<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

一日一日が黄金の日々

2017年04月30日 08時42分59秒 | Weblog

そんなこんなで老爺の一日が暮れている。一日一日が黄金の日々である。といって、それだけの価値を発揮して生きているかとなると、怪しいが。ある日お終いの日が来るであろう、間違いなく。それも間近に迫っているであろう。それ故にこそ一日の充足が、西の地平に落ちて行く太陽の、眩しいばかりの大きな輝きに似ている。しかし、老爺が日々遣っていることは高々土弄りである。でかいことはしていない。お金になることでもない。人様に自慢に出来ることは皆無だ。花の苗や野菜の苗を植えて成長を見守って収獲をして楽しむ。それだけのささやかな作業に尽きている。静かな老いの日々の充足が、もしかしたらその内実、若い頃のそれの数十倍も大きく膨らんでいるような気もする。今日は大型連休2日目。何処にも行かない。昨日耕して置いた畑に不断草の種蒔きをするつもりである。

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草花の旺盛な生命力に感心すること頻り

2017年04月30日 08時35分19秒 | Weblog

☆ 桑の木の下に三段四段と積んでいる薪の、僅かな隙間から鹿の子ユリが伸びてきているのを発見。その不撓不屈の生命力に感心した。思わず「偉いぞ偉いぞ」の声が出た。これは数年前、枯れた糸杉を倒してもらったときに、適当な大きさに切ってもらったその跡形だ。感心をしたついでにその太い重い薪をみな、垣根の奥へ移動させた。長さ50cm、円形の直径30cmほどあって、持ち上げるのさえ手こずった。細腕のユリが発揮した不撓不屈の精神を、こちらも少しばかり発揮したくなった。薪は、数年来の雨風に当たって、もうずいぶん腐っていた。鹿の子ユリの全身が現れた。ほっとしたことであろう。日に当たっていないので途中の茎が蒼白にしていた。これからの成長を見守ってあげたくなった。施肥もしてあげよう。

☆ その隣の白南天の藪下にエビネ蘭が数株咲いていた。これも株数を大きく増やしていた。やっぱり偉いなあと思った。そこにそうして幾年を経たであろうか。蔽っていた回りの南天の枝を、剪定鋏で切って風通しをよくしてあげた。ヤエムグラの茂みも取り払った。作業しながら、草花の旺盛な生命力に深い感動を覚えた。

 

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