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<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

そうと分かっているのなら

2015年09月11日 14時25分32秒 | Weblog

そうと分かっているのなら、お互い仲良くしましょうや。

喧嘩や諍い事はなしにしましょうや。嫉み恨みもとっぱらいましょうや。脅し唆し騙しもよしにしましょうや。この先ずっと長くいっしょなんですからね。

わたしたちはみんなこの世を死んであの世に生きて行くことになるんですからね。ずっとお仲間ですよ。

この世を死んだらこの世のルール、威張れる人は威張るというルール、蔑む己を蔑み通すというルールは通用しなくなるんですからね。

お互いずっと平等で平明で自由になって互を尊敬し合うようになるんですからね。

そうと分かっているのなら、今のうちから手を繋いでおきましょうや。ねえ、この世のラストまで仲良くして暮らしましょうや。おっと、それから先がいよいよ本番のレースでした。

これはしかし、次の世のルールに従って行きます。ここは真如界ですから、この世のような自利利己のルールが適用されていません。真反対の他利利他のルールってどんなものなのでしょう。

その先はその先へ辿り着いてからになりますが、ねえ、今のうちからやれることがありそうにも思えます。

わたしたちはみな末代までいっしょの同胞、兄弟姉妹、向上して行くいのちの旅人同行です。それが分かっているのなら、いまのうちからお互い仲良くして暮らしましょうよ。憎しみ合わずに敬い合って行きましょうよ。

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わたしたちは一人残らず、向上して行くいのちの旅人、同じ道を行く同行でした。

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死は平等で無差別で明るくて賑やかだよ

2015年09月11日 14時08分18秒 | Weblog

だねえ。死んでしまうとなんでもゼロになってしまうんだね。この世のどんな勝利品もあっさり置いてこなければならない。またこれでみんな誰でも、偉かった人も威張っていた人も全然そうでなかった人も、大金持ちも貧乏してきた人も、手ぶらのゼロ地点に戻ってくる。そしてまたヨウイドンのスタート。持ち物なしだし、背負うべき荷物なしだし、軽快だし、強要された死に順応したものばかりということで一体感があるし、童心に戻ってわいわいがやがやだよね。ふふ。死が平等・無差別であるってこと、みんなが横一列になってがやがやの賑やかな再スタートであるということ。これをよろこぶ人ばかりじゃないかもしれないけど。

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何をするのも一人で静かで無言

2015年09月11日 13時48分47秒 | Weblog

2時になった。さあ、そろそろ外に出ようか。農作業用蚊取り線香を携えて。東脇の花壇は日陰に入って来るころ。大きめのプランターがかれこれ10個ほど放置したままになっているから、まずはここの草取りをしよう。土作りをした後には秋野菜の種蒔きを続けよう。秋野菜の種類は豊富にある。種もまだふんだんに残っている。これ以上寒くなってくると種が発芽しても茎や葉や根の成育が遅くなりそう。それを2時間ほどしたら休憩しよう。といっても秋空を仰いでしばらくぼんやりしているだけだけど。休憩の後にサイクリングに出掛けよう。今日は遠出はすまい。昨日やりすぎてしまった。何をするのも一人で無言だけど、それもなかなかに味わいがある。

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風船はもう飛べなくなってしまいます

2015年09月11日 13時05分14秒 | Weblog

泣きたくなるのでございます。ほろほろと泣きたくなるのでございます。日頃は大鬼のように目を剥いて威張っておりましてそんなことは断じてないのですが、その大威張りが何かの拍子に空っぽになってしまうときがございます。ふくらんで空を飛んでいた風船に穴が開いてしまったらもう飛べなくなってしまうのでございます。大威張りが萎んでしまったあとの空虚さにはもう耐えられません。

仏光照曜(ぶっこうせうえう)最大一/光炎王仏となづけたり/三途の黒闇(こくあん)ひらくなり/大応供(だいおうぐ)に帰命せよ/   親鸞聖人「ご和讃」より

阿弥陀仏の光明の照曜たることは阿弥陀仏のさまざまな働きの中でも最大一でございます。あかあかと耀いてわたしたちを照らしていてくださいますから、こうでなくてはならないはずでございます。だから、最大一の光炎を持つ仏の王、光炎王仏と名づけられているでございます。

この光炎の明るさによって、わたちたちの終の棲家である地獄・餓鬼・畜生の三途(三世界)を覆っていた黒闇が、まるで霧が霽れて行くように、その帳を開かせて行くのでございます。わたしたちはこれで長い間の迷妄から救われていくのでございます。従って、それだけの供養を受けるに相応しいこの阿弥陀仏に帰命をしていくしかないのでございます。

こうしてわたしに丁寧に親しく厳かに朗読をしてくださったのはいったい誰だったのでしょう。いずれ、天界の有頂天あたりの菩薩さまであったに違いありません。どうしてわたしなぞのところへ来て仏の法をお説きくださったのでしょう。

朗読を聞いた後にも、また泣きたくなってしまいます。ほろほろと泣きたくなってしまいます。矢をつがえ刀を振り上げて、威嚇し濁世(じょくせ)の戦をしていた者が、ここへ来ると矢も尽き刀折れてしまいます。

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死出の旅をするときには足爪は伸びてこない

2015年09月11日 12時43分58秒 | Weblog

いつまでも旅することの爪を切る     種田山頭火

これはちゃんと575の音韻を守った作品だ。それがいい作品なのかそうでないのか。どこが決め手になっているか。知らない。この句は、すらりと流れて行かない。途中で流れて行かずに柵(しがら)みにかかった木の葉、言の葉がある。2句目の「の」だ。

作者は爪を切っている、旅をしている途中だ。だから、場所はおそらく木賃宿であろう。時間は湯に入った後、夕飯も酒もすんで、いざ寝ようとしてふっと我が足先の爪が布団に絡まってしまった。相部屋の相手から爪切りを借りて爪を切ることにした。と筋を追ってみる。

でもどうも不安定だ。二句目の「の」はどこに懸かるのだろう。すんなりといかないところがいい、という人もいる。喉に骨がひっかかるとこれを取り除かねばならない。そのための時間を割く。これが観賞に繋がるらしい。

おれはいつまで旅をしていくのだろう。彼はふっとここで立ち止まる。旅を終えたいか。いやそうではなく、この旅が気に入っているので旅を続けたい。あちこち旅したところで文学の仲間たちが集まって来てもてなしをしてくれることもある。

その先には死出の旅がある。この旅には爪は要らない。ということは、爪が生えてくるということが生きて旅をしているという明白な証ではないか。彼はここまで考えを辿ってみて安堵した。彼はいそいそとした気分になって堅い足指の爪を切った。

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鰹節を丼の下に敷く

2015年09月11日 11時47分46秒 | Weblog

さ。お昼になった。冷たい素麺はよして、釜上げのアツアツのうどんにしようか。鰹節一袋を丼の下に敷く。醤油をそこへ垂らす。釜から上げたばかりのうどんを載せる。掻き混ぜる。生卵を投じる人もあるが、今日はあっさりとがいい。菜は? 菜はない。蓬入り酒饅頭が1個半残っている。これ(半個)をデザートにしよう。一人の昼食を一人で用意していただく。もちろん後片付けもして散らかさないでおく。

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なあんにも分かっちゃいないのであります

2015年09月11日 11時14分43秒 | Weblog

へえ。なあんにも分かっちゃいないのであります。御託(勝手気ままな言い分)を百千並べても並べてもなあんにも分かっちゃいないのであります。

じゃ、列べなければいいじゃないか、くだらない無意味な御託なんか。(さぶろう、答えに窮す)

とそこへ山頭火の自由律俳句がしゃかしゃかとおん出て来る。

其中雪ふる一人として火を焚く    種田山頭火

句読点が打ってないから何処で切って読めばいいか。これも分からない。

其中/雪ふる/一人として/火を焚く   

都合4節がある。どれがどれにかかっているか。倒置法なのか。こう並べ替えてみる。省略もある。省略を補ってもみる。

一人を一人として肯(うべな)って火を焚く。火を焚く其の中へ雪がふる

「独死独生 独去独来」 山頭火は禅宗の僧だからこの句を身近に引き寄せて暮らしていたはずだ。

(人は皆)一人で死ぬ/一人で生まれる/一人で去って行く/一人でやって来る/

だから何処まで行っても一人だ。どう覚っても一人だ。覚らなくても一人だ。僧になってみてもならなくても一人だ。だったら、一人に徹するしかないはずである。徹するとはどういうことか。独死の自己を肯うとはどういうことか。

雪がしんしんと降ってくる。山頭火は火を焚いて焚き火にしている。火の中へ降って来る雪はすぐに姿を消してしまう。降っても降っても消えてしまう。おれの一生もこうだったんだ。こうしたああしたと自慢をしても跡形もない。読経をしても念仏しても行脚をしても坐禅をしても、跡形もなく消えている。それでも火を焚く。煩悩欲望の火を焚く。一人がいる限り一人を温めるための、その火を焚く。諸行無常。一切の物は止まることがない。それでも其の中に雪が降ってきて雪は消えて行く。

へえ、なあんにも分かっちゃいないのであります。煩悩の火は燃えて燃えて、其の中へ雪は降って降って来るばかりでございます。

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これで堂々生きていることとする

2015年09月11日 10時51分57秒 | Weblog

さぶろうは三尺ササゲ豆の長く伸びた蔓を見ている。蔓は捉まるものがなくなって空中を踊っている。風が来る度にふうらりふらりとして踊っている。踊っているとしか言いようがない。下手な踊りだ。太鼓でも叩いてやればもっとうまく踊れるかもしれない。三味線でも弾いてやれば音頭にして踊れるかもしれない。

さぶろうの奴はこれで今日を生きている。そんなことくらいで、果たして、生きていることになるか。疑問と言えば疑問だが、これに甘んじている。どうしていれば生きていることになるか。どうしていなければ生きていることにならないか。分からない。

死ぬ人もいる中で死なないでいるが、死なないでいるということはどんなことを指しているのか。どんな暮らしをしていればそれに相応しいのか。さぶろうはたまたま死なないでいる人の群れを生きているが、真実は毫も分からない。

誰もがいずれ死ぬ身だ。死んでみたらこの疑問が氷解するかもしれない。だが、今は分からない。これで生きているということにして、さぶろうは落ち着いてみる。三尺ササゲ豆のふうらりふらりの、下手な踊りを観賞することで堂々生きていることとする。長月9月のとろんとした日が地上一面に平等に降っている。

<番外>

余談だが、偉い人はこうじゃないと思う。お金持ちはこうじゃないと思う。威張っている人はこんなくらいじゃ威張れないというだろう。名誉を勝ち得ている人はまったく違っていると思う。堂々のし具合がまるで違うだろうと思う。勝ち組に徹することができた人は三尺ササゲの踊りなんか見たくもないだろう。

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糸モズクを買ってきて喰う

2015年09月11日 10時41分03秒 | Weblog

わざわざ唐津のお魚村まで行って糸モズクを買ってきた。往復3時間以上をかけて。160円を3袋。さぶろうはこのミシン糸のように細い細いモズクが好きだ。酢と醤油で味わって食べる。生ものだから長くは日持ちがしない。急いで食べ終わらなければならない。ときに塩モズクが売ってあることがある。これを水に晒していただく。これはやや安い。これも重宝する。あの細い細い糸モズクを漁師さんは海からどうやって掬って市場に持ち込むのだろうなどと思いながら、さぶろうは昨日早速夕食にこれを平らげた。酒がいっそうおいしくなった。

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ふるさとを足裏であじわって歩く

2015年09月11日 10時27分29秒 | Weblog

雨ふるふるさとははだしであるく     種田山頭火

雨以外はみな平仮名である。平明だ。しょぼしょぼと雨が降っている。彼の故郷は山口県防府市。錦を着てのご帰還ではない。しょぼくれた僧衣を着て無一文で疲労困憊をして舞い戻ってきただけだ。だが、ふるさとは妙に懐かしい。懐かしくあたたかい。あたたかいふるさとの土、平仮名のやわらかなふるさとを足裏で噛みしめたくなって、山頭火は裸足で歩いた。破れた笠からはしとしと雨漏りがした。脚絆に泥がぴちゃぴちゃ跳ねた。童心がそれもこれもよろこんだ。

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