ヌーおぢさんは投稿する

ネタが尽きるまでで始まり、現在に間延びしている・・・

黒い雨に打たれて

2012-08-07 05:00:00 | 雑記
私の父は黒い雨に打たれている。それ以外の詳細は聞かされていない。

ただ、悲惨な惨状だったとだけ。聞いても口が非常に重く閉ざされていた。

母も父からはほとんど何も聞いていない。喋らなかったと。



6日、仕事帰りに実家に寄った時に、慰霊祭のニュースを見ながらお袋が語った。

母から初めて聞いた話が、幾つかあった。



母は旧 加計町の山奥に住んでいた。その日の朝は突然の強風が吹いた。

加計の街中の生徒(国民学校)らとともに麻を縫う仕事を手伝っていた。

何事だろうかと思った。午後、黒い雨が降った。

真っ黒では無くかなりの薄墨のようで、白い服が汚れると言うのが分かる程度。

黒い雨の範囲が取り沙汰されているが、加計での降雨は単なる埃を含んだだけのものなのか、

放射能物質を含んでいたのか。



お札が田んぼに落ちていたと後年、祖母が母に語った。

上昇気流に乗り、数十キロ先まで吹き飛ばされていたのである。



父は持病で痔ろう持ちであったが20代には年々悪くなり、出血も酷くなっていった。

夏でも股下(ステテコ)を何枚も持ち歩いて仕事をしていた。

医者からは40才までは元気で居られるかどうかと。

これが黒い雨によるものかどうかは不明。



父の祖父は50代で他界、長男の父は一家の大黒柱として年の離れた兄弟の面倒を。

皆が働けるようになり、30代になってからの結婚だった。

家族と自分の健康と言うことで結婚に対してどのような思いであっただろうか。

母は黒い雨のことを後年、父から聞いたそうだが私が無事生まれてからのこと。

幸いにも父は40代を無事乗り切った。



父が50代の時に精密検診を受ける機会が。

結果、何ら問題無いことに非常に喜んでいたと母から聞かされたことが印象的に残っている。

黒い雨に打たれていることから尚更、私の記憶に鮮明に残っている。



祖父(母の父)は満州より引き揚げ後、勤労奉仕で安佐南区(現 祇園小学校)にいた。

祖母が様子伺いで祇園小学校へ訪ねて帰宅した翌日に、原爆が投下された。

幸い祖父は無事であったが、直後から一ヶ月に亘り市内の片付けを行った。

亡くなった人を引っかき棒で山に積んで火葬。あちらこちらに人の山が。

異様な臭いが至るところに充満して酷かったと。

それ以降は、原爆についてほとんど話さなかったという。



父も祖父も語れないほど、口を閉ざすほどの惨状を見た。

その両名が逝って久しい。その口が開かれることは無い。

どのような思いであったのか。今では、それは定かでない。



今、その胸の内を勇気をもって開かれて語られる人が語り部として、次世代へ向かってと増え

ているという。

悲劇を過去のものとして封じ込めてはいけないのである。