私の 両親は 体一つで 田舎から出てきて、
働き口を選ぶことすらできず、とにかく あてがわれた場所で 懸命に働いてきた人である。
結婚後も 裕福な暮らしとは 無縁であったし、
その中で 私たちきょうだいを 必死に育ててくれた。
オイルショック(今の人は知らない人が多いと思う)で 失業し、
わずかなお金を 頭金にして 小さな家を建て ローンの返済に追われ、
夫婦で働きながら 苦しい生活を乗り切った。
私が 幼い時は まだ 余裕が あったので、好きな本を 買ってもらえるのが
楽しみだったし、どこかに出かける余裕は なかったから、
盆暮れに 田舎に 帰省する費用を工面するのも 大変だったらしい。
親が 働いている間、きょうだいの面倒は 私が見た。
しばらくは いいが、そのうちに 「お母さんは?」がはじまるし、
外に出てはいけない、誰か来ても 応対に出るなと 言われていたから
泣かれると 本当に困った。
泣いている間に 母が帰ってくると ほっとしたが、母も疲れているので
「なんで 泣かせたの!」と叱られたり 叩かれたりもした。
泣いていない時には たいていいたずらをしていたから、
そういう時には 「なんで こんなことさせてたの!」と どっちにしろ叱られた。
でもまあ 母にしたら 当たる所が どこにもなかったんだろうし、
お金の事で ピリピリしていたから 仕方がなかったのだと思う。
スーパーで 捨ててある キャベツの芯や 大根の葉を
もらってくることもあったし、
滞納した 水道や電気料金を 母の代わりに払いにいったこともある。
そういう暮らしをしてきたから、結婚して 夫が 失業した時も
別に 動じなかった。お金の工面の仕方を 考えて 実行するだけである。
家は 夫の 家族名義だったから、家賃やローンの心配がないのが
何より有難かった。
水道その他も 契約者は夫ではなかったので、夫の家族の口座から引き落とされていたので、
電気や水道の心配はしなくていいが、生活費の工面に困った。
まさか 他の 家族に キャベツの芯や 大根の葉を食べさせるわけにいかないし、
今は スーパーでも きれいに 外葉を はがして売っていたりするからだ。
大根の葉も 落としてあるし
何とかしなければ、と 家族の夕食が 終わって 老人たちが 早く寝付いた後に、
パートに出る事にした。深夜パートは 時給が高い。
そこで 働いて 得た収入の中で やりくりをした。
お金が 無い時は あるお金の範囲で暮らせばいいだけの話である。
人様が どう思おうと それは 関係ない。
夫は 貧乏暮らしをしたことがないので、それはそれは ショックだったらしいが、
私は 慣れているので 夫を慰め 毎朝 職探しに行く夫を 「がんばってね」と
送り出した。
夜働いて 昼間は 家事や育児や 老人の世話であるが
そのうちに 夫に 職が見つかれば 今より楽になるから
それまでの 間だ、と 気楽に構えていた。
夫も再就職ができたが、当然前の職場より 収入は 下がる。
夫は また 落ち込んでいたが
「続けていくうちに また 少しずつ上がるだろうから がんばってみたら」と
毎日 話をした。
「何円稼いできても やりくりは 私がするから そんなことは 気にしなくていいよ!」と
何でもない事を 気にしないで、と笑って話をした。
あれから 何年経つだろうか。
子ども達も 成長し、働く大人になり、家に食費を入れてくれる。
ありがたくいただき、贅沢な場所ではないが たまには 家族で外食もできるようになった。
長男が 小学生の時だろうか、「将来の夢」と言う作文の 宿題が出た時、
「僕は 大きくなったら 大きなステーキが 食べたいです」という意味の
事を 綴って 持って帰ってきた。先生の赤丸が 付けてあり、
「かなうといいね」というようなコメントが あったように覚えている。
その夢は 自分たちでかなえてくれて、息子たちが お金を出し合って、
家族で ステーキハウスに 連れて行ってくれた事がある。
高級店ではないが、家では食べられないものを 家族で食べた 思い出を 作ってくれた
息子たちに 感謝であり、毎月 決して高額ではないが、せっせと働き
生活費を 渡してくれる 夫にも 深く感謝である。
私は もう 働くことができないが、家族が 快適に仕事に行けるよう、
3種類の 作業着を わけ、それぞれの シミを 落としたり
繕いをしたりする毎日である。
そのくらいしかできないが、そんな 私を いたわってくれる家族に 深く感謝である。
清貧の思想、という本は 昔読んだが 私にはよくわからなかった。
毎日 与えられた 課題をどうこなすかで 精一杯で、貧乏の意味とか
その中で 生きる価値だのという事まで 頭が 回らなかった。
今も 夫は 今より裕福だった時代に 思いを馳せては 落ち込んでいるときがあるが、
様子を見ながら 「お父ちゃんのおかげで 今日も ご飯が食べられるし ありがとうねえ」と
声をかけ、「お金が ある人も 苦労が 全くない訳じゃないし、人には言わないけど悩みも
きっと あると思うよ」と励ます毎日である。
夫は幼いころ 祖父母から なんでも与えられて育ったので、
今 欲しいものが 買えなかったりすることが 大変辛いらしい。
私は 無いのが 当たり前、どころか 借金の返済で 親が苦労する中で育ったので
毎日 食事ができるだけでもありがたい。
夫は 結婚相手に もっと 裕福な家庭の 御嬢さんを望んでいたらしいが、
お互い貧乏な生活の 仕方を知らない同士で 結婚したら
どちらも 大変だったかもしれないし、結婚生活の維持も 難しかったかもしれない。
まあ 夫は 私と結婚したことに 満足ではないかもしれないが、
私は 夫を選んで 結婚したので、夫のためになることなら、苦にせずすることができたし、
夫や 息子が 元気で 働きに行けてることが 有難い。
人と比べて 落ち込むことが多い夫ですが、私には 夫が 唯一かつ一番の存在なので、
この先も一緒に 苦労があれば 乗り越えていきたいなあと思っています。
働き口を選ぶことすらできず、とにかく あてがわれた場所で 懸命に働いてきた人である。
結婚後も 裕福な暮らしとは 無縁であったし、
その中で 私たちきょうだいを 必死に育ててくれた。
オイルショック(今の人は知らない人が多いと思う)で 失業し、
わずかなお金を 頭金にして 小さな家を建て ローンの返済に追われ、
夫婦で働きながら 苦しい生活を乗り切った。
私が 幼い時は まだ 余裕が あったので、好きな本を 買ってもらえるのが
楽しみだったし、どこかに出かける余裕は なかったから、
盆暮れに 田舎に 帰省する費用を工面するのも 大変だったらしい。
親が 働いている間、きょうだいの面倒は 私が見た。
しばらくは いいが、そのうちに 「お母さんは?」がはじまるし、
外に出てはいけない、誰か来ても 応対に出るなと 言われていたから
泣かれると 本当に困った。
泣いている間に 母が帰ってくると ほっとしたが、母も疲れているので
「なんで 泣かせたの!」と叱られたり 叩かれたりもした。
泣いていない時には たいていいたずらをしていたから、
そういう時には 「なんで こんなことさせてたの!」と どっちにしろ叱られた。
でもまあ 母にしたら 当たる所が どこにもなかったんだろうし、
お金の事で ピリピリしていたから 仕方がなかったのだと思う。
スーパーで 捨ててある キャベツの芯や 大根の葉を
もらってくることもあったし、
滞納した 水道や電気料金を 母の代わりに払いにいったこともある。
そういう暮らしをしてきたから、結婚して 夫が 失業した時も
別に 動じなかった。お金の工面の仕方を 考えて 実行するだけである。
家は 夫の 家族名義だったから、家賃やローンの心配がないのが
何より有難かった。
水道その他も 契約者は夫ではなかったので、夫の家族の口座から引き落とされていたので、
電気や水道の心配はしなくていいが、生活費の工面に困った。
まさか 他の 家族に キャベツの芯や 大根の葉を食べさせるわけにいかないし、
今は スーパーでも きれいに 外葉を はがして売っていたりするからだ。
大根の葉も 落としてあるし
何とかしなければ、と 家族の夕食が 終わって 老人たちが 早く寝付いた後に、
パートに出る事にした。深夜パートは 時給が高い。
そこで 働いて 得た収入の中で やりくりをした。
お金が 無い時は あるお金の範囲で暮らせばいいだけの話である。
人様が どう思おうと それは 関係ない。
夫は 貧乏暮らしをしたことがないので、それはそれは ショックだったらしいが、
私は 慣れているので 夫を慰め 毎朝 職探しに行く夫を 「がんばってね」と
送り出した。
夜働いて 昼間は 家事や育児や 老人の世話であるが
そのうちに 夫に 職が見つかれば 今より楽になるから
それまでの 間だ、と 気楽に構えていた。
夫も再就職ができたが、当然前の職場より 収入は 下がる。
夫は また 落ち込んでいたが
「続けていくうちに また 少しずつ上がるだろうから がんばってみたら」と
毎日 話をした。
「何円稼いできても やりくりは 私がするから そんなことは 気にしなくていいよ!」と
何でもない事を 気にしないで、と笑って話をした。
あれから 何年経つだろうか。
子ども達も 成長し、働く大人になり、家に食費を入れてくれる。
ありがたくいただき、贅沢な場所ではないが たまには 家族で外食もできるようになった。
長男が 小学生の時だろうか、「将来の夢」と言う作文の 宿題が出た時、
「僕は 大きくなったら 大きなステーキが 食べたいです」という意味の
事を 綴って 持って帰ってきた。先生の赤丸が 付けてあり、
「かなうといいね」というようなコメントが あったように覚えている。
その夢は 自分たちでかなえてくれて、息子たちが お金を出し合って、
家族で ステーキハウスに 連れて行ってくれた事がある。
高級店ではないが、家では食べられないものを 家族で食べた 思い出を 作ってくれた
息子たちに 感謝であり、毎月 決して高額ではないが、せっせと働き
生活費を 渡してくれる 夫にも 深く感謝である。
私は もう 働くことができないが、家族が 快適に仕事に行けるよう、
3種類の 作業着を わけ、それぞれの シミを 落としたり
繕いをしたりする毎日である。
そのくらいしかできないが、そんな 私を いたわってくれる家族に 深く感謝である。
清貧の思想、という本は 昔読んだが 私にはよくわからなかった。
毎日 与えられた 課題をどうこなすかで 精一杯で、貧乏の意味とか
その中で 生きる価値だのという事まで 頭が 回らなかった。
今も 夫は 今より裕福だった時代に 思いを馳せては 落ち込んでいるときがあるが、
様子を見ながら 「お父ちゃんのおかげで 今日も ご飯が食べられるし ありがとうねえ」と
声をかけ、「お金が ある人も 苦労が 全くない訳じゃないし、人には言わないけど悩みも
きっと あると思うよ」と励ます毎日である。
夫は幼いころ 祖父母から なんでも与えられて育ったので、
今 欲しいものが 買えなかったりすることが 大変辛いらしい。
私は 無いのが 当たり前、どころか 借金の返済で 親が苦労する中で育ったので
毎日 食事ができるだけでもありがたい。
夫は 結婚相手に もっと 裕福な家庭の 御嬢さんを望んでいたらしいが、
お互い貧乏な生活の 仕方を知らない同士で 結婚したら
どちらも 大変だったかもしれないし、結婚生活の維持も 難しかったかもしれない。
まあ 夫は 私と結婚したことに 満足ではないかもしれないが、
私は 夫を選んで 結婚したので、夫のためになることなら、苦にせずすることができたし、
夫や 息子が 元気で 働きに行けてることが 有難い。
人と比べて 落ち込むことが多い夫ですが、私には 夫が 唯一かつ一番の存在なので、
この先も一緒に 苦労があれば 乗り越えていきたいなあと思っています。
清貧の思想 (文春文庫) | |
中野 孝次 | |
文藝春秋 |
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