを継がない。残っている人はみな高齢者。農事を進めるにしても、高価な農業機械を購入しなければならない。それに見合う分の収入は、小作農には、見込めない。農業も大型化している。ほとんどが農業プロ集団に委託だ。どうなってしまうのだろう、日本の農業は。

 

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