平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

あなたがたはわたしの友です(2015.1.11 礼拝)

2015-01-12 08:34:33 | 礼拝メッセージ
2015年1月11日礼拝メッセージ
『あなたがたはわたしの友です』
【ヨハネ15:9~14】

はじめに
 これまで年末感謝礼拝、元旦礼拝、新年礼拝と3回続けてヨハネの福音書の最後の晩餐の箇所を開きました。そして今、もうしばらくヨハネの福音書の最後の晩餐でのイエスさまのメッセージに耳を傾けるのも良いかなと感じていますので、きょうも、ヨハネの最後の晩餐の箇所からメッセージを取り次がせていただきます。
 きょうの箇所では、イエスさまは弟子たちに「あなたがたはわたしの友です」とおっしゃいました。イエスさまは弟子たちの友である、すなわちイエスさまは私たちの友であるとは、どういうことなのか、このことに思いを巡らしてみたいと思います。

私たちはなぜ互いに愛し合わなければならないか
 先ず、15章の14節から見て行きます。

15:14 わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。

 イエスさまが弟子たちに命じたこととは、12節の戒めのことと考えて良いでしょう。12節でイエスさまは、このようにおっしゃっています。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

 この戒めをイエスさまは、何度も繰り返していますね。先週の礼拝でも見た13章34節、

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 それから、きょうの箇所のもう少し後で、もう一度言っています。15章の17節です。

15:17 あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。

 イエスさまが、「互いに愛し合いなさい」という戒めを、このように何度も繰り返すということは、この戒めがいかに大切であるかということを、よく物語っていると思います。なぜ、互いに愛し合うことがそれほどまでに大切なのか。それは、ヨハネの手紙第一を読むと、良くわかると思います。ヨハネの手紙第一4章の7節から10節まで、ここは交代で読みましょう(新約聖書p.469)。

4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 ここでヨハネは、私たちが互いに愛し合わなければならないのは、愛のある者は神を知っており、愛のない者には神はわからないからだ、と言っています。なぜなら神は愛だからです。そして、神さまは、その愛を十字架で示して下さいました。もし私たちが互いに愛し合わないなら、たとえ十字架の愛を知識として知っていたとしても、実際には知らないのと同じことだということになります。

御父と御子と交わる喜び
 ヨハネ15章に戻ります。15章13節、

15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 イエス・キリストはいのちを捨てて、私たちに大きな愛を示して下さいました。私たちは、このイエス・キリストの大きな愛を宣べ伝えて行きたいと思います。
 私たち自身は、イエスさまのような大きな愛を示すことは、なかなかできないでしょう。世の中には、それができる人もいます。駅のホームから線路に転落した人を助けたり、災害の時に自分の命よりも人の命を優先して救助にまわったりすることができる人もいます。そういうことは、なかなかできることではないと思います。しかし、そんな私たちでも、イエス・キリストの愛を宣べ伝えることはできます。それは人の魂を救うことですから、イエスさまも喜んで下さいます。人を教会に導き、もしその人がイエスさまを信じるに至るなら、私たちはイエスさまと共に大きな喜びを分かち合うことができます。
 イエスさまが、「あなたがたはわたしの友です」の中には、様々な意味が込められていると思いますが、きょうは、私たちがイエスさまの友だちとして、イエスさまと共に喜びを分かち合うことの幸いに思いを巡らしたいと思います。
 もう一度、ヨハネの手紙第一を見ましょう。今度は1章の1節から4節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.465)。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 御父と御子との交わりを持つようになることは、大きな喜びです。私たちはこの交わりによって得られる大きな喜びを、もっと多くの方々と分かち合いたいと願っています。そのために、私たちはこの会堂を拠点にして伝道の働きをしています。
 御父と御子との交わりの中に入れていただくことが大きな喜びであることは、きょうの聖書箇所のヨハネ15章にも少し違う表現ですが、書いてあります。行ったり来たりで申し訳ありませんが、9節から11節までを交代で読みましょう。11節はご一緒に読みます。

15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
15:10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

友だちはイエスと共に喜ぶ
 御父と御子との交わりの中に入れていただくなら、私たちは喜びで満たされます。私たちは、この地域の方々にも、この交わりの中に入っていただきたいと願っています。そして、もし一人でも魂が救われるなら、私たちはイエスさまと共に喜び合いたいと思います。そのようにイエスさまと一緒に喜び合うことができることが、イエスさまと友だちである、ということです。新約聖書の中で、この「友」はギリシャ語では「φιλοs(フィロス)」です。「フィロス」は「親しい」という意味の形容詞です。「親しい」という形容詞が名詞的に使われていますので「親しい者」となり、それがつまり「友だち」ということになります。この「親しい者」、すなわち「友だち」の意味の「フィロス」は特にルカの福音書で多く使われています。
 最後に、ルカの福音書の15章を見て、きょうのメッセージを閉じたいと思います。ルカ15章の4節から7節までを交代で読みましょう(新約聖書p.146)。

15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

 ここは皆さんのほとんどが良くご存知の箇所だと思いますが、6節に出てくる「友だち」が「フィロス」です。友だちは、いなくなった羊が見つかったことを共に喜び合います。
 私たちも、この友だちのようにイエスさまと共に喜び合える機会がもっともっと増えると良いですね。今までイエスさまのことに全く関心が無かった人が教会に導かれ、そして悔い改めてイエスさまを信じるようになる、その様子を見ることは私たちにとっては大きな喜びです。私たちはもっともっと、その喜びを味わうことができるようになりたいと思います。

おわりに
 そのための拠点となる会堂が、今や老朽化していますから、私たちは新しい会堂を建てたいと願っています。そして私たちはイエスさまの友だちとして、イエスさまがいなくなった羊を救い出して下さった時には、イエスさまと共に盛大に祝いたいと思います。そのような機会がもっと増えることを期待しながら、私たちは伝道の働きを続けて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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