<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

僕らはみんな魔法使いを生きて来たのだった

2015年09月17日 16時12分17秒 | Weblog

「やりたいことはみんなやれたさ。そうだよ、やりたいと思っていたことはなんでも」

僕らはこの台詞を言いたくてたまらないのだ。

 そして実際そうなっているのだ。

僕らが心底やりたいと思っていたことはなんでもやれてこれたのである。

やれなかったこと、それは、やりたくなかったことであるか、あるいはやらなくともいいことだったんだ。

僕らはみんな魔法使いを生きていたんだ。そうさ、見事な魔法使いをね。

仏教の「所求円満して歓喜信受す」はこれを教えている。

求めるところはみな円満したり。ただ歓喜して信受すれば、如実にして如実来なり。

吾は唯(ただ)足るを知る者なり。足るを知ればことごとくみな円満成就す。

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こうして僕らは仏陀の法を見事にこなしてきたのだった。しかもみんなが無意欲にして。

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仏陀の法って? たとえば、澄み切った大空のことさ。

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今日の秋の空のことさ。あれは仏陀の法という魔法使いが魔法をかけていたものだったのさ。

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秋の大空澄み渡る。そしてこれがまさしく僕らがやりたくてやりたくてならなかったことだった。

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こうして僕らはこれだけのことでうっとりとなってこの日を過ごした。

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いつでもこうだったらなあ

2015年09月17日 16時02分05秒 | Weblog

胸がすっとした。溜飲が下がった。ワールドカップ日本男子バレーボール勢の快挙に酔ってしまった。なにしろ、あっさり3セットで勝ちを決めたのだ。相手はアフリカの強豪チーム。それをものともしなかった。強いのなんの。どの選手もきらきら光っていた。打ってよし守ってよし。それが決まる決まる。相手を翻弄した。いつでもこうだったらなあ。オリンピックのブラジルまでまっしぐらなのになあ。

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おいしいご馳走は少しだからおいしいのだ

2015年09月17日 15時47分18秒 | Weblog

ぷ。昨夜、ビデイオの録画再生をして(これまでは再生技術を取得していなかった)、中村吉右衛門主演の「鬼平犯科帳」を立て続けに3本も見てしまった。広告は飛ばし飛ばしにしながら。それでも見終わって寝たのは夜中の12時だった。さすがに飽いてしまった。おいしいご馳走も少しだけだからおいしいと感じられるのだ。それを3膳も食べたのだから、そうなるに決まっている。で、今日は昼間っから眠気を覚えていたのだ。運転中もどうも変だったのだ。さっき、ぐいいと深い眠りの井戸の底に吸いこまれてしまった。もう大丈夫。おやまあ、外はお天気が崩れてきたみたいだ。黒い雲も出て来て遠くで神鳴りさんの音がしている。こうやってこのまま一度に崩れると5時過ぎの予定をしているサイクリングはあやうい。

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半分以上も残してしまった

2015年09月17日 14時27分38秒 | Weblog

外に出て日に照らされていると熱くて汗を覚えた。蕎麦セット(約1100円くらい)を食べてきた。蕎麦ジュースが先ず出た。それから蕎麦の若い芽立ちの生葉を胡麻ダレをかけて食べた。最後に盛りそばだった。僕も弟も半分以上を残してしまった。僕は直前にパンを囓っていたからだ。弟は、あまり食べられないけれど、能く霽れたこんな秋の日にあちこちに行けるのが楽しいようだった。途中道の駅風なところに立ち寄った。それから帰宅した。費やしたのはほんの2時間半ほどだったのに、疲れた。

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時間や空間に隔てられることはない

2015年09月17日 11時18分36秒 | Weblog

霊山(りょうざん)の釈迦のみ前に契りてしことな忘れそ世はへだつとも   沙弥良寛禅師

霊山は印度の霊鷲山(りょうじゅせん)のことである。ここでお釈迦様が法華経を説かれた。紀元前のことである。だが良様はその渡ったこともない印度の、訪れてもみたこともない霊鷲山で説法をされたお釈迦様にお会いして約束をされたと主張してある。お釈迦様の目の前で「わたしは法華経を弘通(ぐつう)いたします」と契られたというのだ。それを忘れてはいけない。自堕落をしてはいけない。幾百年の時の世を隔てて、ここ新潟の国上山の五合庵にいてもそれを忘れた生活をしてはいけないと自戒をされている歌である。

さぶろうは50歳の時(まだ両脚麻痺をしていなかった)にこの霊鷲山に登っている。それほど高い山ではない。山頂には説法の遺跡が残っていて印度の仏教僧がここを守って灯明を灯していた。さぶろうはお釈迦様に平伏した。五体投地して礼拝した。逢えたことをよろこんだ。お釈迦様はここで永遠の仏として説法をしているから、逢いたくなったらこの霊山浄土(りょうざんじょうど)に来よと諭してあるのだ。さぶろうは今生で釈迦牟尼世尊に逢えたのである。大きな大きな感動であった。

良様は「どれだけ世を隔てていようとも」と言われる。霊山でお釈迦様に会ったとされている。その御前で法華経弘通を誓ったとされている。法華経を信じる者は時間や空間に隔てられることはない。それを自負自戒しておられるのだ。法華経は仏陀の説法である。これを聞いている者は仏陀に遭っているのである。

死が隔てるということもないのだ。それが法華経の信者の信である。死が霊鷲山を隔てることもなければ、死が釈迦牟尼世尊を隔てることもない。法華経はずっとここにあるのだ。法華経を読む者はいつも霊山浄土にいて釈迦牟尼世尊に逢っているのだ。死してもなお生きて法華経のご説法を聞いているのだ。そういう堅固な信を良様はお持ちだったようだ。

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取り直しでもよかったんじゃないのかなあ

2015年09月17日 11時07分22秒 | Weblog

昨日の大相撲。大関の豪栄道、稀勢の里の相撲二番立て続けに物言いが付いた。写真判断でも微妙だった。二人の日本人大関が勝ち名乗りを受けたけど、どうだったかなあ。取り直しでもよかったんじゃないかなあ。外国人に不利だなんて思わせたら嫌だよ。二番ともなんかすっきりしなかった。

 

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これから弟と蕎麦を食いに

2015年09月17日 10時59分10秒 | Weblog

さ、そろそろお昼近く。今日は弟といっしょに三瀬の山奥にあるおいしい蕎麦屋さんへ蕎麦を食いに行くことになっている。弟はあれこれよく食い気を起こす。食べてもほんの数口なのに。ともあれ、どんどん元気になっていく。嬉しい。友人のK君も同道してくれるらしい。行き着いたら、「本日休業です」なんて札が懸かっていたら嫌だよ。

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新しい未知世界が顔を出してくるよ

2015年09月17日 10時36分55秒 | Weblog

おまじないね。これ、洋の東西を問わず、古来からたくさん使われてきたようだね。非科学的だからといって抹殺する向きが多いけれど、でもね、まんざら捨てたもんじゃないんだ。捨てずに今日の現代までずっと引き続けられてきたのにはそれなりの訳があるのさ。呪(まじな)いは言葉の力の活用。言葉にはマジカル・パワー(霊力)が籠もっているのさ。これを使うとね、こころの活動範囲が広がるのさ。いままで5ヘクタールだった耕地(耕してきた畑)がその10倍くらい、あるいは100倍くらい、信じて使った分だけ広がるんだ。使っていい畑が広がるんだ。(ということは、これまではまるっきり使わないできたってこと)ふううん、そんなことだったのか、と思うことが多くなってくる。楽しくなってくるよ。この世は理屈理性合理の世の他にも、さまざまな不合理な世が重なり合った重層構造をしているんだ。ヒラケゴマ(開け胡麻 オープンセサミ)! 遊んでご覧よ。 新しい未知世界が開かれてくるよ。そんな世界なんてないと断じてきたのに、新しい未知が顔を出してくるよ。その結果、なあんだ、自分というのはこんなにしっかり守られていたのかと思えるようになるよ。

(これはさぶろうの作ったお伽噺。遊ぶためのお伽噺である。ばかばかしい?)

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よおく自分の中を見てごらん

2015年09月17日 10時20分03秒 | Weblog

わたしはわたしだけではない。(えっ、ご懐妊?)

それと似たようなものかもしれないね。孕(はら)んで孕んで孕んでいるところはね。

でも、もうそれらは物質体ではないから孕んでも孕んでも腹が出っ張っているわけじゃない。

ふううん。

ここはアパート(団地?)みたいなところでここに多くの善意の意思が住んでいる。

神さまだとか仏さまだとか。死んだはずのお父さんだとかお母さんだとか。

支持者支援者もいっぱいいる。加護者も大勢だ。導き手もわんさかいる。大所帯という所だ。

だから決してひとりじゃないんだ。寄り合っている。助け合っている。

宇宙もここにあるよ。内なる宇宙がここにあるよ。それもわたしだ。

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さみしがらなくていいようにしてあるよ。一人で苦しまないでいいようにしてあるよ。よおく自分の中を見てご覧。

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明るいときが彼らの夜である

2015年09月17日 10時12分01秒 | Weblog

朝になると夕顔が萎んでくる。夕顔の白い大きな顔が朝日に照らされてしおれていくのを見ていると切なくなる。暗い闇を明るくさせて咲いていた、その役割が終わったのだ。彼らにはこれからが睡眠のときである。明るいときが彼らの夜である。

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