わたしにはそうとは思えないときもあるけれども、わたしはいつもよい方へよい方へと導かれています。これはわたしの采配によるものではなく、大いなる宇宙の意思によっているものです。だから、今日この時この場所もそこに繋がっているものであって、この大きな一本の道は宇宙を貫いているものです。これはわたしの理解の範囲を遙かに遙かに超えているものなので、わたしには納得が行かなくても、それでもそれは宇宙の是であり続けているので、不安に思うことではないのです。そこを通り抜けて行くことでよりよい次の世界が開かれて行きます。わたしは常に次の成長へ、次の発達へ、次なる向上へと向かっています。
僕たちは進んで行きます。ネックストワールドへ、ネックストワールドへと進んで行きます。その都度後ろを振り返って名残惜しくしていますが、着いたところが期待を遙かに超えているので、そこからはずっと有頂天が続きます。途中途中も驚きの連続です。なにせ新しいこと嬉しいことばかりなのですから。あんなに別れを悲しんだのに、悲しむことなんかちっともなかったんだという結論に行き着きます。ネックストワールドは何処までも続いています。どんどん歓喜の度合いが膨らんで行きます。僕たちの姿もそれに合わせるようにして変化をしていきます。同じ姿形はしていません。同じ人生観・世界観なんか維持していけません。どんどん価値観の脱皮が繰り返されます。後戻りなんかしている暇はありません。地球を後にした人たちを残っている人たちが悲しんだり悔やんだりしますが、あれはまったくの見当違いです。独り善がりに過ぎません。行ってみたらすべてが解明されます。僕たちはともかくいつも前へ前へと進んでいきます。守られ支えられ導かれながら安全に進んで行きます。心配をすることなんかありません。
こんなふうに死後世界を想定してみました。楽しく想定してみました。悲観的にではなく楽観的に想定してみました。
僕はコトバたちに励まされる。そこでますます励まされたくなってコトバを紡ぎ出す。蚕が口から糸を引いて繭を紡ぐように。コトバたちはその使命を果たす。立派に果たす。そこで僕はあることないことみなない交ぜにしてコトバたちを吐いていく。コトバたちがうつくしいおんなの人までをも造り出す。僕はほしがっているものを次から次に造り出していく。僕はイルカショーの水族館員のようにコトバたちに鰯を放り投げる。そしてイルカのコトバたちの頭を撫でてやる。イルカは甲高く鳴いてお礼を言う。
野鳩が来ている。庭に下りてきている。しきりに歩き回っている。ベランダに置いてある自転車のハンドルに乗って遊んでいるのはもう少し小さめの春の渡り鳥。普通は見かけない小鳥。何処が面白いのだろう。自転車のあちこちを飛び回っている。書斎の僕をときどき見ている。飼い猫に飛びかかられなければいいが。雀は隣家の屋根の雨樋を出たり入ったりしている。四月の光も小鳥のように跳ねている。僕は生きている。死んでいたら小鳥たちの遊ぶこの風景を眺めることも出来なかっただろうが、僕は生きている。小鳥たちの動きを嬉しそうにして眺めている。
我が家の庭の南の端っこにある古木の桜はまだ開花しない。2階の屋根を越す大木だ。まだまだ、まだまだといいながら四月の青空とにらみ合いを続けている。冷たい風がときおりヒューイヒューイと通り過ぎて行く。相撲はなかなか成立しない。
おしろいを/ぬったおんなのひとが/僕を通り過ぎる/あとにはおしろいが/おちている
それをたどりたどり行くと/そこにやさしい泉が湧いていそうで/長い間干涸らびたままの期待の雲が/そこで弾む息をしている
おしろいをぬったおんなのひとは/一度通り過ぎただけで/もう二度とそこには現れない
おちていたおしろいを/風が連れ去ってしまうと/小径の端っこの蒲公英が/僕を真似ているのだろう/遠く浮かんだ雲を見上げている
四月/僕はおんなのひとを/想っている
僕にはおんなのひとなんかいないのに/いないおんなのひとを/想っている
空豆の花が咲き出したので/僕は空豆の花になる/花になって想っている
口がない花は/そこでしずかに目を閉じて/ただ想っているだけである
四月の青空が/五月の青空を/慕い続けるように/空豆の僕は/そこに立ち尽くしている
畑の畦道に光が降ってきて/うつくしい光のようなおんなのひとを/両手の指で捏ね上げている僕
そういう僕が一人いるだけの/清明な四月
おんなのひとは/うつくしい/うつくしいおんなのひとは/雪のように僕に降って来る
降っても降ってもしずかだ/しずかなままで/そこでやさしくなれる
おんなのひとは/うつくしい/うつくしいおんなのひとは/うつくしい雪のように降って来る
降って降って/僕の一山をまあるくすっぽり包んでいる
僕の思念の中では/だから/おんなのひとは/灯りのようにまばたきをしているくせに/いついかなるときも/しずかでやさしい
空豆の草丈が伸びてきた。葉っぱに隠れるようにして節々にたくさんの花房を着けている。青紫いろ。あふれるようだ。ああ、春もずいぶん深いところへ移って来ているんだなあ、と思う。小さい頃にこの葉っぱをす脱いで手の平に置いてパチンと叩くとたちまちにして青臭い匂いが飛び散っていた。そういう遊びをしていた。あれはいったい何の遊びだったのだろうか。
今日はもう4月2日になっている。孫たちは明日は東京へ帰って行ってしまう。3月27日に出迎えてからあっという間に1週間が過ぎていた。明日の午後には空港まで送る。出来たてほやほやの中学1年生と小学4年生は来る時と同じように両隣に座りトランプのウノをしながら飛行機の旅を楽しむことだろう。
南向きの窓から青空が見えている。朝の空気は冷たい。孫の一人は起きてきて炬燵の中に入り暖を取っている。漫画本に夢中だ。今日は何処に連れて行ってあげよう。神野公園あたりに行くのはどうだろう。桜の開花は遅れに遅れ、まだ一分咲きにもなってはいまい。ともかく日が射さないと寒いだろう。2回目のサイクリングをするという策もある。菜の花の咲き乱れる城原川の土手道を南へ南へゆっくり走って行く。すると家具の町大川に着く。片道だけでたっぷり2時間は掛かりそうだ。この老爺の力がもつかどうか。あやしい。