ネットの 記事で、
「家にある本の数と 子どもの読解力には 相関関係がある」というようなのを
目にした。
その根拠がどこにあるのかは 私にはわからないが、
本の数よりも、「家族の誰かが 読書する姿」を
見る事が 自然な状態で 育つ子と、
本は 勉強のために読むもの、と 感じながら育つ子とは
読解力というか 知識欲に差が出るような気がする。
私の 両親は 学歴はなかったが、家には 書棚があり、
私が 文字を 覚え始めた頃から 経済的に豊かでなくとも
本は 買ってもらっていたから、好きな時に 本が読めた環境を
作ってもらえたことは 私や きょうだいにとっては
良かったと思う。
「本は 高いし 場所を取るから」と
図書館を利用する人も いると思うが、
気にいった本だけは 手元に 揃えておいて
いつでも 読めるようにしてあげてほしいと思う。
私の子どもたちも 私が 家事や 育児や介護の合間に
読書する姿を見ていたと思うし、
TVや 映像とは 違う 活字や文章から
得られる知識や 楽しさを 味わいながら育ったことは
何らかの力に なっているように思う。
TVやアニメが 悪いとは 言わない。うちの子どもたちも
TVアニメや ビデオはよく見ていた。
しかし 口語体や 単語での 会話しか 知らないままで
書かれた文(特に長文)の意味を読み取ることや、
場によって、あるいは 相手によって 話す言葉を
使い分けることは 難しいのではないかと思う。
「勉強が苦手」というお子さんに 会ったことがあるが、
数も数えられるし 計算も早い。
話し言葉で 尋ねると、問題の正解を 答えられる。
だが、問題文を 読み上げて 「答えわかる?」と 聞くと
「わからない」という。
問題文の 「OOさんは こうえんに いきました」の
いきました、が 何を意味するのか わかっていない。
なので、続く 文章の 「そこに おともだちが ふたりきました」を
読んでも、情景というか 場面が浮かんでこないのだ。
「ああ、OOさんが 最初に来て、その次に 友達が 二人来たのだから
今 公園に 3人いるんだな」という事も 当然わからない。
それでは 計算が いくらうまくても、式が立てられないから
答えは 出せない。
多分 普段の 会話も
長い会話ではなく
「買い物行くよ」「お菓子かっておいで」みたいな
感じが多いのではないかなあ、と思った。
やたら難しい言葉を使う必要は ないけれど、
理解できる言葉が多い方が 便利だし、
長い会話のやりとりや 聞き取り、
書かれた情報を 読み取る力は つけておいた方が
役に立つと思う。
自閉っ子は 知的には ハンディがあるけれど、
新聞に載っているくらいの 文字は 読むし、
家族以外の人とも 場に会った会話ができる。
緊急放送なども 理解できるので、
何かあった時は メールで
「電車の事故で 今OO駅で 止まってる」と
連絡をしてくる。
地名もかなり 覚えたし、日常で困る事は
ほとんどない。
役所や会社の 書類などには 困る事もあるようだが、
「どうしたらいいんですか?」「もう一回言ってください」などが
言えるので、何とか やっていけている。
最初は 「書類のまちがい」が 怖かったようだが、
「間違えたら そこに 判子を 押して そばに書き直せばいいのよ。
それは(訂正印)といって、ちゃんとした やり方だから、書き直しても
受け付けてくれるから、大丈夫」と 教えたら 安心したようだ。
塾にも 公文にも 通ったことはないが、
日常で 必要になりそうな文字や、本人が 「あれ何?」と
聞いてきた文字や記号は、その場で 答えてやった。
疑問に思った時に すかさず教えてやると、
知的障害や 発達障害であっても すぐ覚える、というのが
私が 子育て中に 感じたことである。
その時学校で習っていない事や 勉強に関係なさそうな事でも、
本人が 興味を持った事は とにかくわかる範囲で答え、
私では 無理な事は 「先生に 聞いてみようね」と いい、
連絡帳に 「OOに関心がありますので、教えていただけると助かります」と
先生に お知らせしておいた。
「そんなことは いいから こっちを 覚えて!」と
やっていたら、どちらの子も 意欲を失っていたかもしれない、と
振り返って今思う。
わからない事を 知る、知識を得る、という事は
本来楽しい事のはずだと思うから。
「家にある本の数と 子どもの読解力には 相関関係がある」というようなのを
目にした。
その根拠がどこにあるのかは 私にはわからないが、
本の数よりも、「家族の誰かが 読書する姿」を
見る事が 自然な状態で 育つ子と、
本は 勉強のために読むもの、と 感じながら育つ子とは
読解力というか 知識欲に差が出るような気がする。
私の 両親は 学歴はなかったが、家には 書棚があり、
私が 文字を 覚え始めた頃から 経済的に豊かでなくとも
本は 買ってもらっていたから、好きな時に 本が読めた環境を
作ってもらえたことは 私や きょうだいにとっては
良かったと思う。
「本は 高いし 場所を取るから」と
図書館を利用する人も いると思うが、
気にいった本だけは 手元に 揃えておいて
いつでも 読めるようにしてあげてほしいと思う。
私の子どもたちも 私が 家事や 育児や介護の合間に
読書する姿を見ていたと思うし、
TVや 映像とは 違う 活字や文章から
得られる知識や 楽しさを 味わいながら育ったことは
何らかの力に なっているように思う。
TVやアニメが 悪いとは 言わない。うちの子どもたちも
TVアニメや ビデオはよく見ていた。
しかし 口語体や 単語での 会話しか 知らないままで
書かれた文(特に長文)の意味を読み取ることや、
場によって、あるいは 相手によって 話す言葉を
使い分けることは 難しいのではないかと思う。
「勉強が苦手」というお子さんに 会ったことがあるが、
数も数えられるし 計算も早い。
話し言葉で 尋ねると、問題の正解を 答えられる。
だが、問題文を 読み上げて 「答えわかる?」と 聞くと
「わからない」という。
問題文の 「OOさんは こうえんに いきました」の
いきました、が 何を意味するのか わかっていない。
なので、続く 文章の 「そこに おともだちが ふたりきました」を
読んでも、情景というか 場面が浮かんでこないのだ。
「ああ、OOさんが 最初に来て、その次に 友達が 二人来たのだから
今 公園に 3人いるんだな」という事も 当然わからない。
それでは 計算が いくらうまくても、式が立てられないから
答えは 出せない。
多分 普段の 会話も
長い会話ではなく
「買い物行くよ」「お菓子かっておいで」みたいな
感じが多いのではないかなあ、と思った。
やたら難しい言葉を使う必要は ないけれど、
理解できる言葉が多い方が 便利だし、
長い会話のやりとりや 聞き取り、
書かれた情報を 読み取る力は つけておいた方が
役に立つと思う。
自閉っ子は 知的には ハンディがあるけれど、
新聞に載っているくらいの 文字は 読むし、
家族以外の人とも 場に会った会話ができる。
緊急放送なども 理解できるので、
何かあった時は メールで
「電車の事故で 今OO駅で 止まってる」と
連絡をしてくる。
地名もかなり 覚えたし、日常で困る事は
ほとんどない。
役所や会社の 書類などには 困る事もあるようだが、
「どうしたらいいんですか?」「もう一回言ってください」などが
言えるので、何とか やっていけている。
最初は 「書類のまちがい」が 怖かったようだが、
「間違えたら そこに 判子を 押して そばに書き直せばいいのよ。
それは(訂正印)といって、ちゃんとした やり方だから、書き直しても
受け付けてくれるから、大丈夫」と 教えたら 安心したようだ。
塾にも 公文にも 通ったことはないが、
日常で 必要になりそうな文字や、本人が 「あれ何?」と
聞いてきた文字や記号は、その場で 答えてやった。
疑問に思った時に すかさず教えてやると、
知的障害や 発達障害であっても すぐ覚える、というのが
私が 子育て中に 感じたことである。
その時学校で習っていない事や 勉強に関係なさそうな事でも、
本人が 興味を持った事は とにかくわかる範囲で答え、
私では 無理な事は 「先生に 聞いてみようね」と いい、
連絡帳に 「OOに関心がありますので、教えていただけると助かります」と
先生に お知らせしておいた。
「そんなことは いいから こっちを 覚えて!」と
やっていたら、どちらの子も 意欲を失っていたかもしれない、と
振り返って今思う。
わからない事を 知る、知識を得る、という事は
本来楽しい事のはずだと思うから。
子どもの学力は「読解力」で決まる! 小学生のうちに親がゼッタイしておきたいこと | |
齋藤 孝 | |
朝日新聞出版 |
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