ほんとうはどうなのか。分かったと思っていても、それがほんとうだったかどうかは分からない。見たと思っていても、ほんとうを見たかどうか、それも分からない。ほんとうのところは全然まるっきり見えてなかったかもしれないのだ。
南十字星の方角に望遠鏡を定めておいてそれで北斗七星を見たと思う場合だってある。あるはずである。まったくの見当違いをしていながら、それで正解を得たと思い込んでいる場合だってあるはずである。
人間の眼は神々の姿を見ることはできないかもしれない。見たとしても、南十字星の方角に北斗七星を探し出したとしているような、そういう種類の誤りがないとは言えない。
仏陀の教える法を我が目で確かめることなどはできないのかもしれない。死のほんとうの成行を見定めることなどはできないのに、死を恐怖と見て悲しむけれども、それはまったくの見当違い、お門違いであるかもしれない。
まるで違った方向に視点を据えていればまるで違ったものしか見えないのだから。
死はもっともっと明るいもの、燦然とかがやくもの、人間の勝利のようなものなのかもしれない。人間が生きるというのはほんとうはもっと違った意味合い、まったく新しい意味合いを隠し持っているのかもしれない。