明日は宮崎県小林市に降りて行こう。えびの高原を東の方へ降りて行けば小林市に辿り着くだろう。そこで何をするか。ことさらするべきことはない。ただドライブをして咲いた桜の花を愛でるばかりだ。温泉地が見付かれば、温泉に浸かろう。それから北上して北上して高千穂へ来たら、そこで宿を探そう。このところ赤い色の神社が磁力を放っているので、これを見つけたら立ち寄ろう。高千穂には高千穂神社がある。赤い色はしていないけれど。長い石段が続いているが、ゆっくりゆっくり登って行こう。無目的の旅である。何かを期待しているのでもない。行き当たりばったり。得るものもなくていい。ふうらりふらりしているだけでいい。
えびの高原荘に到着した。ここは山の上の国民宿舎である。周囲には堂々とした赤松の生い茂る林が広がっている。ここもやはり雨。登ってくる途中は霧が深くて前方が確認できないほどだった。麓の町、京町温泉郷で湯を浴びた。入浴代は200円。番台もなかった。浴槽が二つあった。片方は長方形。もう片方が半円形をしていた。湯の温度は42度ほど。ちょうどよい温度だった。
熊本県の高速道路、熊本市を過ぎた緑川休憩所で仮眠をとることにした。宮崎県のえびの市に向かっている。眠くて仕方がない。運転ができない。平手打ちを何度食らわしても改善しない。事故を起こしてはならない。小雨が休憩所の周囲の桜並木を暈かし絵にしている。ああ、もう目を開けていられないZzzzzz....
ワクワク((o(^-^)o))。ワクワクワクワクワクワクしている。明日太陽が昇ってきたらあんなことこんなことをしようとワクワクワクワク。赤い里芋を今年は北の畑に植えてみよう。種から育てたフカネギが移植ができるまでに育ち上がった。これを西の畑に植えてみよう。でもまだ夜中。夜中の3時。しばらく寝よう。まずは目を閉じて眠ろう。
明日の僕の仕事はこれ。ピーマン4株と中長茄子4株を植える。畑を耕してふかふかにして植える。肥料をして水をやって、支柱を立てて紐で結びつけ。ある分のありったけの愛情を注ぎ込んで。早く朝が来ないかなあ。早く太陽が昇って来ないかなあ。明るくならないかなあ。そして一日中それを眺めて、ひとりにんまりして暮らす。「生きているというのはこんなにも楽しいこと嬉しいことだったのか」という台詞を舞台に上がった役者のように何度も口にして。大声に出して。観客の神さまに聞こえるような大声を出して。
阿弥陀如来は来化(らいけ)す。ここに来られている方が阿弥陀如来である。ただし、変化(へんげ)されている。さまざまに変化されている。風にも光にもなっておられる。花にも虫にもなっておられる。星にも月にも変化しておられる。もちろん人にも仏にも。ともかく来化しておいでになる。見守っておいでになる。導いておいでになる。力を与えておいでになる。懸命に、ひたすらひたむきに、わたしを生かしておいでになる。そういう方を敬って感謝して名をつけたら、それが阿弥陀如来さまとなった。ここに遍満しておられる方が阿弥陀如来である。遍く満ち満ちてしかもわたしと同体になっておられる方が阿弥陀如来である。それを思ってこの夜中にひとり静かに、涙になる。
生きているとはどういうことなのか。どういう状態を指しているのか。見えているのはわたしの体だろうから、ああ、生きているというのは、それは体が生きているということだろうなと思ってみる。では、体だけで生きているのかしらん? そうではないはず。こころが付き添っているはず。でも、その付添いさんは見えない。見えないから生きていないかというと、そんなことはないだろうと思う。目を閉じると体も体の付き添いさんもどちらとも無実態になる。世界創造のときの混沌になる。そこであまたの創造が繰り広げられる。あまたの微粒子たちがぶつかり合い、一つに溶け合い、反発し合い、収まりに至る。その様子をつぶさに見学する。これは楽しい。生きているというのはどういうことなのか。どういうことを指しているのか。体とその付き添いさんを見ているその当人は誰なのか。生命体の成り立ちは一筋縄では行かない。複雑怪奇だ。生きているというのは複雑怪奇なことなのだ、とも思う。
僕は神様ではない。神様ではないのに、神様になってみる。神様だったら、どんな目をしてご覧になっておられるだろうか。それを追体験してみたくなる。それで目を閉じて神様になりすます。想像の世界に足場を移してみる。あれこれあれこれ想像を駆使して神様のこころを演出してみる。こんなだろうか、こんなだろうかとあれこれ。着せ替え人形のコスチュームのように。着せ替えてみる。なったことはないから、神様のこころはなかなか定まらない。昨日、蕗の畑の草取りをした。アイヌの神様は蕗の葉の下に立って、人間を見上げておられるのだそうな。行く人行く人を見上げておられるのだそうな。蕗の葉の下におられるくらいだから、きっと小さな神様なのだろう。草取りに疲れて一時休憩をしているときに、目を閉じてアイヌの小さな神様になってみた。そしてその神様に僕を会わせてみた。
深く土に埋めておいたジャガイモが土を割って発芽して来る。青々と幾つも。地上界まで背伸びして来たところで、葉を開く。土を割ってここまで上がってくるところを、僕は想像して、僕は感動する。産道を通り抜けて来る赤ん坊のようだと思う。硬い土だから、これを割って進むには、突き上げた拳もそれ以上に硬く強くなければならない。トンネルを掘る掘削機械の先端部分の金剛のようでなければならない。それだけのエネルギーを振る活動させねばならない。芋の小ささの、いったい何処にもそれだけの凄まじい意欲と行動力があったのか。その潜在能力に脱帽をする。地上に出て来た茎や葉は、しかし、いかにも柔らかそうである。大きな仕事をやり遂げた達成感でほっかり一息ついているからかもしれない。「ジャガイモさん、あんたは偉いなあ偉いなあ」と声を掛ける。
牡丹の蕾が膨らみ始めている。薄いピンク色。鉢植え。玄関先に飾っている。明日にも開くかもしれない。黄色がこれに続いている。その隣には西洋シャクナゲがあり、これももうそろそろというところ。赤と色が混じり合っている。眺めているだけなのになんだか嬉しい。蕾のままでもいてほしいし、思い切り開いてもほしい。夜中、目が覚めて、布団の中でそんなことを思った。夜が明けたら一番に見に行こう。決してわたしが咲くわけではないのだけど、まるでわたしが咲き出して行くように思えるところが不思議だ。人間生きているといろんなことが楽しいことになる。実際は自分を離れた事柄なのに、そこに自己投入をすることで、自己がふんわりと拡大をするのかもしれない。