平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

認定トライと信仰義認(2015.10.7 祈り会)

2015-10-09 06:18:28 | 祈り会メッセージ
2015年10月7日祈り会メッセージ
『認定トライと信仰義認』
【ローマ3:21~28】

はじめに
 いまe-ラーニングでローマ人への手紙を学び、インターネット上で意見を交換する中で私が感じていることは、やはり皆さんが当たり前のように普通の時間感覚で物事を考えていることです。つまり旧約の時代があって、その次に新約の時代があるという時間の流れの通りの時間感覚です。
 もちろん、人間はこの時間の流れに縛られていますから、人間の側はこの通りの時間で良いわけです。これは全く問題ありません。しかし、私が問題に感じるのは、多くの人が神様もまた人間と同じ時間の流れの中にいると考えているようであるということです。神様はそうではなく、もっと自在に過去と未来の中を行き来しているというのがヨハネの福音書を通して私たちが学んでいることです。契約も義認(義と認めること)も神様の側で行う行為です。その神様は人間とは異なる時間の中にいることを、もう少し考慮すべきではないかとローマ人への手紙の学びの中で感じています。
 そこで今日は、神様の時間を考慮した上での信仰義認について少し考えてみたいと思います。義と認めるのは神様ですから、人間の私がとやかく言う問題ではないかもしれませんが、Aさんのこともあり、Aさんのことを気にされている方もおられますから、信仰義認について考えてみたいと思わされています。つまりAさんのことを神様は義と認めたであろうかということです。もちろん、これは神様の側が決めることですから、私たちにはわからないことです。わからないということが大前提ですが、その上で少し考えてみたいと思っています。なお、聖書箇所は信仰義認のことが多く書かれているということでローマ3章を選びましたが、きょうはこの箇所について特に学ぶことはしません。

ラグビーの認定トライと信仰義認
 さて、信仰義認について考えるヒントとして、いったん聖書を離れて、ラグビーの認定トライを考えましょう。いまラグビーのワールドカップがイギリスで開催されていますね。日本代表が予選リーグで大健闘していてニュースでも大きく取り上げられていますから、テレビでニュースをご覧になった方も多いことと思いますし、中には私のように試合の中継をテレビ観戦した方もおられるかもしれません。先日は日本代表とサモアの試合があり、日本は前半に認定トライで得点を取るという場面がありました。ラグビーのトライというのは、相手陣地のゴールの領域にボールを接地させることです。普段よく見るのは、選手が走って行って相手のゴール領域に飛び込んでボールを接地させる姿です。その他にもスクラムトライというトライがあります。スクラムの中にボールをキープしたままで押し込んで行き、相手のゴールラインを越えた所までボールを運べればスクラムトライになります。先日の日本とサモアの試合では、日本がスクラムで押し込んで行き、ゴールラインの近くまで行きましたが、サモアのスクラムがつぶれてしまったためにゴールラインを割ることはできませんでした。しかし、審判が日本のスクラムの圧力が圧倒的に強かったことを認め、もしスクラムがつぶれなければトライできていたとして認定トライの判定を出しました。つまり、実際にはトライしていなくても審判の目にはトライした姿が見えていたということです。
 これを信仰義認に置き換えるなら、実際に信仰告白に至らなくても神様の目に信仰告白する姿が見えているのなら義と認定して下さるのではないかと思うのです。では、信仰告白していなくても、どのような状態であれば神様には信仰告白の姿が見えているのでしょうか。

個人の信仰による全体の祝福
 次の聖日の礼拝ではローマ人への手紙を見ながらアブラハムの信仰とイエスさまの十字架を並べて考えてみたいと思っています。パウロは神様がアブラハムの信仰を義と認めたことをローマ人への手紙に書いています。創世記15章にそのことが書いてありますから、次の礼拝では創世記15章も開くことを予定していますが、ここにはアブラハムの信仰によってイスラエルの民族の祝福が約束されたことが書かれています。ここから分かることは、アブラハム個人の信仰がイスラエル民族全体の祝福をもたらしたということです。また、イエス・キリストお一人の十字架は異邦人をも含む人類全体の祝福をもたらしました。そして私は、この個人と全体の関係は私たちの一人一人と教会全体との関係においても同様であるのではないかと思うようになりました。つまり私たち一人一人の信仰が教会全体の祝福をもたらすということです。そこから私は、もしある人が教会に自分の居場所があることを感じたなら、将来いずれは洗礼に至ると認定して、その人を義と認めて下さることがあっても良いのではないかと思い至りました。それは私自身の経験によります。
 私が高津教会に通うようになってから、間もなく私は教会こそが私が心の奥底で求めていた自分の居場所であったことに気付きました。無意識のレベルでは、多分一回目に高津教会に行った時から、そのことを感じていたのだと思います。それは8月のことでしたが、そうして私はクリスマスまで一回も礼拝を欠席することなく教会に通い、受洗に至りました。一回目に高津教会を訪れて会衆席に座り、教会の皆さんと一緒に礼拝に参加している中で、私は何となく居心地の良いものを感じ、そうして私はこの教会の一員になりたいと思って洗礼を受けたいと願い、主牧の先生は洗礼を授けて下さいました。罪のことはまだほとんど分かっていなかったのですが、教会の家族の一員となりたいと願い、そのことが認められたのですね。そして一人の受洗が教会全体の祝福であることは皆さんご存知の通りです。

自分が神の家族の一員という気付き
 この私の経験とアブラハムの信仰、そしてイエス・キリストの十字架という個人と全体との関係から、信仰とは自分がこの神の家族の一員とされていることに気付くことではないかと思うようになりました。それは無意識であっても良いわけです。無意識であっても、このことを感じているのなら教会から離れずに、いずれは洗礼に至ります。すると認定トライのことを考えるなら、自分が教会に居場所を見つけたなら、たとえ実際に洗礼に至らなくても神様は義と認めて下さることがあるのではないかと思うのです。
 人間の時間の中では、信仰告白をした時点が義と認められた時となるのだと思いますが、神様の時間の中では、もっと早くに認定されているかもしれない、そのように私は感じています。
 そこでAさんのことですが、Aさんはご自分の聖書を買い求め、私の説教にも耳を傾けて下さっていました。祈祷会が主(おも)でしたが、礼拝にも来て下さいました。それは誘われたから来ていたのかもしれませんが、何度も来て下さいましたから、きっとこの教会をご自分の居場所の一つとして思って下さっていたことと思います。私はそのことで神様が義と認めて下さったのではないかという希望を持っています。
 教会は、救われた者たちが集まって形成される場所と考えがちだと思いますが、もともと私たちはイエスさまの十字架によって一つとされている筈なんですね。ですから教会を訪れる人も、それが初めて教会を訪れるように見えても、実はもともと教会の一員であったのだということです。ルカの15章で100匹のうちの1匹がいなくなり、そして見つかった時に皆は大喜びしました。10枚の銀貨の1枚がなくなり見つかった時も皆で大喜びしました。それは、もともと一つとされていたのに、そこから迷い出てしまったものが見つかったから皆で大喜びしたのでした。
 放蕩息子もまた、もともとは家族の一員でしたが遠い外国に旅立ってしまいました。しかし放蕩息子は我にかえり、自分が父親の息子であり、家族の一員であったことを思い出して故郷に戻りました。そこで父親は祝宴を開き、こう言いました。

「いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」(ルカ15:32)

 Aさんもまた、もともと私たちの家族の一員であったのだと思います。そのことを、Aさんが無意識にでも感じて下さっていたのなら、神様は義と認めて下さっているのではないかと私は希望を持っています。
 信仰義認は神様が決めることですから、これ以上のことは私たちにはどうしようもないことであり、御手に委ねるしかありませんが、神様は時間を超越した中におられて私たち人間のようには時間に縛られているわけではないことは、覚えておきたいと思います。

おわりに
 きょうは認定トライと信仰義認の話をしました。ラグビーに認定トライがあるのですから、信仰義認にも認定による義認がもしかしたらあるのではないかという話をしました。
 繰り返しますが、これは神様が決めることですから、御手に委ねるしかありません。どのような判断が為されるとしても、神様は正しいお方ですから正しい判断を為さいます。この神様を信頼して私たちは神様に付き従って行きたいと思います。
 お祈りしましょう。
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